昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§28 雄略と宋。

 専門家に解けない謎は素人にも解けない。それが一般的な常識というものなのでしょうが、素人からすれば、専門家に解けない謎は素人でなければ解けない、というのが常識なのです。
 私事で恐縮ですが、私はかつて友人と一人の女性を張り合ったことがあります。その時に思ったことなのですが、彼女が友人になびかなければ自分になびくと。しかし、結果はどちらも振られてしまいました。思うに、素人の常識よりも厳しいのが現実でございました。世の中は必ずしも二者択一で成り立っているわけではないようです。
 しかし、陰陽思想は、陰か陽かの世界を問う思想です、陰で解けなければ陽で解けるという思想です。そういうわけで、常識にもめげず、現実にも屈せず、宮沢賢治のようにと思っている今日この頃でもあります。

 さて、船尽くしの観は否めませんが、船氏は王後墓誌を始め、野中寺の弥勒造像銘、さらには宇治橋碑銘とかかわりがある一族です。今少し連想を進めるのも素人の役目なのかもしれません。

船氏8代

 王後墓誌によれば、王後より船氏の中祖王智仁まで3代を遡ります。1代を20年ほどとすると、3代で60年ほどになります。王後が死亡したのが641年ですから、これより60年ほど遡れば580年前後となり、これが計算上の王智仁の死亡年となります。また、彼の活動した期間を20~30年間と見積もれば、その開始年は550年頃となります。王辰爾が船史となったのが欽明14年(553)年ですから王智仁と王辰爾は重なります。通説では、王智仁は王辰爾のことだともされています。おそらくは、そうなのでしょう。智仁は "ちに" と発音するのかも知れません。
 ところで、墓誌が作られた代より数えると王智仁は4代目に当たります。王智仁は中祖ということですから、計算上これからさらに4代を遡れば上祖ということになります。無論、王智仁の場合、中祖とはいっても歴代の真ん中というよりも中興の祖という意味合いの方が強いかもしれません。なにせ既に述べているように、史が彼の名前にあやかって彼らの祖の名前に利用した可能性もあるのですから。しかし、仮にそうだとしても4代遡っての中祖です、上祖まで8代くらいはあったとするべきでしょう。そうすると、550年から80年遡った頃が上祖の活動を始めた時期になります。その時期は470年頃に当たり、倭王武の兄の興の時代となります。また、漢城時代の百済の滅亡の年475年にも近い時期ともなります。
 雄略紀には、20年(476)冬、高麗王が大軍をもって百済を滅ぼしたとあります。文献の上では1年の誤差になりますが、分注には「蓋鹵王乙卯年(475)、狛大軍来」とあり、前年の事をもまとめて記事にしたものと思われます。ただ問題なのは、倭王武を雄略と見做した場合の『宋書』との齟齬です。倭王武は477年から500年代初頭頃までの治世があったと『宋書』から推測できます。しかし、雄略紀では雄略は457年から479年までの治世となっています。『日本書紀』編纂者が『宋書』を参考にしなかったとも言えますが、雄略紀には呉との交渉の記事が頻繁に見られます。
 呉、記事では "くれ" と読ませていますが、これは中国の南朝のことで、当時南朝といえば宋(420年~479年)しかなく、雄略が交渉していたのは倭王武朝貢していた宋ということになります。思うに、宋の末年と雄略の末年が同じであることから、『日本書紀』は雄略を武ではなく単に宋に合わせたのではないのかとも見えます。と言うのも、雄略の即位年(457)が宋の世祖孝武帝の年号大明元年(457)にも当たるからです。それに、この孝武帝とその兄との行状は雄略とその兄安康の行状によく似ているようでもあります。あるいは、『日本書紀』は『宋書』を参考にしなかったのではなく、むしろ参考にし過ぎたのかも知れません。それはともかく、雄略の時代、呉との交渉に当たっていたのが史部の身狭村主青(むさのすぐりあお)と桧隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)なのです。
 ところで、雄略紀にはこの二人の史に関して次のような記事があります。

天皇、み心を以って師と為し。誤ちて人を殺すこと衆し。天下誹謗して言わく。太悪天皇也。唯寵愛する所は、史部の身狹村青と檜隈民使博徳等也。

 身狭と桧隈は大和にありますから、史部としては東漢系ということになりますが、この場合は単に東史とした方が話としては分かりやすいかもしれません。25章で東西の史について少し述べたと思います。船史や田辺史はいわゆる西史に含まれますが、上の記事は、彼ら西史の雄略の東史への贔屓を非難してのものとも見えます。しかし、雄略がなぜ東史を贔屓にしたのか、また、なぜ西史の目にはそのように映ったのか、取るに足りない素人の勘ぐりには違いありませんが、少しばかり時間を費やしてみましょう。

