古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

歴史の分岐点。太安万侶の道標、その20。

 太安万侶の道標、素人の案内でかえって道に迷ったかもしれません。実は、斯く申す私も陰陽の道に太安万侶の道標があるのか、それとも太安万侶の道標に陰陽の道があるのかが分からなくなってしまいました。しかし、それはどちらでも好いことです。歴史の道を歩く上で肝要なのは、その分岐点に来たときです。分かれ道には塞の神の力が働いています。右へ行くか左へ行くか、どちらか一つに決めなければ歴史の道を歩いたとは言い得ません。たとえ、迷うことになるとしてでもです。それに、それが素人の特権というものでもあります。この特権の行使なくしては、素人の素人としての役目は果たせません。

歴史の入れ物

 古代史の分岐点の一つに推古紀があります。これを煎じ詰めると、『日本書紀』を取るか『隋書』を取るかという問題につき当たります。利口な歴史家はこれを避けて通りますが、愚かな素人はどちらかを選びます。私は『隋書』を選びました。そして、『隋書』を選んだ以上、当然法隆寺金堂の金石文について一言述べなくてはならなくなりました。なぜなら、この金石文の解釈が『隋書』によって従来のそれとは違ってくるからです。
 思うに、歴史の分岐点には必ず歴史の入れ物が落ちています。『日本書紀』や『隋書』や光背、そして鉄剣等です。どうやら、一言では収まりそうにありません、

光背と鉄剣。
法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並著於床。時王后王子等、及與諸臣、深懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安住世間。若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。

以上は法隆寺金堂釈迦三尊像の光背に彫られている銘文です。
 この銘文の解釈ですが、従来通りですと、鬼前太后は上宮法皇の母親となります。しかし、『隋書』を優先させれば、鬼前太后は現大王の母親、つまり上宮法皇の皇后となります。また、干食王后は現大王の前皇后となり、銘文の "時王后王子等" の王后は現大王の新しい皇后ということになります。そもそも、最後の一文 "使司馬鞍首止利佛師造" が述べているように止利佛師を使ってこれを作らせたのは現大王なのです。現大王こそがここでの主役なのです。なお、上宮法皇の上宮は上の宮の意味ではなく上祖の上に近い意味を持っていると見るべきです。
 さて、銘文によればこの法皇は法興という元号を持ち、その32年2月22日に亡くなっています。この王が仏徒であることは明白で、おそらく仏徒になったその年を記念して法興という元号をつけたものと思われます。ところで、その年、つまりは法興元年ですが、実は591年辛亥の年に当たるのです。辛亥年、しかも仏教とくれば、考古学に興味のある者なら必ず稲荷山古墳(埼玉県行田市埼玉古墳群内)出土の金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)を思い浮かべるのではないだろうか。この鉄剣には次のような銘文があります。

亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
…①

以上は鉄剣の両面に表わされた金錯銘文を片面ずつ二段にして示したものです。
 周知のように、この銘文の辛亥年については471年が通説となっております。その他としては、一部に531年という意見があるのみです。それをここでは591年とするのですから、妄想の極みと受けとられ兼ねないことになるとは思いますが、これもまた歴史の道の分岐点、避けていたのでは先には進めません。ただし、古墳そのものの年代を引き下げるのはあるいは難しいのかもしれません。しかし、話を先に進めましょう。
 銘文に "獲加多支鹵大王在斯鬼宮時" という一文があります。「獲加多支鹵」を地名とした場合、文中の「寺」は王の名前となります。また、「獲加多支鹵」を通説どおり「ワカタケル」という名前とした場合、「寺」はいわいる寺院の寺と通説の云う役所という意味を持つ寺との二通りの解釈につき当たります。ここにも歴史の道の分岐点があります。辛亥を591年とした以上ここでは寺院の寺を選ぶことになります。なお、「ワカタケル」を一般名詞とした場合、「寺」は王の名前となりますが、江田船山古墳出土の鉄刀銘の例もあり、通説どおり「ワカタケル」は王の名前とします。以下参考のため、熊本県玉名郡和水町江田船山古墳出土の鉄刀銘を加えておきます。

治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人、名无利弖、八月中、用大鉄釜、并四尺廷刀、八十練、九十振、三寸上好刊刀、服此刀者、長寿子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者、名伊太和、書者張安也
…②

