古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

王朝の入れ物、大王墓。太安万侶の道標、その23。

 道標は迷うことなく目的地に着くためのものです。そのためには先ず目的地をはっきりと決める必要があります。私の当面の目的地は見瀬丸山古墳です。そのためには、とにもかくにも河内大塚山古墳にたどり着く必要があります。そして、そのためには大仙陵から河内大塚山古墳までに存在する大王墓を篩い落とさなくてはなりません。

三つの古墳群

 発掘考古学というのは、掘り起こした泥を篩いにかける作業から始まるのだそうです。できれば私も『日本書紀』を篩いにかけてみたいのですが、素人の身そうも参りません。そこで、せめて古墳だけでも篩ってみることにしまた。
 前章では篩いの目に墳丘長300mを用いました。無論、これには賛同はいただけないかもしれません。なにせ、『日本書紀』に載る天皇は40を数え、その陵墓の数もまたそれに準じるのですから。しかし、それなら200mにすれば善いのかと言えば、実はこれでも未だ足りないのです。そもそも、全国で墳丘長200m以上の大規模古墳と呼ばれているものは34基ほどしかありません。すべての天皇に大規模古墳をあてがうのは所詮最初から無理な話ということなのです。
 では、どうするべきか。小規模な古墳をあてがうべきか。思うに、古墳時代の大王に小さな古墳をあてがって良しとするのは、古墳時代を遠ざかった者の賢しらではないだろうか。古代人が古墳をどのように捉えていたか、古墳の形の謂われさえ明らかにし得ない者に理解はできません。しかし、古代人が古墳造りにかけた多大の労力と情熱だけは、巨大古墳の前に立つ誰もが感じ取ることだとは思います。
 下の表は、全国の大規模古墳の中から、墳丘長300mを基準に上下を同数だけ揃えたものです。丁度、一位から14位までがそれに当たり、これをAとBとに書き分けました。

大仙古墳
誉田御廟山古墳
上石津ミサンザイ
造山古墳
河内大塚山古墳
見瀬丸山古墳
渋谷向山古墳
486
425
365
360
335
318
302






土師ニサンザイ
仲津山古墳
作山古墳
箸墓古墳
五社神古墳
ウワナベ古墳
市庭古墳
288
286
286
276
276
265
250

 Aは墳丘長300m以上のクラスに、Bは200m後半代のクラスになっています。なお、前にも述べたことですが、古墳の墳丘長は過去の造営の時点においても、今日の計測の時点に於いても必ずしも理想的な正確さのものとはなっておりません。しかし、そのことは古墳間に潜むであろう何らかの傾向を読み取る上での障害とはなりません。実際、AB間には雰囲気の違う何らかの傾向が読み取れます。
 AとBを比べた場合、Aは墳丘の長さの最上位と最下位との差が180m以上もありますが、Bでは50mにも充ちません。つまり、Aからは墳丘を少しでも大きくしようとする意欲と自由が感じられますが、Bからはドングリの背比べというかAのようなそうした意欲も自由も感じられません。しかし、実は外観上そう見えることが、大王墓であるかそうでないかの違いなのです。何故なら、新たなる富は先ず大王に反映します。諸臣に回ってくるのはその後です。また反映の程度も、大王には大きく諸臣には小さく表われます。それに大王にはいくらでも大きくできる自由もあります。つまり、Bに意欲がないというわけではないのです。そもそも大王の富は諸臣が運んでいるのです。また、大王を引き立てるということも諸臣の大事な務めなのです。
 思うに、AとBの傾向の違いからこうしたことが読み取れるということは、墳丘長300m以上は大王墓、それ以下は諸臣の墳墓の可能性があることを示唆しているのではないだろうか。無論、墳墓間の時間差や、大王と諸臣の人数差があることは確かです。しかし、この差のあることがそうした傾向の違いを生み出してもいるのです。なお、この300mの篩いは倭の五王より前の大王墓については当てはまらないかもしれません。
 どうやら、大仙陵以降の王墓は河内大塚山古墳と見瀬丸山古墳の二つだけとなってしまったようです。それなら、大仙陵から丸山古墳まで何人の何という大王がいたことになるのだろうか。大王墓の数を限ってしまった以上、大王の数もまた限る外はないのですが、大塚山古墳の直前が大仙陵ということであれば仁徳から始める必要はなくなり、ある意味では歴史物語から解放されたとも言えます。

