昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§12 八卦方位図が示すもの。

 安万呂の道標に従って思うままに進んではまいりましたが、不手際や説明不足、さらには書き漏らし等が目立ってきているようです。そこで、今回はそれらの中でも特に矛盾めいた事柄について少し補足をしておきたいと思います。

八卦方位図と自然

 陽と揚。陰と隠。これら漢字の音に連想をめぐらせば、陽は日の揚がることを意味し、陰は日の隠れることを意味していることになります。そして、これによって、東を陽とすることが出来、西を陰とすることが出来るようになります。以上は4章で述べたことですが、これに遅れ馳せながらもう少し付け加えますと、日の揚がる天を陽とし、日の隠れる地を陰とすることもまた可能となります。

天南地北、天北地南

 さて、そうなりますと陽の東、陽の南が天ということになり、陰の西、陰の北が地ということになります。f:id:heiseirokumusai:20170619223158g:plainそこで、左の図を見てください。これは、陰陽五行の八方位図に八卦方位図と四門を描き加えたものです。この図では、天は陰の極みに位置し、地は陰陽の狭間に位置しています。さらに、南北関係だけでこれを見れば天北地南となります。また、東西関係では天と地は西に偏して東にはありません。これは、どう見ても矛盾としか言い得ません。
 しかし、既に述べていると思いますが、五行の方位には土行つまり中央があります。これはまた陰陽の中央でもあります。これを単純に陰陽のどちらかと決めることは出来ません。それに天地は上下の関係で東西南北の関係ではありません。しかし、仮にそうだとしても八卦方位図は何故このような形をとるのだろうか。
 これも既に述べていることと思いますが、陰陽五行は自然に適った無理の無い思想です。当然、八卦もそうであると見るべきでしょう。
 下図は、上図を中国地図の上に重ねたものです。これを見れば分かるように、中国の東と南は海です。f:id:heiseirokumusai:20170619223406g:plain海人ならいざ知らず、東あるいは南に天や地を配することは出来ません。したがって、西と北に配置するほかはないのです。しかし、西と北とでは対峙の関係にはなりません。この関係が可能なのは南北の関係に置き換えられる南西と北西に配置した場合のみです⇒(南西⇔北西)= 西(南⇔北)。
 つまり、西の陸側に天地を配することになるわけです。その結果、西に偏ってしまったのです。無論、これだけですと問題はないのですが、なぜか陽の天を陰の北、陰の地を陽の南としてしまっているのです。これもまた矛盾と言うほかありません。そこで、今度は次の図に目を移して下さい。この図から、これが必ずしも矛盾ではないことが読み取れます。
f:id:heiseirokumusai:20170619223559g:plain 左は五行思想の基本原理、五行相生の関係を表わしたものです。この基本原理、相生の関係を右の五行八方位図で成立させようとすると南西方向の土行のみが有効となります。土行は土地をも意味しますから、この位置に八卦の象徴の一つ地を配置することは至極自然な成り行きなのです。

天子南面

 さて、地を南西つまりは南に配置したのは、前述した通り妥当なことです。では、そのために天を北西つまり北としたことは妥当なことなのだろうか。
 ところで、天子南面という言葉があります。古来より、天子は臣下に対してその北側に位置し南を正面としたために生まれた言葉です。ただし、北半球では南にある太陽の陽光を取り入れるために天子ばかりか家屋でさえ南面しています。あるいは、そういう事でもあるのかも知れません。しかし、これだけでは単に南面でしかありません。肝心なことは北に位置するということです。陽の天の子が陰の北に位する。思うに、古代人にとって、天を北にすることは何ら不自然ではない事のようです。
 「易伝」の一つに「繋辞伝」があります。それには"易に太極あり"といった言葉があるそうですが、この太極、易や陰陽思想では万物の根源を表わす言葉となっております。これを自然に照らし合わせてみますと、宇宙の根源あるいは中心となります。ところで、この宇宙の根源や中心を表わすも一つ別の言葉に"太一"があります。太一は普通、北極星と解されています。古代中国では、この北極星を天子になぞらえてもいます。また、日本でも天皇の御座のあるところを大極殿と呼んでいるように、古来より太極・太一は自然の中では北極星を指しているのです。天子が人間界の中心にあるように北極星は天の中心にあるというわけです。そして、これが宇宙の中心、天の中心でもあるのです。
 陰の極みともいうべき北極星の位置に陽である天の中心がある。これは矛盾でも何でもありません。「緯書」の中に"斗は陰に居し、陽に布く。故に北斗と称す"とあります。北斗とは北斗七星のことです。北斗七星は柄杓の形をした星座です。これが北極星の周りを回ることから、古代人はこれが何か、ここでは陽ということになるのだと思いますが、あたかもそれを振り撒いているように見えていたのかもしれません。つまり、北斗七星は陰に居て陽として振舞っているということなのです。