 なお、金石文字の判読は専門家にも難しいそうです。また、文の解釈にしても専門家間に相違が見られます。したがって、素人が口出しを出来る範囲は極めて限られています。しかし、それでも口を出したがるのが素人です。もうしばらくお付き合いの程を。
 稲荷山鉄剣の主は乎獲居臣。読み方は「ヲワケ」と読むのだそうです。彼は自らを臣と名乗っていますが、ここでの臣というのは、君(きみ)、臣(おみ)、民(たみ)といった一般名詞のうちの一つにすぎず、後世の階級的な違いを表わすようなものではなかったと私は見ています。と言うのも、同じ臣姓ありながら明らかな階級差が認められるからです。

各田卩臣□□□□□大利
…③

 上は、島根県松江市大草町岡田山1号墳出土の鉄刀の銘文のうちの判読可能な部分とされたものです。「各田卩臣」の読みは額田部臣(ぬかたべのおみ)だそうです。この額田部臣がこの鉄刀の所有者だとすれば、乎獲居臣との間に明確な格差が存在します。実は、額田部臣の鉄剣の銘文は銀象嵌によるものであるのに対し、乎獲居臣の鉄剣の銘文は金象嵌によるものなのです。つまり、同じ臣でありながら金と銀の違いがあるのです。
 推古紀19年の記事に、菟田野の薬猟の時、大徳と小徳は冠の飾りに金を用い、大仁と小仁は豹の尾を用い、大礼以下は鳥の尾を用いたとあります。また、推古紀31年の記事によれば、小徳は将軍、特に副将軍の冠位となっています。あるいは、杖刀人首である乎獲居臣は大徳クラスということになるのかも知れません。また、江田船山鉄刀の場合は銀象嵌ですから、この持ち主の典曹人の无利弖は小徳よりも低いクラスの官人ということになります。察するに、この无利弖の上には典曹人首がいることになります。つまり、首が付くか付かないかで金象嵌になるならないの違いが生じたことになります。首とは将軍以上、大臣クラスの長官ということなのでしょう。
 さて、金と銀が出ました。オリンピックではありませんが最後に銅が出なくては話は終わりません。

辰年五(月中)
…④

 兵庫県養父市八鹿町小山箕谷2号墳から待望の銅象嵌による銘文を持つ鉄刀が出土しています。上がその銘文のすべてです。なお、養父は(やぶ)、八鹿は(ようか)、箕谷は(みいだに)と読むそうです。銘文は、稲荷山鉄剣と同じように作刀年の干支紀年を持ちますが、刀身の柄寄りの部分に「戊辰年五(月中)」としかありません。思うに、単に戊辰年を記念してのものなのかと興味の引くところです。そこで、法興の年号内での戊辰年を探してみますと、608年がそれに当たることになります。なお、()内は推定文字です。

