古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

大王の系譜を篩う。太安万侶の道標、その24。

 すべての物事を陰陽的に捉える。これは決して好ましい態度ではありません。しかし、小さな砂粒にさえ影があるように、物事は意外なほど陰陽的に出来ています。
 さて、陰陽は捉えかたによっては相反するものが同時に存在して一見矛盾しているように見えます。継体を陰陽に分けたのも、継体紀がその名とは裏腹に、分注の内容から断絶しているようにも読めたからです。もし、継体紀をその名通りの継体紀にしたいなら、継体紀を継体紀の後に持ってこなくてはなりません。そうすると、継体紀は辛亥年(531)を境として、前半分が断絶紀に、後半分が継体紀となります。これを時系列の表として示すと次のようになります。

  亥年  
断絶紀 継体紀
雄略紀 清寧紀 安閑紀 宣化紀 欽明紀
  武烈紀 顕宗紀 仁賢紀  
大仙陵古墳 大塚山古墳

 少し説明を加えますと、継体紀を継体紀の後ろに持ってきたわけですから当然安閑紀と重なります。また、顕宗・仁賢は断絶王朝を引き継いだいわゆる継体王朝の始祖ですから、これも此処に重なります。次に、継体王朝の前に位置するのは断絶王朝ということになりますから、此処には断絶した王朝が重なることになります。清寧や武烈は断絶した王朝ですから当然此処に重なります。そして、これを表として書き示したのが上の表です。ただし、重ねたままでは書き表わせません。そこで、これを並列に改めて書き表し、上の表としました。
 さて、この表から何が言えるのかというよりも何が言いたいのかということになるのですが、実は「記紀」には設計図があるということです。ここでの場合は『日本書紀』となりますが。例えば、前回は継体が陰陽に分かれ、今回は継体紀が陰陽に分かれました。そして531年を境として断絶王朝とそれを引き継ぐ王朝、ここでは継体王朝と呼んでいますが、それらが上の表のように整理が出来るという事実です。22章では、継体紀の最後の分注を安万呂の道標と呼びましたが、実はこの道標は「記紀」の設計図、私が安万呂の遺産と呼んでいるものへと導くためのものなのです。
 本来、「太安万侶の道標」は拙稿「太安万侶の遺産 記紀の設計図」の補助編として書き始めたものです。拙稿もいずれこのブログで披露することになります。それで、ここでは「記紀」の設計図についての説明は省きますが、上の表のようなことが他でも起こるということを示しておきましょう。そこで、上の表については一度伏せてください。

大王の篩、大王墓と日本書紀

 前章と前々章とで大仙陵古墳の次に来る大王墓を河内大塚山古墳とし、さらにその次を見瀬丸山古墳としました。また、大仙陵と大塚山古墳の被葬者として、前者には清寧と雄略を、後者には顕宗と仁賢を挙げました。丸山古墳の被葬者については未だですので、ここでおおよその目鼻を付けておきましょう。
 これまでの流れ(継体を清寧に宛がったと思います)から、先ず思いつくのが安閑と宣化でしょうか。誰もが知るように、丸山古墳の石室には二つの石棺が安置されています。また、この二つの石棺については、奥にあるほうが新しく、羨道口にあるほうが古いということが分かっています。横穴式石室の場合、単純に考えれば、奥の新しい石棺に眠っているのが弟で出口近くの古い石棺に眠っているのが兄ということになります。そういう意味では安閑と宣化は最適となります。しかし、この墳墳は安万呂の道標では常に上宮法皇の陵墓となっています。ただ、この古墳の地は檜隈と呼ばれていることから、被葬者の一方を檜隈天皇つまり宣化とすることは可能かもしれません。
 残念ながらこれ以上は煮詰め切れませんので、とりあえずこれまでのことを少しまとめて表にしてみましょう。下のようになります。なお、丸山古墳には宣化と上宮法皇ということなのですが、『日本書紀』では宣化の次は欽明ですので欽明とします。また、上宮法皇の治世は推古朝の途中までということでもあり、推古朝は残しています。

