§21 古墳の分岐点。
『隋書』や『日本書紀』等が歴史の入れ物なら、墳墓は何の入れ物なのだろう。死者の歴史か、それとも単なる過去か。最近、年を取ったせいか過去のいやな記憶は思い出さなくなり、都合の好い記憶だけを選ぶようになりました。思うに、人の脳も何らかの入れ物なのかもしれません。ただ、都合の好い記憶だけを選ぶと、記憶間に時間の齟齬が生じてもいるようです。無論、これは間違いなく私の事を言っているのですが、同時に素人の目から見た今日の古代史の事をも言っているのです。
継体紀に、時間の齟齬を述べた編纂者の言葉があります。そして、編纂者はここではっきりと『百済本紀』を選んだとしています。しかし、今日の歴史家はなぜかこの内容を無視しています。この箇所は継体紀の一番の最後に当たり、最も新しい情報です。これは例えてみれば、HTML文書でのCSSの優先順序にも等しいものです。CSSでは後に組み込まれた宣言が優先されます。つまり『百済本紀』の内容はそれ以前の継体紀の内容よりも優先されるものなのです。
埼玉古墳群と百舌鳥古墳群
600年頃に大化の薄葬令のような厳しい制度があったとも思われませんが、古墳の埋葬様式に大きな変化のあったことは事実です。当時の古墳のほとんどが竪穴式から横穴式へと変化を遂げているのです。背景にあるのは、横穴式は追葬が可能という考えからのようにも見えますが、竪穴式でも墳丘への追葬は可能です、したがって、正確には追葬が易しいと言うべきでしょう。また、横穴式の場合、石室内の追葬ばかりでなく石棺内への追葬も可能となります。九州や出雲地方には横口式家形石棺と呼ばれている追葬に特化したような石棺があるそうです。
思うに、追葬に特化した横穴式や横口式の墳墓は、言ってみれば老い衰えた老人の記憶のように新旧が入り乱れて混在します。神経質な死者や、ましてや上祖の意富比垝以下8代の名前を連綿と書き綴った乎獲居臣にとって、この埋葬方式は耐え難いものだったのではないだろうか。金錯銘鉄剣の埋葬は副葬品の関係から6世紀前半を遡ることはないと言います。仮にその頃の埋葬だとすれば、前章でも述べたように県内最大の二子山古墳への埋葬が最適となります。しかし、そうとはならなかったのは、あるいは以上のような理由によるものなのかもしれません。また、そうだとすれば、被葬者は乎獲居臣本人ということになり、同時に辛亥年も471年から531年以降に引き下げなければならなくなります。
埼玉古墳群の中の大仙陵。
埼玉古墳群は、北に稲荷山古墳が5世紀後半に築かれたのを皮切りに、7世紀初頭築造 の中の山古墳まで大型古墳だけでも9基を数えています。このうち墳丘長が100mを越す
名称 | 墳丘長 | 埋葬施設 | 造営時期 |
---|---|---|---|
稲荷山古墳 | 120m | 竪穴式 | 5世紀後半 |
二子山古墳 | 138m | 竪穴式? | 6世紀前半 |
鉄砲山古墳 | 109m | ? | 6世紀後半 |
将軍山古墳 | 90m | 横穴式 | 6世紀末 |
中の山古墳 | 79m | 横穴式? | 7世紀初頭 |
瓦塚古墳 | 73m | ? | 6世紀前半 |
奥の山古墳 | 66m | ? | 6世紀中頃 |
愛宕山古墳 | 53m | ? | 6世紀中頃 |
丸墓山古墳 | 105m | ?(円墳) | 6世紀前半 |
ものが稲荷山、二子山、鉄砲山の三つの古墳で、北から南へ年代順にきれいに並んでいます。思うに、この三つは後で述べることになりますが、埼玉古墳群内では特別なもののようです。
次に、古墳群中の埋葬施設についてですが、種類の分かっているのは稲荷山古墳と将軍山古墳の二つだけと聞きます。その他は推測するしかないのですが、稲荷山古墳が竪穴式で将軍山古墳は横穴式ですから、少なくともそれらに直近の二子山古墳と中の山古墳の二つだけはそれぞれ竪穴式と横穴式とに推定できそうです。
鉄砲山古墳は竪穴式のグループと横穴式のグループとの丁度中間に位置しどちらとも言えないのですが、墳丘長100mを越す古墳で、しかも稲荷山古墳や二子山古墳とは墳形が同じとされています。また、この三つの古墳は、一説では百舌鳥古墳群の大仙陵古墳をモデルとした縮小版とも言われています。そういう意味では、鉄砲山古墳は竪穴式と言えなくもないのですが、横穴式の可能性もあります。それは、稲荷山から二子山にかけて墳丘は拡大していますが、二子山から鉄砲山にかけては縮小をしているのです。これはオリジナル版とされる大仙陵古墳についても言えることです。大仙陵は日本最大です、つまり本墳を境に日本の古墳は縮小に転じているのです。
