昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§10 石舞台古墳は飛鳥天皇陵か、

石舞台古墳は飛鳥天皇陵か
 天円地方という言葉があります。古代の中国人が、天は円く地は四角いと考えたことから生まれた言葉です。しかし、古代人はどのようにして、天は円く地は四角いとする考えに至ったのでしょう。また、この考えを、古代の日本はどのように受け止めたのか。また、それはいつの時代に伝わってきたのか。そして、その考えは古墳造りに何らかの影響を及ぼしているのかいないのか。これも、古代史の一つの課題です。

天円道地方  条坊制都市藤原京を覆う碁盤の目。地を地の形で覆われた藤原京は陰陽思想に適う都市といえます。しかし、地を四角とする考えは島国国家日本で何の抵抗も無く受け入れられているものなのだろうか。天を円いとする考えは天円道(太陽の動き)からある程度つかめたと思いますが(1図)、地を四角とする考えはどこから来たのでしょうか。
f:id:heiseirokumusai:20151220231631g:plain  「魏志倭人伝」には今の対馬を方四百余里といった正方形で捉える表現があります。これは面積を表す場合に便利な表現で、古代中国の土地制度の井田制(方格線地割)から生まれたものと思われます(a図)。古代人は、この井田制を国中に施し、さらには世界中に施せば、どのように複雑な世界も無数の正方形の集まりで捉えられることに気づきました(b図)。そして、終には全世界を正方形で表せると考えるようにもなったのです。つまり、大きな正方形からは小さな正方形が生まれ。逆に、その小さな正方形を集めれば元の大きな正方形に戻る。したがって、全世界の小さな井田を集めれば、大きな井田つまり九州が出来るとしたのです(c図)。そして、天は円く、地は方に象るとする古代中国の思想に至ったわけです(1図)。
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境の神と賽の神  地を方とする思想は土地を四角に分けるという行為から生まれています。無論、これは私見であり仮説に過ぎません。それに、それほど重要ではありません。ただ、何らかの行為が思想を生み、何らかの思想が行為を生むという点においては重要なことです。
 土地を四角に分けるという行為。日本では、条坊制の遺構や条里制の遺構として各地に残っています。条坊遺構は、藤原京を手始めに各時代ごとの成立年代やその過程が史料との突合せによって詳しく調べ上げられています。しかし、条里遺構は史料との関係から、制度としては奈良時代中期の天平年間を遡らないとされています。つまり、条坊制は国の制度として始まったが、条里制はそうではなかったということになります。
 条里や条坊という方格地割の制度を離れれば、土地を分ける、あるいは割くという行為は弥生時代の環濠より始まります。環濠は不整形のもので、外部からの進入を防ぐという実用一点張りのものがその最初です。しかも、この時代は村落共同の社会で、土地(耕地)を分けてそれぞれに配分するという制度の無かった時代でした。しかし、環濠という人工の境界が生まれた意義は大きかったはずです。
 内と外、幸いと災い、環濠を挟んで相反するものが対峙する世界が、環濠によって生まれたのです。外敵という具象が造らせた環濠が様々の抽象をも造り始めたのです。やがて、これらが陰陽思想と結びつくのは時間の問題でしかありません。
 ところで、抽象化は環濠の内と外だけに起こったのでしょうか。いや、環濠そのものの抽象化も起こったと考えるべきでしょう。古代人は環濠に何を見出したか。それは境の神ではないだろうか。ただし、それは単なる境界の神ではなく、外敵を阻止する神、災いを阻止する神、後世でいうところのサイの神ではなかったか。
 サイの神が水の流れや人の行く手に立ちはだかった時、人や流れはその向きを大きく変えます。人の場合は引き返せますが、流れは引き返すことは出来ません。f:id:heiseirokumusai:20151220232048g:plainしたがって、右か左かに流れを変化させます。この変化のさまは賽の転がり方によく似ています(左図参)。賽は正方形の辺を境にしていずれか一方に転がります。また、賽の目は陰か陽つまりは右か左かを示します。結果として、人や流れは90度方向を変えることになります。この流れや道筋をパターン化して組み合わせれば、ちょうど碁盤の目のようになります。

 さて、条里制とは里を碁盤の目のように区画したものです。また、条坊制とは坊を碁盤の目のように区画したものです。里は一里四方の面積区画を表し、坊も同じような面積区画を表しています。

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いずれにしても基本の形は、井田制や九州制にあります。ただ、里は陰の数6×6の36分割するすのに対して、坊は陽の数9×9の81倍するという違いがあります。ただし、これは文献上の定義で、ここで必要なことはどちらも正方形を表しているということです。つまり、地を方とする抽象的な古代中国の世界観の定義を支えているのがこの具体的かつ現実の方形区画の制度なのです。
 日本にも、この二つの制度は存在しますが、地を方として捉えていたかどうか良くは分かりません。崇神紀には四道将軍を畿外に派遣して国を安定させたとあります。四道は、北陸、東海、西海、丹波の四つで、正確に東西南北を指しているわけではありませんが、国土を畿内と畿外とに分けさらに畿外を四つに分けていることから、これは陰陽五行の五方として国土を捉えていると考えられます。五方の国土はやがて八卦の八方位と組み合わされ、八方で表わされることになります。