大仙陵 大塚山古墳 丸山古墳
雄略 清寧 顕宗 仁賢 武烈 継体 安閑 宣化 欽明 敏達 用明 崇峻 推古
雄略・清寧朝 顕宗・仁賢朝 宣化・欽明朝

 上の表を見ていますと、と言うよりも大王墓の数を限ってしまったのですから、大王の方が余ってしまうのは当然と言えば当然なのですが、とにもかくにも大王も篩い落とさなくてはならないようです。篩い落とすのはaとbの箇所の6名です。先ず、答えの出せそうなbから始めてみましょう。
 なお、答えが出せそうというのは、16章でも述べたことですが、用明天皇のために作られた法隆寺金堂薬師如来像の光背の銘文中の造像紀年干支丁卯年を667年とする考えに立つことでこれが解決できるからです。さて、今日、この像が実際に作られた時期は、彫刻様式や銘文の書風等から7世紀後半以降と考えられています。つまり、この銘文は事実を告げているということです。そもそも丁卯の歳をを607年とすることの方が間違いなのです。607年は『隋書』の阿毎多利思比孤の世であって、推古の御世ではありません。
 思うに、『日本書紀』の最大の欠陥は、神武東征譚や欠史八代等の有ることではなく、『宋書』や『隋書』から大きく逸脱していることにあります。神武東征や欠史八代は歴史や考古学には何の影響も与えません。しかし、『宋書』以降の『日本書紀』の編年は考古学遺物の編年にも影響を与えるもので、その不正確さは古墳や寺院の編年の致命傷となりかねません。例えば、法隆寺の再建か非再建かをめぐって歴史界を二分する論争を巻き起こしたのは、天智9年(670)に法隆寺は一屋余すところなく焼失したという記事が『日本書紀』に載っていたためです。
 現在、焼失したのは現法隆寺ではなくその前身伽藍、いわゆる「若草伽藍」であることが発掘調査に拠り判明しています。しかし、この記事がなぜ天智紀に載っているかについては誰も問題とはしていません。素人目にすれば、この記事に対しての結論は一つしかありません。それは、焼失したのが法隆寺の前身伽藍だとすれば、天智紀が指しているのはこの伽藍ということになります。したがって、この記事は我々に、天智紀をその時期に移動させるかさもなくば天智紀を抹消するかのいずれかを迫っているのだということです。そして、いずれを選んだにせよこの箇所には天智紀ではなく、別の何かが入ることになる他はないのです。つまり、この箇所には、法隆寺金堂薬師如来像光背銘が入るのです。
 そうなると、薬師如来像光背銘にある用明天皇の崩年干支と思われる丙午年は646年となり、少なくとも用明の兄弟、敏達以下の三代は干支を一巡引き下げることが可能となってきます。三代の行き先は、敏達が舒明へ、用明は皇極へ、崇峻は孝徳へとそれぞれが移ることになります。そして、推古の後半は船氏王後の墓誌に載る等由羅宮治天下天皇の御世となり、同墓誌に載る乎沙陁宮治天下天皇は上宮法皇かつ阿毎多利思比孤かつ欽明ということになります。これらを表に纏めてみますと次のようになります。なお、背景色のある呼び名は金石文からのものです。

宣化 欽明 推古(豊浦) 舒明 皇極 孝徳 推古(小治田)



檜隈天皇
阿毎多利思比孤
志帰嶋天皇
乎沙陁天皇
上宮法皇


等由羅天皇


阿須迦天皇



池邊天皇
崇峻天皇
天智天皇




小治田天皇
~585? ~622 ~628 ~641 ~646 ~662 ~671

 上の表を、この場で直ちに是とする決め手も力量も私にはありませんが、これから述べることからある程度の賛同はいただけるのではないかと思います。
 舒明紀に敏達紀を宛がった場合、船氏王後墓誌の記事と敏達紀の船氏の逸話とが整合します。また、法隆寺金堂釈迦三尊像(623)以降、野中寺弥勒像(666)までの半世紀近く天皇のための造仏が行われていません。これも舒明を廃仏派の敏達と見做せば、整合が取れます。なお、孝徳に崇峻ばかりでなく天智も宛がわれていますが、孝徳紀は大化の改新の主役である天智と鎌足が拓いたというのが『紀』の主張と見ればこれもありうることだと思います。ただし、ここでは大化は孝徳の年号ではなく池辺天皇の年号となります。
 思うに、法興が上宮法皇仏教帰依を記念しての年号であったように、大化は用明天皇仏教帰依を記念しての年号と捉えた方がより自然ではないだろうか。また、用明が仏教帰依を記念して大化という年号を定めたのは、舒明朝が廃仏を行っていたこととかかわりがあるというのが私の考えで、以下これについて少し述べることにします。

船氏の道標

 京都府宇治市宇治東内の放生院、通称橋寺にある宇治橋断碑に次のような碑文が刻まれているます。

浼浼横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿
世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家 大化二年 丙午之歳 搆立此橋 済度人畜
即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁

以下続けて、学生社発行『古代日本 金石文の謎』 堀池春峰 宇治橋断碑よりの引用。

浼浼たる横流 その疾きこと箭の如し 修々たる征人 騎を停めて市を成す 重深に赴かんと欲して人馬命を亡なう 古より今に至るまで 航竿を知ることなし
世に釈子有り 名を道登と曰う 山尻慧満の家より出ず 大化二年 丙午の歳 この橋を搆立し 人畜を済度す
即ち微善に因り ここに大願を発し 因をこの橋に結び 果を彼岸に成す 法界衆生 あまねくこの願いを同じくし 夢裏空中 その昔縁を導かん

