昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§25 船氏の道標。太安万侶の道標、その25。

 古墳は巨大なモニュメントである。しかし、古墳が我々に語りかけることはなく、大きな沈黙のままに横たわっている。我々に語りかけるのは、決まって歴史家であり考古学者でありそして政治家である。しかし、誰の墓かと尋ねれば、政治家以外は決まって沈黙を保つ。今日の古墳の多くは、政府役人が立てた政治的神話の立て札の前で口を閉ざさざるを得なくなっている。
 それにひきかえ、歴史神話を掲げる「記紀」は饒舌である。しかし、同じ饒舌でも『古事記』と『日本書紀』とではかなりの違いがあります。『古事記』は必要以外には寡黙であるが、『日本書紀』は必要以上に饒舌なのです。
 1979年(昭和54年)1月23日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓と墓誌が発見されています。その墓誌には、

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳

とあるのみで必要以上のことは記されていません。
 太安万侶が、『古事記』だけではなく、『日本書紀』の編纂にも携わったとする「弘仁私記序」を信じているわけではありませんが、「記紀」は誰かが書き残したものであることに違いはありません。私は、その誰かを太安万侶としました。たとえそれが間違っていたとしても、歴史が覆るわけでも「記紀」が反古になるわけでもありません。
 考古資料が発見されるたびに歴史が塗り変えられている今日の歴史界。しかし、それによってこれまでの研究成果が反古になったわけではないはずです。なぜなら、そうした資料の発見は全くの偶然にもよるものもあるでしょうが、やはり何らかの見当があっての成果だと思います。発掘や調査には多大の資金と時間が費やされます。何の見当もなくそれを行うことは出来ないはずです。つまり、そうした見当をつけることが出来るのは、これまでの研究によるところが大きいのではないだろうか。
 幸いなことに『日本書紀』に関しては、先人先学の御蔭で、船氏や上毛野が編纂に携わっていることがおおよそ定説となっています。船氏は王後墓誌の子孫、上毛野は稲荷山鉄剣の主の乎獲居臣とかかわりのある氏族。どちらもその銘文が示すごとく先祖や家系を重んじる人達です。『日本書紀』の饒舌の中に彼らの真意が埋もれていると見当をつけたとしても、強ち悪い結果になるとは思えません。

船氏と毛野氏

 渡来系の船氏の本拠地は河内国丹比郡野中郷(大阪府羽曳野市)とされています。この地は、西に河内大塚山古墳、中央に誉田御廟山古墳を有する、いわゆる河内王朝発祥の地であると共に終焉の地でもあります。また、この地はかって西史(河内の史)と呼ばれた渡来人の本拠地でもあります。船氏も史(ふひと)ですから、普通なら西史となると思うのですが、敏達紀では東西の史と船史とを区別して扱っています。それは、誰も読み解けなかった高麗の国書を王辰爾(船史祖先)が読み解いた時、天皇と大臣が共に東西の史全員よりも船史王辰爾一人の方が優れていると賞賛したとする記事からもうかがえます。ただし、船氏も王辰爾が船史つまり船氏となる以前は単なる西史であったのかもしれません。なお、東西の史とは西史と東史(大和の史)のことで、「記紀」は百済からの渡来人としています。
 史のほとんどは渡来系ですが、その前身についてはよく分かっていないようです。船氏についても同様で、王後墓誌が唯一の、ただし手掛かりでしかありません。「記紀」によると、応神天皇の時代、百済国から先ず阿直史(阿直岐史)の祖の阿知吉師(阿直岐)が馬を2匹連れて来朝し、その後から文首(書首)の祖の和邇吉師(王仁)が論語十卷と千字文一卷を持って来朝したとあります。しかし、彼らが後世のどの史に当たるのかは「記紀」の記事からは判断できません。あるいは継体を応神に結びつけたように史もまた応神に結びつく先祖を創りあげたのかもしれません。と言うのも、王後墓誌(16章に記載)には船氏の中祖である王智仁首の名があります。そして、この王智仁から阿知も王仁も作ることができるのです。思うに、王智仁の一族が渡来系史の最初の出世頭であり、しかも尚且つそれによって史の地位を向上させることになったしたら、史の共通の先祖としてのこうした話が出来上がったのではないかと… なお、()内は『日本書紀』の表記です。
 ところで、『日本書紀』には、王仁来朝に際し、上毛野の先祖を百済まで迎えに遣らせたとあります。思うに、倭の五王の時代、毛野の関東地域は租税の代わりに兵士を朝鮮半島に送り込んでいたのではないだろうか。安閑紀の屯倉の記事のほとんどが関東地域で占められているのは、半島での兵士の活躍の場を失った倭王が兵士の挑発から本来の租税の徴収へと政策を変更したことに由るものではないだろうか。
 後世、とはいっても奈良時代ですが、『万葉集』には防人歌と呼ばれているものがあるといいます。防人(さきもり)のために徴用された兵や、その家族が詠んだ歌で、関東地方など東国の言葉が使われているものが多くあるそうです。これも嘗て東国から朝鮮半島向けの兵士を徴用していたことの余波と考えられます。また、装飾古墳と呼ばれている一群の古墳を鑑みた場合、それらのほとんどは中北部九州を中心として分布しているのだそうですが、なぜか畿内地域を通り越して関東地域にもう一つの分布の中心地があるとのことです。分布域は、九州では福岡県南部から熊本県北部に、関東では茨城や福島といった北関東地域に集中しているのだそうです。実は、これら二つの地域も朝鮮半島向けの挑発兵の関係で結びつくのです。