縮小に向かう古墳。
大仙陵古墳は5世紀前半から半ばに築造されたとされています。二子山古墳は6世紀前半とされていますから、この二つは時期的には合わないようにも見えます。しかし、大仙陵には5世紀後半という説もありますし、複数の埋葬施設があることもまた確かです。そ こで、大仙陵をⒶⒷ二人の大王の陵墓とし、Ⓐ大王の死後Ⓑ大王が築造をするという慣例を想定した場合、次の陵墓はⒹ大王が築造することになり、ⒸⒹ二人の大王が眠ることになります。また、Ⓑ大王を葬るのはⒸ大王ですからこの時期が5世紀後半であったとすれば、大仙陵5世紀後半説もありうるものとなります。
思うに、拡大を続けていた古墳が縮小に転じる場合、もし前方後円墳が全国的な制度の下で造営されていたなら、当然その縮小に転じる時期は全国同時であったと考えるべきでしょう。図ではⒹ大王の時この取り決めが出来、その最初の陵墓として河内大塚山古墳を挙げていますが、以下これについて話していくことになります。
先ず、大仙陵古墳に続く王墓を探してみなくてはならないのですが、探すに先立ってどの程度の規模に縮小されているのか、埼玉古墳群の例を参考にしてある程度の目安をつけておきましょう。二子山古墳が138mで鉄砲山古墳が109mですから、およそ80%ほどに縮小されていることになります。そうすると、大仙陵が486mありますから、その80%というと、およそ380mほどになります。百舌鳥古墳群の中で380m近くの古墳を探すと履中天皇陵とされている上石津ミサンザイ古墳360mが見つかります。しかし、これは大仙陵よりも古いとされているため、除外するほかありません。
次に目につくのが、全長290mの土師ニサンザイ古墳です。築造時期も5世紀後半となかなか好いのですが、これには三つほど問題点があります。先ず、大きさが60%を切ることです。次に、古墳の向きが大仙陵グループとは違っていることです。最後に、墳形プランも大仙陵とは少し違っていることです。大仙陵は全長486m、後円部径245m、一桁めを切り捨てても繰り上げてもその比は2対1となります。本墳は後円部径が150mですので、その比は 1.93対1ほどになります。しかし、これは或はむしろ好い方なのかもしれません。
墳形のプラン。
百舌鳥古墳群の大型墳のなかで、全長と後円部径との比が 1.9対1ほどになるものが他に二つほどあります。反正天皇陵とされている田出井山古墳148m/76m(1.95:1)と御廟山古墳186m/95m(1.96:1)です。これらは土師ニサンザイ古墳同様、大仙陵よりは新しいとされている墳墓です。そこで、同じか古いとされているものの比を取って比べてみますと、上石津ミサンザイ古墳360m/205mでは、1.76対1。大塚山古墳168m/96mでは 1.75対1。乳岡古墳150m/94mでは1.6対1。イタスケ古墳146m/90mでは 1.62対1となります。
以上のように、百舌鳥古墳群の大型墳は、大仙陵の後とそれ以前とでは全長と後円部径との比がかなり違っています。今日、墳形のプランとして、大仙陵タイプと誉田陵タイプの二つが知られています。誉田陵タイプというのは、応神天皇陵とされている誉田御廟山古墳から得られた全長と後円部径との比、1.67対1の前後の墳形のものを指します。
思うに、今日我々が前方後円墳を当たり障りもなく前方後円墳と呼べるのは、前方後円墳を前方後円墳たらしめる共通の墳形プランがあるからに他ありません。左はその理想とされるものです。ただし古代での事、このプランを正確に地面の上にかき写せたかどうかは疑問です。したがって、墳丘長等のデータはあくまで参考値とするべきものです。
ところで、同じ前方後円墳でもその大きさには無段階とも言えるほどの違いがあるようです。通説では身分による墳丘長の制限があったとされています。しかし、薄葬令に於いても王・上臣・下臣・仁冠・礼冠の5段階しかなく、冠位十二階以前では墳丘を築ける身分は金・銀・銅の三階級ほどだけであったようにも思われます。また、「魏志倭人伝」には邪馬台国には4官があったとされていますが、身分差を表わす記事には大人と下戸しか見えず、基本的には君・臣・民よりなる社会構造としか読み取れません。それになにより、古墳にそうした身分に基づいた制限規則を設けなくても、墳丘の大きさには自然と違いが生じる社会環境が当時既に整っていたようにも見受けられます。