大王墓の住人

 大仙陵には二人の大王が眠っています? また、丸山古墳にも二人の大王が眠っています? そうすると大塚山古墳にも二人の大王が眠っていることになります?
 大塚山古墳は剣菱形という新王朝のシンボルを持つ墳墓です。『百済本紀』のいう辛亥年に死んだ旧王朝の天皇の墳墓ではありません。したがって、この天皇は大仙陵に葬られたとするほかはないようです。大塚山古墳の被葬者としては、安閑と宣化が考えられますが、大仙陵を損なった顕宗と仁賢が次の造墓者となりますから大塚山古墳の被葬者は顕宗と仁賢ということになります? そうすると辛亥年に死んだ天皇は清寧に宛がわれます?
 ?ばかりになってしまいましたが、先ず、二人の大王墓ということから始めることにします。10章でも少し触れたことですが、舒明天皇陵には二つの石棺があるといいます。また、野口王墓には天武と持統、二人の天皇が葬られています。そして、仁徳天皇陵とされる大仙陵にも石棺が二つあることが認められています。加えて天皇陵の可能性の高い見瀬丸山古墳にも石棺が二つあることが周知の事実となっております。このことは、大王墓一つに大王一人という「記紀」を読んでいると知らず知らず植えつけられた誰もが陥っていると思われる先入観とは随分と隔たった事実のあることを教えています。即ち、大王墓には複数の埋葬が可能であると。
 大王墓一つに大王一人という観念を捨て去れば、残る疑問はただ一つ、大王墓には大王以外の者が同時に葬れるのかということだけです。この問いの解は、現代人には難しいものがあります。現代からすれば、王の妻や子供達は善いのではないかと思ったりもしますが、それが古代にも通用するものかは… また、仮に是とした場合、はたして大王墓と呼べるのかどうかという疑問も浮かんでまいります。誰もが感じることだと思いますが、大王墓は明らかに特別なものです。当然、葬られる者もまた特別な者に限られます。王族といえど、また王族の中でも大王だけが特別の者なのです。したがって、大王墓には大王だけというのが正解と言うほかはありません。
 大王墓もそうですが、古墳には複数の埋葬があることは周知の事実です。また、それらが王族や一族の墓であることも確かなことと思われます。そして、肝要なことは一つの墳墓に埋葬されるのは同等の地位の者だけとする前提です。そう考えた場合、埋葬の形態として次のような想定が可能となります。
 先ず、一族の一番目の長が死んだとします。そうすると、この長の墓を二番目の長が作り、そして埋葬することになります。普通そうなると思います。ところで、この墓造りの最中に二番目の長が死んだ場合はどうなるか。順序としては三番目の長がこれを引き継ぐことになります。結果として、この墓には一番目と二番目の長が埋葬されることになるはずです。次いで、これを前方後円墳で再現してみましょう。
 前方後円墳は前方部と後円部の二箇所に埋葬が可能です。そして、前方後円墳の発達の経過から見て後円部が埋葬の主体部であったことも確かです。これに前述の埋葬結果を当てはめた場合、後円部には一番目と二番目の長が埋葬され、前方部にはこの墳墓を完成させた三番目の長が埋葬されます。ところで、こうした埋葬様式が前方後円墳に定着していく過程でどのようなことが起こるかと少し想像してみますと、どうも前方部がどんどん大きく立派になっていくのではないかと、ふとそんな気がいたします。
 誰でもそうだと思いますが、自分が埋葬されることになるその場所、つまり前方部を大きく立派にしたいというのが人というものではないでしょうか。