毛野と磐井

 継体21年、近江毛野臣が兵6万を率いて任那に向かおうとした時、筑紫国造磐井が反乱を起こします。実は、この磐井の勢力範囲と装飾古墳との地域が重なり合うのです。そこで、近江毛野臣を単に毛野臣とし彼が率いた兵を毛野地域、つまり北関東からの徴発とすれば、装飾古墳の分布の関係から、当時半島で活躍していた倭兵のほとんどが九州の福岡県南部から熊本県北部にかけての徴発兵と北関東からの徴発兵とであった可能性が浮かび上がってくるのです。
 想像力を逞しくすれば、東に杖刀人首がいて、西には典曹人首がいたということです。杖刀人首は乎獲居臣あるいは近江毛野臣、典曹人首は筑紫国造磐井となります。この構図は竜虎相打つの形で、物語では磐井が近江毛野に 「昔は仲間として共に釜の飯を食った仲ではないか、なぜ命令するか」 と詰問していることから、嘗ては彼ら二人は共に天下を佐治していた仲なのかもしれません。
 私は、磐井の乱については武蔵国の争いの物語と同じ趣旨によるものと観ています。どちらも煎じ詰めれば屯倉の献上につながります。そして、この話は安閑紀以降にこそ相応しいのではないのかと。つまり、九州地区に於いても半島への兵の挑発よりも従来の租税への切り替えが起こったということです。また、天下を左治した杖刀人首を稲荷山古墳のある武蔵国に固定する必要はなく、磐井が北部九州一円を取り仕切ったように乎獲居臣も関東一円を取り仕切っていたと見るべきでしょう。と言うのも、景行紀には彦狭島王を東山道15国の都督にしたとありますし、景行記には東の国造といった表現もあるからです。
 継体紀に特定の個人に広範囲の国を任せるという記事があります。継体天皇が磐井討伐に向かう物部麁鹿火に対し「筑紫より西はお前が好きなように統治しても好い」という記事です。思うに、これは本来磐井が持っていた権限だったのではないだろうか。首は大臣クラスです。首ならその程度の裁量は任されたと思います。磐井が典曹人首であった可能性は大きいと言わねばなりません。なお、東山道15国を任された彦狭島王は、崇神紀に載る上毛野と下毛野の祖である豊城入彦命の孫です。
 近江毛野臣については、継体紀以外には何の情報もありません。また、彼を近江の臣とするか毛野の臣とするかという問題もあります。継体紀での用例は、先ず近江の毛野臣とし、それ以降は毛野臣だけの使用となっていて近江臣という用例はありません。しかし、彼は病死後、淀川を遡って近江へと運ばれています。近江が彼の本拠地であることは確かです。しかも近江は東山道の始発点でもあります。東山道は、近江、三野、科野、毛野、陸奥へと順次延びているのです。つまり近江と毛野は東山道を介して繋がっているとも言えます。崇峻紀には、その2年に近江臣満を東山道に遣わして蝦夷との国境を観させたとする記事があります。近江臣が毛野とかかわりのある立場にいることだけは確かと見えます。ただ、しかし、この記事を最後に近江臣は歴史から消えています。
 ところで、推古紀に小徳近江脚身臣飯蓋なる人物の名前があります。読みは、近江の脚身(あなむ)の臣飯蓋(いいふた)となるのですが、彼を近江臣とするのが善いのか、それとも脚身臣とするのが善いのか迷うところです。ただ、この人物もここに名前を載せただけで以降のことは不明です。思うに、近江は後に壬申の乱の舞台となる所です。あるいはそれによって滅んだのかも知れません。また、近江は畿内とはいっても、嘗ては倭王武の言う毛人と接していた可能性のある所です。言ってみれば、近江の隣が毛野ということになりかねません。近江に毛野臣が居てもおかしくはないのかも知れません。しかし、毛野に関してはおかしなことがあります。