雄略と欽明

 冒頭でも述べていますように、史部の設置は雄略が最初です。また、雄略紀に西史系の田辺史伯孫が登場していることから、史部は最初から東西に設置されていたという事になります。このことは、雄略が東史だけではなく西史をも必要としていたことを教えています。そうなると、雄略がなぜ東史の二人だけを偏重したのか。やはり、少し考えてみる必要があるようです。
 雄略の宮は泊瀬朝倉宮(奈良県桜井市)で、同じ大和とはいっても身狭や桧隈とはかなりの距離があり、雄略の膝下とは言い得ません。また、雄略の陵墓は丹比高鷲(大阪府羽曳野市)で、これは西史の本拠地ですから、雄略と東史の関係は地理的からのものではないことが分かります。では、何にその起因を求めれば善いのか。雄略紀をどう読み返しても、天皇と二人との関係は、二人が史であることと二人が天皇に寵愛されたという記事以外にはなにもありません。このことは、二人というよりも身狭村主青と桧隈民使博徳は最初から雄略に付随していたと解釈する他はないようです。ただ、付随という言葉がこの場合適切か如何か。そこで、付随を次のように解釈します。
 最初から雄略に付随していたものは、雄略の死後も付随すると。こう解釈した場合、身狭村主青と桧隈民使博徳は、雄略の死後も付随して、その陵墓の地である丹比高鷲に付いて行ったということになります。そうすると、この二人の史は当然西史となり、名前も高鷲村主青と丹比民使博徳となります。これを逆に考えてみましょう。雄略は河内から史を連れて大和に入った。結果、河内と大和の二箇所に史の本拠地が出来た。そして、雄略が連れて来た高鷲村主青と丹比民使博徳は身狭村主青と桧隈民使博徳へと変わった。
 思うに、史の先祖はすべて応神朝にその基礎を置きます。言い方を変えれば、史はすべて応神に付随します。もう少し変えると、史は応神天皇陵の近くに居住した。そして、その一部が大和に入り東史となった。応神紀によれば、阿直岐史の先祖は軽の坂の上辺りに住んだといいます。身狭村主青と桧隈民使博徳も、その呼び名からして、やはりその近くに住んでいたことになります。実は、この地には見瀬丸山古墳があるのです。見瀬は身狭のことです。つまり、見瀬丸山古墳の主が高鷲村主青と丹比民使博徳を連れて大和の見瀬あるいは桧隈の地に入ったということです。
 見瀬丸山古墳を雄略の墓と主張するつもりは毛頭ありません。本墳には宣化と欽明が眠ると24章では主張しているのですから。さて、宣化の和風諡号小広国押盾です。したがって、その弟である欽明の和風諡号若武なにがしと呼ばれる可能性があります。
 ワカタケルといえば雄略。雄略といえば倭王武。普通に「記紀」を読んでいれば誰もがそうなります。しかし、果たしてそうなのだろうか。『日本書紀』は雄略を倭王武にではなく宋に合わせています。それに、若、幼あるいは稚は、普通親や兄の名前の上につけてその親の子であること、あるいはその兄の弟であることを示すためのものと言えるのです。無論、これは今日的な考えで、当時はそうではなかったとも言えます。しかし、若、幼、稚は当時からそういった意味で使われていたからこそ今日そういった意味で残ったと見るべきでしょう。そう見た場合、次のようなことが言えるようになります。
 先ず、幼武と呼ばれる雄略ですが、どうしたことか彼には武という名前のつく親兄弟が一人もいません。逆に欽明には、武と呼べる兄が宣化の他にもう一人いるのです。安閑がそれで、彼の名は広国押金日とされています。なお、雄略の子の清寧の名が白髪広国押稚日本根子で、雄略よりも欽明の兄弟の名に似ています。また、稚日本根子とあることから、清寧の父あるいは兄の名が日本根子である可能性もあります。
 次に、稚郎子(わきいらつこ)や稚子宿禰(わくごのすくね)といった呼び名ですが、これだけでは特定の個人を指すことは出来ません。そこで、菟道稚郎子としたり雄朝津間稚子宿禰とすることにより、前者が応神の皇太子であることが分かり、後者は允恭の和風諡号であることが分かるようになります。雄略は、正確には大泊瀬幼武ですから、あるいは幼武だけでは特定の個人を指せないのかも知れません。そうなると、欽明も志帰嶋若武としなくてはならないのかも知れません。それとも、泊瀬若武とする方が善いのだろうか。欽明紀には、その31年に天皇が 「泊瀬柴籬宮に幸す」 という記事もあるのですから。
