古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

古墳群の中の道標。紀の中の道標。太安万侶の道標、その22。

 古墳の年代を決めるのは副葬品である。副葬品の中で最も有力視されるのが、土師器や須恵器である。では、土師器や須恵器の年代を決めるものは何か。
 最も確実な方法は、年代のはっきりしている奈良時代の土師器や須恵器から遡ることである。しかし、仮にそれが出来たとしても、どのくらい正確に遡れたかを問う基準を何に求めれば良いのか。
 科学や、考古学資料は嘘はつかないと人は言うが、年輪年代測定や放射性炭素年代測定に用いる木片や炭素は所詮客であって主人ではない。客は嘘をつかないかもしれないが、また気前よく真実を喋ったとしても、それは役に立たない世間話でしかない。結局、最後は嘘をつく人の手による『日本書紀』にたよることになる。しかし、よくよく考えてみれば、土師器や須恵器もまた嘘をよくつく人の手によるものでしかありません。

紀の中の道標

或る本に云う。天皇28年歳次甲寅の年に崩と。而るに此で、25年歳次辛亥の年に崩と云うのは、百済本紀によって文としたからである。其の文には次のようにある。太歳辛亥の年3月。師進みて安羅に至りて、乞乇城を作る。是の月に、高麗は其の王安を弑す。又聞く、日本の天皇及び太子も皇子も倶に崩薨と云えり。此れに由りて云えば、辛亥の年は25年に当たるかな。後の勘校者は之を知らん也。

 以上は、継体紀の最後に載る分注である。私はこれを『日本書紀』に遺された太安万侶の道標と想定してこうしたものを書いています。その真否はともかく、何かを始める以上その起点を先ず見つけなくてはなりません。結果を恐れては素人とは言えません。
 さて、これに拠れば、辛亥の年(531)の3月に天皇及び太子や皇子も共に亡くなったということになります。これを辛亥の変と呼んでいる学者もいますが、果たして変などという程度のもので済ませても善いのだろうか。半島では翌年早くも金官加羅国が新羅に投降をしています。任那地域をめぐっての百済新羅との抗争の激化が加速しているのです。これは倭の勢力の半島からの後退を意味します。『紀』によれば安閑元年は534年ですから、新大王が誕生するまでに3年を要したことになります。そこで、これについての素人の率直な考えを述べさせてもらいますと、継体と呼べる新しい王朝が始まったのはこの年以降からではないかと。そしてそうならば、先ず始めることは継体大王の墓探しということになります。なぜなら、諺にもあるように、新しい酒は新しい皮袋に盛れ、つまりは盛られていると。
 継体天皇の陵墓については、摂津の、大阪府茨木市太田の茶臼山古墳(230m/140m)と大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(190m/100m)とが政府治定と学会定説とになっているようです。単純には、茶臼山古墳が 230/140 = 1.64 で、今城塚古墳が 190/100 = 1.9 ですから、前者は誉田陵プランの古いタイプと見做せ、後者は大仙陵プランの新しいタイプと見做せます。したがって、今城塚古墳の方が有力ということになります。それに、今城塚は前方部が剣菱形のこれまた斬新ともいえる墳形をしています。ただ、この古墳は大王墓としてはあまりにも小さすぎるような気がします。

古墳群の中の道標

 古墳の規模は、大仙陵をピークとして縮小に向かっています。大仙陵築造後いつの時期か、おそらく次の陵墓の築造開始までには築造期間の短縮を決めたのではないかと思われます。そう思うのは、豪族が一日に動員できる役夫の数は、誉田陵から大仙陵にかけてほとんど変わっていないからです。それは、大王墓であるそれら二つの陵の容積がほとんど変わっていないことからも察することが出来ます。したがって、あとは築造期間を短くすれば墳墓はおのずと縮小することになります。
 しかし、何故縮小に向かい始めたのだろう。いや、それよりも何故巨大化に向かったのだろうか。大きいのがただ好きだからか。しかし、いくら好きだからと言っても先立つものが無くては何も作れません。そう、巨大化の原因は経済成長なのです。水田も増え、人手も増え、何もかもが増えたのです。そして何よりも身内が増えたのです。
 身内の増えることは、往々にして内紛につながります。安閑紀には、武蔵国での同族同士の争いの話が載っています。また、雄略天皇は身内を多数殺していますが、これも身内が増え過ぎたことが最大の原因でしょうか。なお、雄略を倭王武に比定する説があるようですが、武の時代は一族一丸となって戦っていた時代です。身内の粛清は負の要因となります。もし、どうしても雄略を誰かに、あるいはどこかの時代に比定したいのであれば、武烈天皇とその時代が最も相応しいように見えます。