墳丘の大きさを決める最大の要因は、その役夫の動員数にあります。薄葬令の5段階は実にこの役夫の動員数の5段階の制度なのです。『隋書』に、倭には貴人の死に臨んでは3年間外で殯りをする慣習があるとあります。3年の殯りの慣習がいつの頃よりあるのかはわかりませんが、倭王武の上表文に "諒闇" という言葉があります。諒闇というのは正に殯りのことで、倭王武の頃にはそうした慣習が既に出来上がっていたと思われます。殯りの期間は後世になればなるほど短くなるようですが、古墳時代には少なくとも3年以上の殯り、つまり古墳造営の期間はあったはずです。そうすると、一日に何人の役夫を動かせるかが墳丘の大きさを決める唯一の要因となるわけですから、何も豪族間に無駄なストレスを引き起こすかもしれない幾段階にも分かれる墓制制度を無理に制定する必要はないわけです。思うに、通説の言うような墓制制度の無かったことが、大仙陵プランや誉田陵プランの存在につながっているようにも見えます。
国家が定めた陵墓の指定、専門家のみならず多くの人がこれを疑っています。しかし、大仙陵と誉田陵を疑う者は一人もいないと思います。さて、この二つの大王墓、体積は同じだとも言われています。ところが、誰もが大仙陵を日本一大きな古墳だと言います。これはある意味では不本意な結果とも見えます。既に述べているように古墳の大きさを決めるのは役夫の動員数であり、その仕事総量つまりは運んだ土砂の総量によるものです。したがって、計算上この二つの大王墓は同等なのです。
大山古墳 | 誉田山古墳 | |
---|---|---|
墳丘の長さ | 475~486m | 415~430m |
後円部の径 | 245m | 267m |
後円部の高さ | 34m | 36m |
前方部の高さ | 34m | 35m |
表面積 | 104,130㎡ | 111,850㎡ |
総容量 | 145,866㎥ | 143,396㎥ |
左は、昭和56年有斐閣選書『探訪 日本の古墳 西日本編』森浩一編よりのデータの引き写しです。
この数値からも分かるように、大仙陵は誉田陵より2.5%ほどの上積みがあります。しかし、両者の間には少なくとも10年以上の時間差があります。2.5%という数は当時のインフレ率にも満たないものかもしれません。また従来通りの墳形プランでは、2.5%の上積みを地面の上にも図面の上にも生かすことは出来ないでしょう。
ところで、いつも感じることですが、古墳の馬鹿でかさには本当にあきれます。何故こんなにも大きくするのか理解に苦しみます。しかし、古代人がとにもかくにも古墳を大きく見せようとしていることだけは良く分かります。例えば古墳のはしり、山陰から北陸にかけて見られる四隅突出墳丘墓、さらには岡山県倉敷市の楯築墳丘墓、これらは墳丘の形を大きく変えることの分かっている作業道を残したままの状態を墳形としています。このことは、古代人が墳丘の形にではなく大きさにこだわっていることを示しています。要するに作業道を残せば、その分だけ墳丘は大きく見えるのですから。
前方後円墳を円墳築造過程での作業道を残したものとは言いませんが、同じ容量を用いて大きく見せる方法は作業道、つまりは前方部を引き伸ばす方法が一番のようです。柄鏡式と呼ばれている前方後円墳は正にこれの典型ではないかと。大仙陵と誉田陵は容積においてはほとんど変わりませんが、墳丘長では1割以上の開きがあります。つまり大仙陵は大きく見せるために前方部を引き伸ばしたのです。
古墳時代、古墳の大きさを決めたのは墳丘長の制限ではなく、豪族が動員できる役夫の数によって自然と決まったものなのです。さて、そこでもう一度本題に戻り、そして新たな条件を付け加えてみましょう。つまり、大仙陵タイプの80%と誉田陵タイプの80%とはほとんど同じであると。
誉田陵の墳丘長は415~430m。これの80%は332~344m。実は、大仙陵と誉田陵との中ほどに332~344mの墳丘長を持つ古墳が一つだけ存在します。河内大塚山古墳335mがそれです。