 断碑はその名前が示すように、上部三分の一ほど、背景色のある部分だけが残されていたものを江戸時代に下部を復元してつなぎ合わせたものです。したがって、復元された部分が原文通りであるかは分かりませんが、上部碑文に「道登」とあることから「大化二年 丙午之歳」の部分は元碑文に近いように思われます。と言うのも、道登は大化元年に沙門狛大法師等と共に十師に選ばれたと孝徳紀にあるからです。また、『日本霊異記』にも道登が大化2年の丙午に宇治橋を作ろうとしたともあります。
 碑文の内容から、この石碑は道登の宇治橋構築を記念してのものとも見えますが、宇治橋の構築は道照が最初とする説もあります。また、仏教的な見地からすれば、そもそも衆生を此岸から彼岸へと橋渡しをするのが僧尼の役割、そして、それを象徴する行為の一つが架橋であると。そう考えた場合、道登も大化も意味のないものになるのですが、碑分に記されている以上何らかの意味のあるものとする他はないようです。
 仮に、道登の追善供養のためのものとしても道登の命日の年の記載はなく、なぜ大化2年の丙午の歳だけが記されているのか。ただ、この年は法隆寺金堂薬師如来像光背銘から用明の崩年と捉えることが可能となります。それにしても、この石碑を誰がいつ建立したのか、碑文の内容から仏教とかかわりのある者が建立したことだけは確かなのですが… 私は道照が建立したのではないかと思っています。
 『続日本紀文武天皇4年の条に宇治橋は道照が作ったとあります。大化2年(646)と文武4年(700)では60年の開きがありますが、文武4年は道照が72歳で死亡した年ですから、道照が架橋したのはこれよりかは何十年も前のことでしょう。道照と道登の関係は分かりませんが、一つだけ共通点があります。それは高句麗です。敏達紀で高句麗の国書を読み解き褒賞された船史王辰爾と道照とは同じ船氏の一族なのです。一方道登は孝徳紀によれば、高句麗の故事を引いて白雉の出現が祥瑞であることを最初に進言したとあります。また『日本霊異記』には、道登は高麗の学生、つまり高句麗への留学僧だったともあります。
 高句麗が出たついでに、舒明紀と敏達紀の整合点を少し述べておきましょう。高句麗が半島経由でなく、直接日本海を渡って来日したと思われる時期があります。それは隋が高句麗遠征を始めた時期です。この時、新羅百済は隋に出兵の申し出をしていたのです。高句麗はこの事で新羅百済を憎み、隋滅亡後、新羅百済に報復の出兵をしています。この対立は高句麗百済が手を結ぶことになる642年まで続き、その間高句麗は日本との国交に日本海を直接渡るという方法を取っていたと思われます。高句麗の使者が越の海岸に漂着したという記事が欽明紀の末から敏達紀の初頭にかけて載っていますが、この記事は舒明紀に置き換えたほうが半島と日本の史実により近くなります。
 さて、道登の出た山尻(山城)には高句麗関係の地名が今日でも残っているように、この地は高句麗の使者が越の海岸に着いた後、近江を経て大和へ向かう道筋に当たり、しかも丁度大和の入り口にも当たる場所です。欽明紀ではここに高麗の館を建てたとあります。 高麗の館が何処にあったかは分かりませんが、おそらく木津川を渡る道筋近くにあったと思われます。そして、そこは当然船着場でもありますから、船氏の管轄場所でもあったはずです。道登が船氏である可能性は高いと言わねばなりません。また、船氏が作りあげた可能性もあります。一説では、船氏が『日本書紀』の編纂にかかわっているともされています。それは、皇極紀4年条に船史恵尺が蘇我蝦夷等が焼こうとした国記をいち早く取り出して、中大兄皇子に献るという記事があることからもうかがい知れます。船氏もまた道標を残しているのです。
 思うに、孝徳軽天皇と道登、文武軽天皇と道照。加えて大化と大宝。先帝の功を後帝が見習うことはよくあることですが、後帝の功を先帝が見習うということは普通あり得ないことであり不可能なことでもあります。しかし、大化の改新の詔は後の大宝律令を焼き鈍したものと見たほうが理解しやすく、ひいては孝徳紀そのものが文武紀の焼き鈍しとさえ言えなくもありません。そもそも、舒明紀に敏達紀を重ね合わせようなどと思ったのも孝徳紀と文武紀にそうした印象を抱いたからです。
 しかし、それならば大化は大宝の焼き鈍し、道登は道照の焼き鈍し、いやいっそ孝徳紀を文武紀の焼き鈍しとしてしまった方がいいのかも知れません。そもそも文武紀の位置には天智紀が入っていたはずなのですから。