古墳の破壊

 皮肉といえば現代も同じですが、経済発展は繁栄と格差を生み出します。繁栄と格差は紛争を呼び起こします。顕宗記に、雄略に粛清された父の仇を取ろうとする兄弟天皇の話があります。内容は雄略の陵を壊そうというものです。『紀』ではこれを思いとどまったとしていますが、『記』では御陵の傍らを少し掘り取ったとあります。思うに、『紀』と『記』との違い、そして墳墓を損なうという行為、これらにはいろいろの意味合いがあるようです。
 先ず、『紀』と『記』の違いですが、紀は記の内容を打ち消しています。これについては、御陵を損なうという行為が『紀』の編纂当時都合の悪いことだったからと言うほかはありません。しかし、それだけでは『記』の編纂当時は善かったのかということになり兼ねません。ここは、やはり『記』から『紀』へ少しずつ打ち消していったとするのが順当なのやもしれません。そうなると、本来の話は少しだけ掘り取ったということではなかったことになります。ちなみに当時の大陸や半島では、攻め入った王が敵国の王の先王や親の墓を暴いて骨を持ち去ったりもするそうです。ただ、日本の場合は香具山の土を大和の国の物実(もととなるもの)とも呼んでいるように、新王朝が旧王朝の財産を引き継ぐという意味で陵墓の土を持ち去るということは考えられます。
 ところで、大仙陵が人為的に破壊されている可能性のあることを御存知ですか。航空写真等で見る大仙陵は墳形の整った緑豊かな陵墓のように見えるのですが、測量図等によれば墳丘の大半の等高線に大きな乱れがあるとされ、特に後円部の頂上部分の崩壊が酷いと言われています。原因はいろいろと考えられますが、輪郭線にはほとんど乱れがないことから誉田陵のように地震によるものでないことは確かです。また、前方部と後円部に石棺が確認されている以上未完成であったとも思えません。後は、中世以降の城郭利用が考えられますが、どこの誰が何という城を築いたのか未だ聞いておりません。また、仮にそうであったとして城郭なりの乱れのない等高線が得られるはずです。最後に盗掘ですが、盗掘は広く行われているものです。大仙陵だけが特別に酷くなる理由には適しません。
 思うに、大仙陵破壊の唯一の証言者は「記・紀」ということなのでしょう。そうすると、この古墳を損なわせたのは顕宗と仁賢の兄弟ということになり、この古墳の後円部には雄略が眠り、前方部には清寧が眠ることになります。どうやら、大仙陵の次に来る王墓と継体大王墓とは同じもの、つまり河内大塚山古墳がそうであるのかもしれません。…その真偽はともかく次の図に移りましょう。

古墳の差別化

f:id:heiseirokumusai:20170828220714g:plain
 個々の古墳の向きについては、東西に合わせるとか、海岸線に合わせるとか、道路の向きや地形に合わせるとか、その他いろいろと指摘できますが、古墳群の向きについては如何でしょうか。無論、先ほど挙げたどれかに当てはまると言われれば、確かにどれかには当てはまるでしょうが、しかし、すべての古墳を同じ向きに揃えるというのはどういった理由によるものでしょうか。
 百舌鳥古墳群は、古墳の向きによりAとBの2つのグループに分けられます。Aのグループには巨大古墳が2基もありますが、Bのグループには巨大古墳が1基もありません。 単純には、本家のグループと分家のグループと呼べなくもないのですが、なぜグループの形を取るのかが分かりません。しかし、ここにはある意味での格差の臭いがします。それは、力の格差とは違ったもっと別の意味での格差です。
 力の格差は古墳の大小に既に表れています。しかし、古市古墳群には力の格差による差別化はまだ起こっていません。ここでは、大小の古墳が、おそらく地形に無理なく合わせてのことだと思いますが、思い思いの方向に墳丘を横たえています。巨大な誉田陵でさえも小さな先輩の傍に行儀良く鎮座をしています。思うに、古市古墳群に誉田陵が築かれた時期は、一族一丸となって遠征を繰り返していた倭の五王の最後の時代ではなかったろうか。また、百舌鳥古墳群に大仙陵の築かれた時期は、増大しきった一族がいがみ合いを始める時代の幕開きとも呼べる次期に当たるのではないだろうか。
 時の流れは一切を無常とします。昨日の友は今日の敵。時の流れは無情でもあります。応神天皇五世の孫も五世を過ぎれば即家来となります。五世代を時間に直せば百年ほどでしょうか。身内も百年経てば相争う関係となる。百年とはそういう時間のことであり、五世の孫という言い方もそうした経験から生まれたものなのでしょう。ところで『紀』は継体の即位を507年としています。この100年前は400年の初頭に当たります。この時期は倭の五王の活躍し始めた時期と丁度重なります。421年には、倭王讃が宋に朝貢しおそらく六國諸軍事安東大将軍の称号を求めたものと思われます。この要求は武の代まで続きます。その背景にあるのは自国倭の国力への自負からでしょう。