道祖神・岐の神・木の俣の神・御井の神  どうやら日本では、地は形の方としてではなく、方向の四方や八方として捉えられていたようです。そして、この四方八方の具象としての道の制度があったのだと思われます。このことは、サイの神が賽の神や塞の神としてではなく道祖神として後世に残されていることによっても、ある程度は推察できるのではないでしょうか。
 道祖神はその名が示すように道の神です。祖形は中国にあるとされています。日本の道の神としては「記神話」に伊邪那岐命の褌から道俣神が生まれたという話があります。人の股を覆う褌から道の俣の神が生まれるという発想は、なかなかおおらかで面白いのですが、伊邪那岐命男神であるのが少々気になるというのが一般的な感想でしょうか。
 道俣神は岐の神(巷の神または辻の神)のことで、道路が分岐や交叉をする場所に現れるとされる神です。ところで、「記神話」にはもう一柱の別の神が分岐や交叉をする場所に現れています。それは、木の俣の神です。古代人がここに神を見出したのは、真っ直ぐに伸びている木が分かれるのは神の力が働いたため、木の俣には神が宿る、そう考えたためという他はないでしょう。
 古代人は、川や道が向きを変えるところに神を見出し、さらには道が分かれるところにも神を見出し、今また、木の俣に神を見出しました。しかし、この木の俣の神にはもう一つの別名があるのです。「記神話」は、この神のまたの名を御井の神としております。
 御井の神とは、その名のとおりの井戸の神です。しかし、木の俣の神と井戸の神とが同じというのはどういうことなのでしょうか。その答えは井の字に組んだ井桁にあります。木で出来た井桁は、人口の木の俣ともいえる形をしているからです。そして、この井桁を複数個地面に並べると、井田や条坊そっくりにもなるのです。
f:id:heiseirokumusai:20151220233903g:plain  さて、これまでは単に境とか分けるとかで話を進めてまいりましたが、これからは陰陽思想が生み出す原則を交えて話を進めていくことにいたします。
 陰陽思想における境とは陰と陽との境のことです。この境は鬼神や霊魂さらには神々が出入りをする場所であります。また、分けるとは陰と陽とに分けることを意味し、方格線で分けられた区画はすべて陰と陽とが対になるように分けられていることになります。この原則は、条里制・井田制・九州制・条坊制に生かされています。なお、今日文献で見る九州は、実際の州を当てはめたもので、本来の考えに基づくものではありません。むしろ日本の畿内・畿外制の方がよりその基本に近いものといえます。つまり、畿内即ち中央、畿外即ち地方、地方即ち八方、ということです。
 条里制の基本は36区画よりなります。36は偶数ですから条里制は正確に陰陽の対で出来ています。井田制・九州制と条坊制はそれぞれ9区画と81区画ですので対としては一区画余ることになります。しかし、この一区画は公田と中央と宮域としてそれぞれにあてがわれますので、これもやはり原則通りといえます。そうしますと、陰陽を分ける方格線つまり道は、神々の出入りするところであり、陰陽の境の神の居る所ということになります。
 井桁は、この陰陽の境の神の居る方格線道路に相当します。しかも、四つの境と四つの交叉を持つ構造をしているのです。つまり、八方に境の神を宿す構築物といえます。八方はすべての方向をも意味していますから、井桁はすべての方向からの災いを遮る理想的な形ともいえます。正倉院の校倉造はこの井桁を積み上げたものです。また、藤原京もこの井桁を並べた都なのです。
 井桁はその名のとおり、基本は井戸に用いるものです。しかし、井戸水の神ではありません。井戸の水を守る神です。いや、正確には井(桁)そのものの神というべきかもしれません。このことは、桂川に築かれた灌漑用の葛野大堰、この大堰を大井と表記し、井堰という国字にもなっていることからもうかがい知れると思います。井は八方すき無く、内を守り外をはらうという字形です。水の流れを変える堰や水の流入を防ぐ堤に用いるに最適の文字なのです。そして、おそらくは墓にもです。

最初で最後の方墳石舞台?  古代の日本は、地を方として捉えたのではなく、方を、賽や塞やそして井つまりサイの神に守られている方形の区域として捉えていたのです。さて、そうなりますと、上円下方墳あるいは上八角下方墳の下方は地の方ではなくサイの神に守られた方形墳ということになります。
 墳墓におけるこうした捉え方は、前方後円墳が築かれていた時代には当然なかったと思われます。仮に、見瀬丸山古墳を大王墓としての最後の前方後円墳とした場合、最初の大王墓としての方墳は石舞台古墳ということになります。石舞台古墳は、飛鳥京区域の最奥の奥津城と呼ぶにふさわしい場所にあります。単純には飛鳥天皇の墓と呼べるはずです。しかし、封土の剥ぎ取られた石舞台を天皇陵であったと呼ぶ者はいません。ただ、本居宣長の『菅笠日記』のなかに、地元民が石舞台を推古天皇陵と呼んでいたとする記述があるそうです。つまり、『記』では推古は改葬されていますから、この古墳も改葬の可能性があるということになります。
 では、石舞台古墳を改葬してみましょう。先ず、最初にしなければならないことは封土を剥いでサイの神に守られた方形墳をなくすことです。次に、石棺を取り出して改葬地に運び、安置することです。しかし、その前に改葬地を選ばなくてはなりません。どのように選ぶか。無論、霊魂の移動の可能な北東方向に設定します。そこで、石舞台から北東方向に向かいますと、舒明天皇陵につきあたることになります。
 舒明天皇陵は、上八角下方墳で、牽牛子塚古墳よりも新しい墳形プランで築かれています。しかし、中に安置されているのは横穴式石室用の石棺です。しかも、丸山古墳と同じ T字型に二つの石棺を安置しているということです。つまり、舒明陵は丸山古墳に近しい横穴式石室墓からの改葬であると言えるのです。さて、丸山古墳に最も近しい墳墓、それは今のところ石舞台だけのようです。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 03≫