 どうやら話が思わぬ方向に向かって行っているようです。無論、この向かう先も本稿にとっては大事ではあります。しかし、ここでは見瀬丸山古墳が "ワカタケル" という名で東史につながっているという結論、ただし私論ですが、これを基に話を進めています。
 稚拙な例えかもしれませんが、明治維新によって京都が東京に移ります。無論、京都が移動をしたというわけではありません。移動したのは象徴としての都と幾ばかりかの人です。ほとんどの人は残されました。思うに、見瀬丸山古墳の前代は河内大塚山古墳です。この関係は河内から大和への遷都とも呼べます。取り残された者の言い分が、あるいは身狭村主青と桧隈民使博徳への非難だったのかも知れません。
 雄略は、「記紀」を読む限り、君主とは言い得ません。しかし、『万葉集』も『日本霊異記』もその巻頭を飾るのは雄略でありその時代です。雄略の宮は泊瀬朝倉宮ですが、『日本霊異記』には磐余宮(いわれのみや)にも居たともしています。奈良県桜井市脇本に5世紀後半代の柱穴群を含む脇本遺跡があります。一説ではそれが雄略の泊瀬朝倉宮だともしています。ただ、脇本遺跡には6世紀後半から7世紀にかけてのて大型建物跡なども出土しており、これを欽明天皇の宮殿と推測する人もいます。
 思うに、雄略と欽明はいろいろな意味で近しい関係にあるようです。『万葉集』や『日本霊異記』は雄略をその巻頭に据えてはいますが、その巻頭以後には顕宗も仁賢もそして継体さえも顔を出してはいません。『万葉集』では雄略の次に顔を出すのが舒明、『日本霊異記』では欽明となっています。雄略を欽明、正確には阿毎多利思比孤とした方が『万葉集』にも『日本霊異記』にも負担がかからないように見えます。
 さて、雄略紀の時代は宋の後半代に当たります。しかし、雄略を倭王武にあてはめても 『宋書』とは整合しません。しかし、『日本書紀』の編纂者が宋を知らなかったとは考えられません。なぜなら、『日本書紀』の暦日干支の半分は元嘉暦によるものだからです。元嘉暦はその名が示す通り宋の元嘉22年(445)より始まる暦なのです。
 既に述べたと思いますが、雄略紀は雄略を宋の年譜に合わせています。特に安康から始めれば孝武帝との整合もよくなります。安康の即位年が453年。孝武帝も同じく453年即位なのです。さて、宋は孝武帝の兄以降、その身内に対してあるいはその身内から、さらにはその臣下に対してあるいはその臣下から血なまぐさい抗争の歴史を繰り返す道を歩み歩まされもしています。実際、この年より宋末の479年までに臣下によって殺害された廃帝が二人も出ています。穿った見方をすれば、安康と雄略紀の血なまぐさい記事はこれに合わせたものとも言えます。
 ただ、仮にそうだとしても『日本書紀』の編纂者が自分たちの天皇にそうした話を無条件で押し付けて平然としているというのも不思議な気がします。あるいは、彼らは虚構を前提として『日本書紀』を編纂していたのかも知れません。たとえば、孝武帝は興武帝ともできます。これは倭王興倭王武の両者をまとめて表わす名前ともいえるのです。そうした観点から『日本書紀』を見た場合、血なまぐさい話を持つ、雄略、武烈、崇峻の三天皇の和風諡号に "泊瀬" が付くことの意味は大きいと考えねばなりません。
 泊瀬は初瀬とも書きます。初瀬の意味は瀬の始まる発瀬でもあり、大和川の出発地点でもあるのです。そして、この地から大和の国は排し開け始まるのです。大和の枕詞を冠する敷島天皇(欽明)を天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわ)と呼ぶのもその故です。そして、そうでありながら、そこに、断絶や血なまぐさい話を持ち込む『日本書紀』は、明らかに大和を否定しています。
 思うに、『万葉集』には近江遷都や平城遷都の時多くの人々が飛鳥を懐かしんで詠んだ歌が残されています。それと同じように、河内から大和への遷都の時、西史達が河内を懐かしんだことは想像に難くはありません。彼らは、仁徳を聖帝と仰ぎ、難波長柄豊碕宮を「其の宮殿之状は不可殫論(たとえようがない)」と賞賛し、他方では大和を誹謗してもいるのです。また、河内飛鳥を近飛鳥(ちかつあすか)と呼び、大和飛鳥を遠飛鳥(とおつあすか)と呼ぶのもその故です。
 天武14年6月20日、大倭連(おおやまとのむらじ)以下東漢を含む11氏が忌寸(いみき)の姓を賜ります。しかし、何故かそのなかには船氏も田辺史も入ってはいません。