古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

朝廷を形作る数。太安万侶の道標、その18。

 十や百には、充分あるいは一杯という意味での言葉、十分や百足るがありました。8はどうでしょう。今風には、腹八分目に医者要らずでしょうか。8には、丁度好いという意味もあるのかも知れません。なにせ八卦占いは丁度好いのに限りますから。相撲の "ハッケヨイ" もそういった意味だと聞いています。
 『紀』欽明天皇15年(556)2月の記事に易博士(やくのはかせ)が百済より来たとあります。『紀』が易をわざわざ "やく" と読ませているのは易が益(やく)につながるからかも知れません。日本は易の中に益を見たのかも知れません。なお、『紀』には、易経を含む儒家が重んじる五経を教える百済五経博士継体天皇7年(513)より交代で日本に来ていると記しています。あるいは日本と易との関係はこの時より始まるのかも知れません。
 思うに古代人は、数を単に数詞だけとしてではなく、いろいろの意味内容を含ませて用いているようです。とりわけ8は、八という字形に加えて八卦すなわち太極・両儀四象八卦・六十四卦と末に広がっていく形や、さらには四方をさらに極めた八方という全方位を表わす形として古代人の文化の中に浸透していったように見受けられます。

朝廷を構成するもの、大極殿、朝堂院。

 「隋書俀国伝」に次のような記事があります。

倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停め、云うわが弟に委ねんと。
 《岩波文庫 隋書倭国伝より》…①

これについては、日本の古代からの慣わし "日嗣" のことを述べたものであるとするのが大方の意見のように見えます。おそらくそうだと思います。しかし、 "日嗣" は兄弟間だけで常に終始するものではありません。また、仮にこの王の時がそうであったとしても、天を兄とし日を弟とするその理由の背景が今一つはっきりしません。あるいは、兄は既に死して天にいるというのだろうか。それなら、生きてると思われる弟がなぜ日となって天空にあるのだろう…。それとも彼も既に死しているというのだろうか。
 そこで、これを数字に置き換えてみましょう。すると、兄は長男の一に、自身は二男の二に、弟は三男の三になり、三兄弟が1・2・3という三つの数に置き換わります。
 さて、1と云えば太一。2と云えば…、分かりませんが、3と云えば違うことなく太陽です。太陽には三本足のカラスが住み、中国では古来よりり太陽を表す数が3とされてきています。そうなりますと、2は月を表わすことになります。なぜなら、太一は北極星のことで太極でもあります。太極とくれば、太極・両儀四象八卦とくるのが当時の習いでしょう。両儀は陰陽、月と太陽のことでもあります。しかし、倭王は自らを月としているわけではありません。なぜなら倭王大極殿(正確には大内裏)に居しているからです。
 「隋書俀国伝」の時代、大極殿が存在していたかはともかく、冒頭でも少し述べたように、八卦(易経)は既に伝わっていたと思われます。例えばこの王が制定した冠位十二階、この十二階に三兄弟の3を加えると15となります。これは太極・両儀四象八卦を数に置き換え、これを加え合わせた数と同じなのです。そして八卦が伝わっていたとすれば、太極を理解する上での道教神話もまた伝わっていたはずです。道教神話によれば、紫微宮(大内裏に当る)には北極星を神格化した天皇大帝と紫微大帝の他合わせて4柱の神が居るとされています。また、天皇大帝が長男、紫微大帝が次男とも言われています。もしかしたら、次男を称する倭王は自らをこの紫微大帝に擬しているのかもしれません。と言うのも、紫微大帝は雨や風や日月星辰を司る天帝とされているからです。しかも、倭王の名の阿毎多利思比孤は、雨垂し彦とも出来るのです。なお、大内裏という呼称は12世紀以降に登場します。