墓制の分岐点、前方後円墳の消滅。

 『隋書』に、「大業三年(607)、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す」 とあります。また、「明年(608)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使せしむ」 ともあります。そう、戊辰年卑弥呼以来数百年の年月を隔てての中国の使者の訪れた年なのです。多利思比孤は仏法を興した年を記念して法興という年号を作り、隋の使者の訪れたことを記念して戊辰年銘大刀を作った。そして、戊辰年銘大刀は使者の来訪に功績のあった大礼以下の官人に与えられたもの、とも思えます。そして、そう思えば、辛亥年銘鉄剣の主乎獲居臣は、大王が仏法を興し斯鬼宮に寺を建てたのを記念してこの剣を作ったということになります。
 古墳の考古学的年代にこだわらなければ、銘文を持つこれら四つの剣あるいは刀が、素人の稚拙な物語で法興の年号内に収まります。なお、法興という年号は『隋書』には記載がなく、公の年号ではなかったものと思われます。このことは、仏教そのものが公のものではなかったことを意味しています。それは、『隋書』のなかに寺院についての王との会話や報告の記載がないことにも現れています。おそらく、裴清の来日した608年の時点では堂塔の揃った寺院は未だなかったのではないだろうか。そのせいか、辛亥年銘鉄剣は、大王の寺は斯鬼宮に在るとしています。
 さて、年代にこだわらなければ、とはしましたが、こればかりは避けては通れそうもありません。先ず辛亥年銘鉄剣の稲荷山古墳ですが、この造営時期は5世紀後半とされています。ただし、この鉄剣が出た礫槨の場所は後円部の中心を外れた前方部寄りの所にあるため、この礫槨に埋葬された主は本墳の真の造墓者ではないとされています。また、礫槨出土副葬品の編年から鉄剣の主は6世紀前半頃に追葬されたと考えられています。
 要するに、通説の471年というのは、6世紀前半に礫槨に埋葬されてたのは鉄剣を引き継いだ乎獲居臣の子供の誰かというもので、雄略(ワカタケル)天皇の治世に合わせての471年と推察できます。ここにも歴史の入れ物、そして分岐点があったようです。慎重な専門家と雖も、ワカタケルの誘惑には抗しきれなかったようです。
 思うに、古墳の編年や副葬品の編年はその指標となる基準年が変わればすべてが遡ったり降ったりします。ただし、その相対的な年代は変わりません。ここでの場合だと、5世紀後半と6世紀前半との差の半世紀、つまり50年という差です。この差に注目した場合、天下を佐治した乎獲居臣の子孫が50年ほどの間に、しかも古墳時代真っ只中の6世紀前半になぜ新しい前方後円墳が造営出来なくなったのかという疑問が浮かんでまいります。
f:id:heiseirokumusai:20170814225337g:plain  稲荷山古墳は埼玉古墳群内中最も古い古墳とされています。大きさは二子山古墳に次いで2番目を誇ります。乎獲居臣の子孫がこの古墳に強いてこだわったとも考えられますが、実は二子山古墳は6世紀前半の造営とされているのです。つまり、乎獲居臣の子孫が築いたとすればこの古墳が最適なのです。しかし、通説にこだわる限り、そうとはなりません。通説にこだわれば、彼らは没落したことになる。しかも、それだけでは済まなくなります。そう、鉄剣ばかりでなく、副葬品そのものが先代のものである可能性が出てきます。つまり、この礫槨の年代を決めた副葬品そのものが二次的なものとなってしまうのです。
 ところで、前方後円墳消滅の時期について考えたことはないだろうか。1990年発行というから随分と昔ですが、人物往来社から『前方後円墳の消滅』という本が出版されています。本の内容は、関東地方の前方後円墳は600年を境として消滅したらしいというものです。600年はともかく、前方後円墳と同時に巨大古墳が何時の時期か消滅したことは事実です。畿内では、見瀬丸山古墳を最後に前方後円墳と巨大古墳は姿を消しています。その理由を素人なりに探ってみますと、冠位12階にたどりつきます。
 察するに、この冠位の出来た時期は、おそらく遣隋使を派遣する前年の599年ではないかと。『旧唐書』によれば、日本は貞観22年(648)を最後に長安3年(703)までの間遣唐使の派遣を中止しています。派遣を再開したのは、『続紀』によれば律令制定の翌年大宝2年となっています。思うに、国家の体裁を整えた上で中国に使者を派遣する、あり得ることではないだろうか。そうだとすれば、600年の遣隋使の派遣は、その前年に国家の体制を整える何らかの制度が完成したことを受けてのものだったということになりはすまいか。そして、その制度の中には冠位12階を含む諸々の制度、当然墓制等もあったのではないのかと。
 多利思比孤の墓制によって、600年を境として墓のあり方が変わってゆく。乎獲居臣はこの過渡期の最中に死亡したのではないのか。そして彼は、その永眠の地を最も大きな二子山古墳ではなく最も古くて由緒のある稲荷山古墳としたのではないだろうか。無論、彼の死を600年前後としたのでは、副葬品の編年との整合が壊れます。しかし、副葬品の中には6世紀末から7世紀初頭築造の古墳からの出土品と同型あるいは同類の物もあるのだそうです。
 墳墓は、生前から築く寿陵の外はその主の死後築かれます。その時、もし大化の薄葬令のようなものが突然出されたとしたらどのようなことになるだろうか。乎獲居臣は大徳のクラスです、薄葬令によれば使役できる人員は500、期間は5日間だけです。さて、これでどれほどの墳墓が築けるのだろうか。ちなみに、仁徳天皇陵は完成までに15年と8ヶ月、総員数680.7万人を要すると大林組が算出しています。
 600年当初に思いをめぐらしてみると、先ず目に入ってくるのが横穴式石室です。さきたま古墳群内で、横穴式と確認されているのは将軍山古墳のみです。さて、どうするべきか。