毛野と田辺史

 おかしなことに、「記紀」には国としての毛野の用例がありません。あるのは上毛野と下毛野です。また、氏族としても上毛野と下毛野がありますが毛野氏はありません。通説では、嘗ては毛野国や毛野氏があったが何時の時代かに上下に分かれ、分かれてからのことのみが記されているのだとしています。しかし、嘗て無かったかもしれない神武や欠史八代が記されていて、嘗てあったかもしれない毛野が記されていないというのは素人にはどうしても合点がいきません。それに、『日本書紀』では上毛野が毛野を代表するように描かれているのも奇異な気がします。
 「記紀」編纂の時点で、上毛野が下毛野よりも勝っていたのは歴史的事実でしょう。国としても上毛野は大国、下毛野は上国でしかありません。しかし、そうだからといって先祖の出る度に上毛野の祖とするのは少し度を越しているようにも見えます。これでは上毛野から下毛野が分かれたようにも見えます。思うに、『日本書紀』編纂の折、その下準備をしたのが史であった可能性があります。上毛野の一族に田辺史がいます。田辺史は藤原不比等とかかわりがあるとされる史の一族です。雄略紀にはこの田辺史の物語が載ってもいます。上毛野の出自に関しては疑う必要があります。ただしかし、雄略紀の物語には田辺史の道標もまたあるようです。
 物語によると、田辺史伯孫は応神天皇の馬、ここでは埴輪の馬ですが、それと自分が乗っていた馬とを取り替えたということなのですが、このことは田辺史が乗馬に長けていたこと、そして応神とかかわりのあることを教えています。応神と史と馬、これは応神期に百済から来たという阿直岐の関係と同じです。阿直岐古事記では阿知吉師ですが、彼は大和の軽の坂の上の厩で馬を飼ったとされ、通説では倭漢直の祖である阿知使主と同一視されています。『日本書紀』では、阿直岐と阿知使主を別人として載せていますが、これは東西の史、東西の漢直とその文直のそれぞれの先祖を区別するためのもので、そもそもこれらは前述したように作為的な先祖名の可能性があるのです。また、田辺史伯孫の伯孫にしても、これは馬の良否を見分ける名人伯楽の名を借りたものと見えます。
 そうした観点から上毛野を見てみると、上毛野の系譜は崇神紀に始めて載るのですが、次の垂仁紀には早くも先祖の活躍が載っています。これは、大彦の系譜が孝元紀が初出でその活躍記事が崇神紀、また、武内宿禰の系譜がやはり孝元紀が初出で活躍記事が景行紀というのと比べると、上毛野がいかに贔屓されているかが分かります。
 思うに、継体紀以降の半島の記事は、日本が如何にして半島からの撤退を余儀なくされ たか、そして、その責任が誰にあるかということのみに終始しているように見えます。ここでは近江毛野がその責任を背負わされている模様です。しかし、6万もの大軍を率いていながらその前身も後身も不明という事は、あるいは単なるスケープゴートなのかもしれません。
 『日本書紀』関与の痕跡を残す田辺史。天武朝で帝紀と上古の諸事の校訂に携わっていた上毛野。彼らの系譜や出自は当然疑うべきものです。また、彼らが系譜上同族となる前の最初の出会いが応神朝にあったことも、あるいは疑わなければならないことなのかもしれません。
 これは私論ではありますが、私は応神は倭王武ではないかと思っています。『新訂 古事記』(角川文庫発行 武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説)は、応神記の渡来人の記事の小見出しに「文化の渡来」を掲げています。正にその通りだと思います。そこで半島、特に百済からの渡来人が最も多く来たと思われる時期を探してみますと、高句麗百済の王都の漢城を攻め落とし蓋鹵王を殺害した475年にたどり着きます。そしてその3年後の478年に倭王武が宋に宛てて上表文を出しているのです。その文面には句驪無道といった表現があり、高句麗百済を滅ぼし尚且つ宋への朝貢の道を塞いでいるとの非難を述べています。
 武が上表した478年は、百済が南の熊津(ゆうしん)に国を再興して間もない頃で、文周王(475~477)、三斤王(477~479)共に2年そこそこの治世で終わるという、国家としては非常に不安定な時期といえます。この時期に倭王武が『宋書』に残るほどの上表文を提出し得たのは、やはり半島からの文化の渡来があったからではないだろうか。
 さて、史の中で半島以来の姓を持つ者は『日本書紀』では船氏だけのように見えます。壬申年将軍で始まる墓誌を残した文忌寸の祢麻呂にも半島以来の姓はありません。このことは、史や漢直のほとんどは無姓のまま日本に来たことになります。彼らが技術を持っていたことは確かと思われますが、文字を自由に操れるほどの文化人であったかどうかは疑問です。そうした彼らに、応神朝に彼らの先祖の阿知岐や王仁が来たなどとする伝承が実際あったのか如何か、これもまた疑問という他はないでしょう。
 本題からは随分と逸れてしまいましたが、続きは次にいたしましょう。