朝堂院と数

 阿毎多利思比孤は、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘によれば622年に死亡しています。光背銘はその翌年623年に刻まれていますが、この中に "法興" と "法皇" の文字が見えます。この王が隋の煬帝を "海西の菩薩天子" と呼んでいることから、自身を海東の菩薩天子になぞらえていることは確かで、法興と法皇の "法"は 明らかに仏法の法と読み取れます。また、法皇の皇は道教神からのものでしょう。天皇号の起源をこの天皇大帝に求める説がありますが、おそらくそうでありましょう。思うに、仏教に深く帰依し、八卦を操り、道教の神とも親しむ、これが当時の有識者のあり方なのやも知れません。
 ところで、海西の菩薩天子さらには海東の菩薩天子、これらは具体的に何を指しているのだろう。法隆寺金堂には三体の本尊があります。西の間から、阿弥陀如来像、釈迦三尊像薬師如来像の順で安置されています。これはそのままで既に三尊形式になりますが、本来は個々それぞれが三尊形式だったとされています。今日、三尊像として残っているのは中の間の上宮法皇の尺寸王身釋像だけです。この尊像の両脇侍は銘文から鬼前太后と干食王后とに読み取れます。しかし、そうではあるが、あるいは日光菩薩月光菩薩に擬しているのかもしれません。
 思うに、仏教では西方が阿弥陀如来、東方が薬師如来とされています。すると、海西の菩薩天子とは阿弥陀如来になるべく修行を積んでいる菩薩ということになり、海東の菩薩天子とは薬師如来になるべく修行を積んでいる菩薩ということになります。上宮法皇は尺寸王身釋像の姿になっていますから、既に薬師如来ということなのでしょうか。
 薬師如来は、東方浄瑠璃世界の教主で、日光菩薩月光菩薩を脇侍とし、十二神将を眷属とする、衆生にとっては病と苦しみを癒し救ってくれる多分に現世利益的な仏でもあります。現世利益的といえば、八卦占いや道教もまたそうであります。あるいは、冠位十二階を十二神将に置き換えても好いのかも知れません。また、十二神将を眷属すなわち親族と見做せば、天武の制定した諸王用の位階、明位と浄位が合わせて十二階であることにもつながります。天武もまた儒仏道を修めた天皇なのです。儒教仏教道教、これらが錯綜する世界が古代にはあったのです。
 王は紫微宮(天の中心)に居して、日月を司る、あるいは従える。道教的神殿に北極星として座し、しかも仏徒として日月を脇侍として天下を治める。これが隋に "日出ずる處の天子" と名乗った倭王阿毎多利思比孤の理想の姿なのです。そして、この理想の姿あるいは形が後の宮殿造りに現れてきます。先ず、藤原宮から見てみましょう。
f:id:heiseirokumusai:20170731220514g:plain  左は八卦生成の木構造(14章の図14c)を、藤原宮の大極殿から朝堂院にかけて順次宛がっていった図です。太極を大極殿に宛がうことは誰もが先ず考えることだと思います。そして、実際、藤原宮と整合しました。
 周知のように、「記紀」成立以前の宮殿で、大極殿と朝堂院とが揃っていたとされるのは前期難波宮と藤原宮だけです。ただ、近江大津の宮が、あるいは前期難波宮の縮小版であるかもしれません。しかし、それはさておき、前期難波宮は藤原宮を先行する宮殿であります。普通に考えるならば、藤原宮は前期難波宮に似ていなくてはなりません。しかし、必ずしもそうとはなっていないようです。

難波宮朝堂院

f:id:heiseirokumusai:20170731220920g:plain  左は、普通に見かける前期難波宮の復元図です。藤原宮の場合と同じように太極以下を宛がってみました。
 図からも分かるように、太極と両儀とは宮殿建物と関連表示することが出来ましたが、四象八卦とはそれが出来ませんでした。と云うのも、前期難波宮の朝堂院は藤原宮のような東西6棟ずつの12棟の並びではなく、東西7棟ずつの14棟の並びとなっているからです。『紀』によれば、難波宮の造営計画は、孝徳天皇が大化元年(645年)の12月に行った遷都宣言以降と思われますので、上宮法皇の死(622)より23年後、藤原宮造営計画(天武13年とすれば684)の39年前ということになります。そこで、もし仮に近江大津宮が東西7棟ずつの14の朝堂院を有していたとしたら、半世紀近くの間14朝堂院の思想が息衝いていたことになります。
 14朝堂院の思想は、倭王阿毎多利思比孤の①の言葉の中にあります。阿毎多利思比孤の時代、大極殿も朝堂院も無かったと思われる時代ですが、仮にこの王がそれらを造ったとすればどうなるかを少し考えてみましょう。
f:id:heiseirokumusai:20170731221416g:plain  先ず、天を兄とし、日を弟とする倭王の立場ですが、左図のⒶのようになります。
 ①は太一であり紫微宮でもあります。ここでは、倭王次男の紫微大帝に当たり、北斗七星を従え恵みの雨を北斗の柄杓より降らせます。と、このように述べれば、この王の宮殿はⒸのように東西日月の下にそれぞれ7つの朝堂院を持つ前期難波宮と同じ14の朝堂院を有する宮殿となるやもしれません。
 しかし、それならば冠位を6種12階とはせず、7種13階あるいは14階としているはずです。実際、難波宮の創設者孝徳天皇は7種13階の冠位を制定しているのです。思うに、この王が12階の冠位にこだわったのは、やはり自らを薬師如来を目指す海東の菩薩天子だとする自負があるからでしょう。また、この王に従うのは十二神将をおいて他にはないということなのかもしれません。そしてなにより、四象八卦にも合えば十二支にも合うということでもあります。
 しかし、ここでの肝心なことは実際の朝堂院の初めは孝徳朝の14朝堂だということでありながら、それがなぜ12朝堂となったかということなのです。

推古11年(603) 6種12階
大化3年(647) 7種13階
大化5年(649) 7種19階
天智3年(664) 7種26階
天武14年(685) 8種60階
大宝元年(701) 9種30階