古墳の中の播磨王朝

 大塚山古墳は新王朝の墳墓です。今城塚古墳の系列に繋がりますから、人によっては継体王朝の二代目に当たる墓とも言われています。そこで、初代とされる今城塚古墳の中をちょっと覗いてみますと、ただし高槻市のホームページ "発掘調査でわかったこと" によるものですが、横穴式石室の中には石棺が三つあったらしいとのことです。そして興味深いことには、それらの石棺の産地がすべて異なっていると言うのです。産地が異なるということは材質が異なるということで、それらの産地と材質を示しますと、兵庫県高砂産の竜山石、熊本県宇土産の馬門石、大阪・奈良に跨る二上山の白石となるのだそうです。
 私は素人ですので、感じたことしか述べません。また、それ以外のことは述べたくても述べられません。さて、石棺の産地が異なるという事は、石棺の中身の産地も異なるという事になります。横穴式の場合、基本的には同母の兄弟ということになるのだと思いますが、墳墓を家、さらには王宮と見た場合、家長あるいは大王でありさえすれば誰でも善いのかもしれません。しかし、この場合は同母の兄弟でないことだけは確かと思われます。
 ところで、兵庫県高砂産の竜山石(たつやまいし)、この竜山石で出来た石棺が二つ、大塚山古墳の次に出来たとされる、やはり大王墓の公算の高い見瀬丸山古墳の石室にあります。今度の場合は同じ産地ですから、この二つの石棺は同母の兄弟と見做せそうです。しかも、播磨の竜山石で出来た石棺の兄弟です。この兄弟、石棺の出自から見れば播磨の兄弟と呼べなくもありません。出自といえば、継体の出自は「記・紀」共に越前と証言していますが、彼の石棺の出自は、今城塚古墳の証言では播磨とも肥後とも河内・大和とも、それらいずれとも受け取れるようになっております。仮に彼の石棺を播磨の竜山石で出来ていたとすれば、彼は播磨の出自となり、播磨王朝の始祖となります。
 今城塚古墳の証言からも分かるように、古代人は石棺を使い分けています。古代において石棺と死者は一対のものなのです。石棺から見れば、継体も立派な播磨の出であり、見瀬丸山古墳に至っては正に播磨王朝そのものの墳墓ということになります。そして、当然その古墳系譜の中間に位置する大塚山古墳もまた播磨王朝ということになります。
 大塚山古墳の中に何人の大王が眠っているのか、それは分かりませんが、播磨王朝と呼べる大王の石棺があることは確かと見えます。また、今城塚古墳は播磨王朝の始祖の墓であるかもしれませんが、大王の墓とするには小さ過ぎます。したがって、播磨王朝あるいは実質的継体王朝と呼べる初代の大王の墓は大塚山古墳という事になります。
 なお、播磨王朝は、歴史家の岡田英弘氏が顕宗・仁賢兄弟より始まる王朝につけた名前だそうです。岡田氏はこれ以外にも河内王朝とか越前王朝とか、「記紀」の内容に添った呼び名を用いて王朝の区分けをしています。こうした王朝のブロック化は、私のように陰陽的な視線で「記紀」を見ているものにとっては非常に便利なもので、例えば継体を陰と陽に分けた場合、陰に播磨王朝を宛がい、陽に越前王朝を宛がう、無論その逆でもかまわないのですが、ともかくそういったことが可能になるのです。もっとも、そういったことは歴史から逸脱した馬鹿げたことだと、あるいは叱責を受けるかもしれません。しかし、今日残っている史書のほとんどは今日的な歴史家の手によるものではなく全くの素人とでも呼べる文人や官吏の手によるものなのです。まあ、今しばらく辛抱のほどを。
 さて、継体が陰陽に分けられるのかということですが、実は継体は既に分けられているのです。しかし、その前に2つか3つ、別のものの陰陽分けをしておきましょう。先ず王を分けると、王兄と王弟になります。次に、男を分けると男兄と男弟になります。最後に大を分けると大兄と大弟になります。それぞれの読みの最後は、"え" 、"けい" 、"と" そして "てい" の音がきます。さて、継体の名前ですが、『日本書紀』では男大迹(をほと)とあります。これを男大弟(をほと)としても名前そのものは変わりません。しかし、意味は変わります。男大迹という名前ではなく男大の弟という意味になるわけです。男大の意味はあるいは王のことかも知れません。しかし、これについてはこれ以上の詮索は意味が無いので止めましょう。というのも『古事記』では男大迹は袁本杼(をほと)とあるからです。しかし、これも袁本弟とできます。そうなると、当然、男大兄や袁本兄が存在することになります。
 男大兄と袁本兄、この読みは "をほえ" あるいは "をほけい"となります。この音に近い名前を持つのが本題の主役である播磨王朝の顕宗・仁賢の兄弟です。顕宗は、弘計天皇、来目稚子、袁祁王、袁祁之石巣別命といった呼び名を持ちます。また、仁賢は、億計天皇、大石尊、意祁命、意富祁王、大脚、大為、嶋郎といった呼び名を持ちます。これらの呼び名と継体の男大迹あるいは袁本杼との関係から、顕宗は男兄とでき、仁賢は大兄とできます。つまり、顕宗と仁賢で男大兄ができるのです。
 ところで、顕宗紀には兄弟が播磨の縮見山の石室に隠れ住んだらしいことが載っています。加えて、この兄弟には石のつく呼び名もあります。思うに顕宗紀は、横穴式石室への石棺の埋葬手順から生まれた物語の可能性があります。大仙陵直後、大王墓は横穴式石室に移行した可能性があります。横穴式石室の場合、加えて兄弟が埋葬される場合、石棺をどのように石室に収めるか、おそらく問題になったものと思われます。見瀬丸山古墳では兄のものと思われる石棺が手前に、弟のものと思われる石棺が奥に安置されています。これは、兄が先に生まれるから出口に近い位置を選び、弟は後から生まれるから奥の位置を選んでいると考えられます。しかし、これは見ようによっては弟は墳墓の中心、つまり王墓という玉座に近い位置にいることになります。顕宗・仁賢紀の特異さは兄よりも弟が先に王位に就くという点にありますかあら、あるいは、そうしたことを述べているのかもしれません。また、顕宗紀には父親の遺骨と舎人の遺骨とを選り分ける話もあり、竪穴式という独立を保てた石室から、横穴式という独立を保つことの出来ない埋葬方式への転換点に位置していたのが、あるいは播磨王朝であり越前王朝だったのかもしれません。そして、その最初の横穴式の墳墓が大塚山古墳なのかもしれません。