八卦方位の決め方

 八卦方位図の中で最も不自然と思われた天と地の位置が、実際は自然の理に適った配置でした。今日、普通に見かける八卦方位図は、「説卦伝」にある 上帝は震から出発し、巽…離…坤…兌…乾…坎…艮で…成しとげる によるもので古来からのものです。震から艮は八卦名で、ここでは自然との関係から話を進めていますので、それらはここではその自然の象徴としての雷・風・火・地・沢・天・水・山になります。雷は方位では東に位置し、山は北東に位置します。単純には、太陽が東から昇って、山の向こうに沈むといった類のものなのかもしれません。それはともかく、これらの配置が自然なものなのかを少し考えてみましょう。
 図12aからも分かるように中国の東南は海です。したがって、東と東南と南の方位に置くことの出来ない自然の象徴が出てくることになります。それは、天と地と山と、そして沢です。そこで、沢を何処に置くのが最も自然であるかを先ず考えてみましょう。
 沢は沼沢の沢で、常に水で潤っている状態のところです。周知のように、中国の地勢は西高東低となっています。したがって、その主要な河川、黄河揚子江淮河、珠江は西から東に流れています。つまり、西にはそれらの源流域があることになります。当然、そこは常に水で潤っていなければなりません。方位図が沢を西に置いていることは自然の理に適っています。
 次に、山はどうか。沢が西で、北西と南西が天と地ということですから、山は北か北東のどちらかということになります。ところで、中国で山といえば五行方位(東南西北中)に合わせて名づけられた五岳(ごがく)が有名です。その五岳の中で最も名高いのが、東岳に当てられている泰山です。泰山は春秋戦国の時代から既に大山の象徴としての名を馳せていたことが孔子荘子の話しからうかがえます。さて、東岳と呼ばれる泰山ですが、周王朝の都があった西安や洛陽からは東というよりもむしろ北東に近く、八卦方位図に合わせれば正に北東の艮に当たります。つまり、古代中国で山といえば泰山のことであり、それが周の都の北東に聳えているとなれば、山を北東とすることに不自然はありません。
 さて、残る組み合わせは水を北に配することですが、周知のように水は五行方位でも北に配されています。易はこれに倣ったのだろうか。しかし、仮にそうだとしても五行思想はなぜ水を北に配したのだろう。よく言われるように、冷たい水を同じように冷たい北に配したということなのだろうか。それとも、火を南に配したためなのだろうか。

太一生水

 1993年、中国湖北省荊門市にある郭店楚墓から出土した竹簡に、太一から始まる宇宙の生成順を示したものがあるという。それは、太一、水、天、地、神明、陰陽、四時、倉熱、湿燥、歳という順序だそうです。面白いことに、太一から先ず水が生まれています。
 太一は前節で述べた北極星のことです。また、柄杓の形の北斗七星が陽を撒き散らすとしましたが、現実には柄杓から撒き散らされるのは水でしょう。そして、この水は雨となり、先ず天から、そして次に地へと降り注ぎます。つまり、水が雨となるためには天と地を必要とします。天と地が出来れば、天地を司る神が必要となります。神が生まれれば、天地を照らす太陽と月を造ります。日は日を数え、月は月を数えて四季を割り振ります。四季が生まれれば、寒い季節や暑い季節をあてがいます。寒暖が生まれれば、湿乾も生じます。そうして、一年が出来がります。その一年(歳)が経巡り回って万物(宇宙)を育みます。なお、竹簡文では、太一から水が生まれ、水と太一から天が生まれ、太一と天から地が生まれ、太一と地から神明が生まれるとなっているそうです。
 実に、素朴で明解な宇宙生成の順序です。郭店楚墓は紀元前300年頃の楚の貴族の墓とされていますから、これは秦漢以前の宇宙生成論とも言えるものです。これによると、陰陽は月と日のことで暦によって正確に四季が決められ、一年が、そしてすべてが規則正しく始まるということなのでしょう。中国で正確な暦が出来たのはこの頃とされています。
 思うに、自然現象の中で空から雨が降るということ以上に人の生活を左右するものは無いのではないだろうか。今も昔も、農耕民にとって、作物を育む雨と種蒔きを知らせる暦は欠かせないものです。しかし、人は暦は造れても雨は造れません。もしかしたら、易占の最初は、雨が降るか降らないかというもではなかったのか。それはともかく、古代文明はすべて川つまりは水とかかわっています。古代人は、何を差し置いても先ず水を優先させていたということです。
 さて、雨は空つまりは天から降ります。古代人が、雨は天が降らせるものだと考えたとしても不思議はありません。そして、雨を降らせる天の中心が北天にあるのなら、雨の元となる水を北に配したとしても何ら不自然ではありません。八卦が水を北に配したのは陰陽五行の思想からではなく、偏に雨が天から降るという自然の事実からなのです。