巨大古墳の行方

 思うに、古墳の造営は国にとっても民にとっても何の利益ももたらさないある種の贅沢行為と言えます。しかも、この造営には莫大な資金が必要となります。しかし、「記紀」には古墳造営に関しての民の不満の記事は何故かありません。そもそも、斉明天皇の土木工事に不満を漏らすほどの『紀』です。これは不可解なことです。しかし、それらの資金の大半を海外からの収入によるものだとしたらどうでしょう。国の懐は傷まず、労働に従事した庶民にも何がしかの代価は支払われる。無論きつい労働であり、庶民が手放しで喜んだとも思えないが、不満はなかったであろうと。無論これは想像に過ぎません。
 倭王武の上表文には、"昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処にいとまあらず。東は毛人を征すること55国。西は衆夷を服すること66国。渡りて海北を平らげること95国" とあります。海北とは海外つまり朝鮮半島のことです。なお、当時の征服とか平らげるとかを軍事的あるいは政治的に捉えることは私には出来ませんので、ここでは単に何らかの税の取れる状態のことだとでも捉えておきましょう。そうすると、倭王は国内の121国と半島の95国とから収入を得ていたことになります。こうした状態がいつ頃まで続いたかは分かりませんが、少なくとも大仙陵築造前までは続いていたと思われます。
 周知のように、大仙陵を盟主とする百舌鳥古墳群を最後に、巨大古墳を盟主に持つ古墳群は形成されなくなりました。終末期古墳では卓越した規模を誇る二つの巨大古墳、河内大塚山古墳と見瀬丸山古墳はどちらも古墳群を形成しない孤高の墓です。大王に権力が集中した結果には違いないが、ただそれだけではないようです。半島からの収入が断たれてもいるのです。思うに、半島からの収入によって巨大古墳と古墳群は形成された。仮に、巨大古墳を墳丘長300m以上のものとした場合、巨大古墳の中で最も古い位置に来る柳本古墳群の渋谷向山古墳の造営は5世紀を遡ることはなくなるのかもしれません。
 ところで、534年と535年のわずか二年間ほどの安閑紀は、その記事のほとんどを屯倉の設置や献上の話で終始しています。屯倉は王家の収入源です。532年以降半島の権益のほとんどを失った倭王にとって自国の屯倉を増やすことは緊急の課題だったと見えます。では実際どのように対処したのであろうか。記事では地方豪族が何がしかの理由で屯倉を献上したことになっています。例えば、武蔵国の場合は国造の地位をめぐって笠原一族の使主(おみ)と小杵(おき)が争いを起こしています。これを朝廷が裁断し、使主を国造として小杵を処罰したため、使主は畏まるとともに喜んで屯倉を献上したとあります。
 話の内容だけでは使主と小杵とがどういう関係にあるのか分かりかねますが、もし埼玉古墳群が三つのグループ、図ではABCに分けられることと関係しているのだとしたら、これらのグループ化は派閥、おそらく嫡流と庶流による対立が原因で進められたということになります。思うに、百舌鳥古墳群形成の時期、畿内に於いても地方に於いても同族間の差別化が明瞭となっていたと思われます。埼玉古墳群にこの特徴が顕著なのは、やはり天下佐治の乎獲居臣の存在によるものでしょうか。また、墳形にいち早く大仙陵プランを取り入れているのもこの一族が中央に深く食い込んでいたことの証とも見えます。
 差別化がなぜ起こったのか、あるいは差別化することによって一族の財産の拡散を防いだのか、それとも偏に主家の欲によるものか、それは分かりませんが、ある時期を境に倭の膨張も、そして古墳の膨張も止まったことだけは確かです。
 さて、辛亥年以前の大王墓とは即ち大仙陵以後の大王墓ということです。大王墓の大きさを決めるのは大王の力です。確かに、半島における大王の力は低下の一方をたどっています。しかし、国内における大王の力はむしろ増大しています。差別化によって内紛や王朝の交代という弊害に遭ったとしても、差別化が中央集権への道を拓いているのです。
 ところで、武蔵国の紛争中、小杵が助力を求めたのは上毛野です。これには二つほどの意味合いがあります。一つは、当時の地方では朝廷よりも地方の豪族の方が有力であったということです。もう一つは、武蔵国は嘗ては毛野国の領域であった可能性があるということです。しかし、いずれにしても小杵は処罰されています。安閑紀全体に言える事は朝廷の力の地方への浸透ということでしょうか。なお、話では上毛野が処罰を受けた気配はありませんが、これは上毛野三千が天武朝での帝紀と上古の諸事の校訂に携わっていたことによるものと思われます。また、この時期こうした身内の争いは各地で起こっていたはずです。武蔵国の話が取り上げられているのも上毛野三千によるものと思われます。
 さて、大王の力というものはいつの時代に於いても大王の力です。治世の長い大王も治世の短い大王も有する大王の力は同じです。古墳時代に君臨したのが大王なら、大王墓は最初から最後まで巨大であったと言うほかはありません。もし、仮に墳丘長300m以上を巨大とした場合、300m以下の古墳は大王墓ではなくなります。なお、300mという数値は漠然としたものではありませ。最後の巨大古墳、見瀬丸山古墳の墳丘長は318mです。私論としては、これを下回るものは基本的には大王墓ではないと。そうした場合、大仙陵の次の大王墓は河内大塚山古墳となります。無論、これも私論ではありますが。