 左は文献に見える冠位あるいは位階の制度を年代ごとに示したものです。この表から時代を追って冠位の種や位階が増えているのが読み取れます。そういう意味では、AからBへの冠位増加の変化は14朝堂院に合わせてのものと見えます。しかし、Eへの変化をどう見るべきか。実は、Eは普通6種48階と呼ばれているものなのです。8種のうちの明と浄の12階は諸王位用であって一般のものではありません。加えて、この制度は藤原宮にも引き継がれ12朝堂院とも調和しています。つまり、Eへの変化は、必ずしも全面的に増えているとは言い得ないのです。
 思うに、政府が大きくなれば位階も増える。単純にはそうだと思います。しかし、二階から目薬とも言います。縦型社会は引き伸ばせば引き伸ばすほど効率が落ち、加えて齟齬も出ます。それに比べて、八卦はわずか三つの爻しかありません。その八卦二つよりなる易は、六つの爻で百般の事象を表わす働きをします。そもそも政府朝廷の要大極殿易経の太極より出た呼び名です。易が6爻で百般の働きをするなら、朝廷は6種の冠位あるいは位階で百般の働きをさせる。そう云うものではないだろうか。
 思うに、孝徳や天智は北極星にこだわり過ぎ、北斗七星こそが百般の働きをすると思い込んだのかも知れません。なお、Fの制度ですが、9種30階で一見12朝堂にはそぐわないようにも見えますが、

2種12階 6種48階
3種6階 6種24階

実はEと同じことがFについても言えのです。Fの9種のうち正一位から従三位までの3種6階は、正四位以下にはある上と下の位階がなく特別のものと見ることが出来ます。したがって、Fは実質6種24階となりEの位階を半分に縮めたものとみなすことが出来ますし、そもそも、この制度は藤原宮12朝堂院で出来たものなのです。
 八卦と云えば8。しかし、3でもあり6でもあるということです。天武の時代、易の思想は深く根付いてきているようです。最後に、前期難波宮八角殿についての私論を述べて、この章の終わりといたしましょう。
 既にお気付きのこととは思いますが、この建物には日と月を象徴するものが納められていると云うのが私の主張です。孝徳紀によれば、この天皇は仏法を尊んで神道を軽んじたとされています。そういう仏教的な見地に立てば、それらは日光菩薩月光菩薩ということになります。ただ『紀』には、この天皇の即位の際に大伴の連と犬上の君の二人が金の靫(矢入れ)をつけて壇(たかみくら)の左右に立ったともあります。
 これは何とはなく『記』の天孫降臨の一場面を思い浮かべるような内容です。天孫降臨では、大伴の祖の天の忍日の命と天つ久米の命の二人が天の靫・弓・矢を身につけて天孫を導いたとあります。あるいは、金の靫の中にあるのは天の矢かもしれません。矢には、丹塗り矢が稲妻を表わすように光の意味もあります。天の矢とは天からの光で、正に日光と月光のことでしょう。しかし、神話には、天の波波矢(ははや)と天の真鹿児矢(まかごや)とがあるだけです。
 ところで、天から矢の様に舞い降りるものがあります。そう、鳥です。神武紀では八咫烏と金鵄が登場し、神武の手助けをしています。この二羽を日月の象徴とすることは出来ないであろうか。無論、古典的には八咫烏も金鵄も太陽の象徴です。しかし、天皇即位の礼の日に用いる大錦旛(だいきんばん)では、八咫烏あるいは金烏を刺繍した大錦旛は日像<纛旛(とうばん)と対にされ、金鵄を刺繍した大錦旛は月像纛旛と対にされています。
 思うに、太陽を陰と陽とに分ければ金烏(きんう)と金鵄(きんし)とになるのではないだろうか。金烏玉兎(きんうぎょくと)という言葉があります。金烏は太陽の異称、玉兎は月の異称です。転じて歳月を表わす言葉となるのだそうですが、金烏と金鵄をそのように並べた場合、金烏が太陽なら金鵄は太陰つまりは月となるほかはありません。
 『記』には金鵄は登場しませんが、『紀』では対として登場しています。また、後世に於いても対として扱われています。対とは陰陽の対の事です。陰陽思想は、陽があれば必ず陰があるとする法則で成り立っています。そういう意味では『記』にも金鵄は登場しているのです。金鵄は、記載されてはいないが記載されている。これと良く似た扱いをされているものに三種の神器の一つ八尺瓊勾玉があります。
 八尺瓊勾玉八咫鏡天叢雲剣とで三種の神器をなし、皇位継承の証として代々引き継がれてきたものです。しかし、その継承の記事に剣と鏡の引き継ぎは記載されてはいますが玉の記載はありません。しかし、鏡と玉を陰陽の対と見做せば、玉の記載もあったということになります。ところで、神武紀には神武の三種の神器とでも呼べるものが天から下されています。八咫烏と金鵄と熊野の住人高倉下が神武に献上した剣がそれです。これを本来の三種の神器を見比べて見ると非常によく似ています。思うに、金烏で事足りるものをわざわざ八咫烏としたのは八咫鏡に合わせるためのものと見えます。また、月の異称玉兎と八尺瓊勾玉とは何か通じ合うところがあるようです。
 さて、神武の東征は、金鵄が神武の弓の先に止まることによってその最終段階を迎えます。弓は弦月の象徴、その先端に止まる金鵄もまた月の象徴。