八卦方位の決まり事

 古代人は神よりも水を優先させました。その証拠に、八卦の象徴のなかで水とかかわりのあるのが沢、水、雷と三つあります。これをその他と比べてみると、地つまり大地にかかわるのが地と山とで二つ、天つまりは空にかかわりのあるのが天と風との二つ、残り火が一つとなり、水にかかわるものが一番多いのです。無論、この分け方には異論があると思いますが、これは古代ギリシャ四大元素(地水火風)論にも繋がるものであり、古代中国にもそうした考えはあったとするべきでしょう。
 ところで、これまで示してきた八卦方位図、実は、古代人が見ていたものとは南北の向きが逆になっています。左の図が、その本来の向きです。f:id:heiseirokumusai:20170619223746g:plain
 古代社会では、文物のすべてが天子一個人のものとされています。したがって、南面する天子が方位図を見た場合、北が手前となり南がその向こうとなります。そういうわけで、方位図はすべて南が上となるように描かれているのです。
 天子南面が古代の常識なら、家臣北面もまた古代の常識です。そして、このことから主従の関係とは南北の関係であることがわかります。これを五行で表わせば、水剋火となるわけです。八卦方位図には明らかに南北の対峙があります。天と地の対峙、水と火の対峙そして山と風の対峙です。そう、山は風を遮るのです。
f:id:heiseirokumusai:20170619224001g:plain  左は、南北関係a、東西関係b、対角線関係cをそれぞれ別個に示したものです。
 先ず、南北関係に目をやりますと、四角で囲っているそれぞれの八卦の爻が東西軸を境にして反転させた鏡像関係にあることがわかります。これを言葉にしますと対峙あるいは対立となります。
 次に、東西関係。最初に、一番上の風と地。風は乾の卦の最初の爻が陰を得た形です。言葉にしますと、乾(陽)が地(陰)に近づいている、つまりは移動接近を表わすいわゆる協調のことです。次いで、雷と沢。雷は沢の卦の真ん中の爻が陰を得た形です。また、沢は雷の真ん中の爻が陽を得た形です。言葉にしますと、水(陰)を求める沢の形が雷、雷が水を手放した形が沢となります。つまりは雷雨が沢を潤すということで、これも協調となります。次いで一番下の山と天。山は坤の卦の一番上の爻が陽を得た形です。言葉にしますと、坤(陰)が天(陽)に近づいている、つまり接近を示し協調を表わしています。
 最後は、対角線の関係ですが、最初から言葉にしますと、天の膨張が風となり、地の膨張が山となった。つまりは、発展や進化を表わしています。
 思うに、対立、協調、発展はどの社会においても常に見られる現象です。古代人は社会のあり様を、様々の角度からの自然を通して捉えようとしているのです。方位図の南北線東西線や対角線、これらを単純に捉えれば、それらは上下の関係であり、左右の関係であり、変化の関係となります。日は、東より西へ、下から上へ、上から下へと変化を交えて移動します。あるいは、その様に捉えても良いのかもしれません。
 古代は迷信の支配する社会です。しかし、迷信が支配したからといって、その素朴さが変わるわけではありません。古代は、見た通りの社会です。複雑に捉える必要はありません。そこで、最後に雷と風がなぜ東と東南に位置するのかを単純に考えてみますと、これは台風に関係しているとも見えます。と言うのも、中国に近づく台風は東か東南からに限られるからです。