古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

安万呂の道標、その9。

多氏と秦氏、その3
 多氏は神武直系の皇別氏族です。神武記の系譜は、多氏一色で塗りつぶされているといっても過言ではありません。いってみれば、日本全国津々浦々に多氏がいるということです。秦氏もまた、多氏に劣らず日本全国に居を構えています。このことは、多氏が秦氏を率いてか、あるいは多氏が秦氏に誘導されてか、いずれにしてもこの両氏は何らかの繋がりを持って全国に散らばっていったと思われます。

多神社は神八井耳命そのもの  今回は二番目の課題、牽牛子塚古墳と多氏・秦氏とのかかわりについての私見を述べてみましょう。その前に、多氏の系譜秦氏の寝屋川近辺の居住地について、少し述べておきましょう。河内国茨田郡には、幡多郷、秦村、太秦村があり、摂津国豊島郡には、秦下郷、秦上郷があります。どちらの郡にも秦氏が多数居住していたことが、これだけのことからでも確認できると思います。ちなみに、『記』では、これら二つの郡とかかわりのある茨田連と豊島連は共に日子八井命の子孫となっています。下に示したのは、『記』による系譜です。なお、手島連は豊島連、意富臣は多臣のことです。

神倭伊波礼毘古命神武天皇







日子八井命(茨田連の祖・手島連の祖)


神八井耳命(意富臣・小子部連・坂合部連・雀部臣ら合わせて20氏の祖)

神渟名川耳命綏靖天皇
・伊須気余理比売

 さて、この系譜から何が言えるでしょう。そう、言えることは、一つしかありません。それは、皇祖神武の直系はすべて多臣にかかわる氏族だということです。大臣クラスでも豪族クラスでもない多氏になぜこのようなことが豪語できるのか、それは、とりもなおさず神武陵の真北に多神社があるということに他ならないからです。そもそも、多臣の祖、神八井耳命の引き受けた役目は、「記紀」にもあるように、神祇を掌る忌人(いはいびと)となることだったのです。
 神祇とは、天神地祇のことで、この場合は天ツ神と国ツ神とになります。多神社は、南に天ツ神の神武を、東に国ツ神の三輪山を奉ることの出来る位置にあります。『紀』によれば、神八井耳命は畝傍山の北に葬られたとあります。多神社の地は正にそれに適合します。
 神八井耳命は、多神社に祭られていますが、この神は自らが祭られると同時に自らも天神地祇を奉る神でもあるのです。このことは、伊勢の祭神天照にも当てはまることで何ら不思議はありません。神や仏を拝んでいた老人が、やがては仏になって拝まれる。日常茶飯事、古代より続く見慣れた光景です。

牽牛子塚古墳の前身、益田岩舟  さて、1図のもう一つの課題、牽牛子塚古墳と二氏とのかかわりですが、この答えは、既に安万呂の道標に見えています。すなわち、益田岩舟がその答えです。なお、今回、神武陵の位置を少し変更しました。詳しくは、章を改めて説明していくことになります。
 益田岩船は飛鳥の石造物の一つで、非常に巨大なものです。今日、この岩船は、他所から運び込まれたものではなく、最初からこの場所にあったものとされています。このことは、本来多神社は、この岩船と三輪山とを同時に奉るために建てられた神社であったことを物語っています。と申しますのも、益田岩船と三輪山と多神社とを直線で結ぶと、きれいな直角三角形が出来るからです。≪下図参≫
f:id:heiseirokumusai:20151211200250g:plain 三輪山、香具山、丸山古墳が鬼門軸上に載ることは既に話しましたが、今回新たに岩船が加わりました。丸山古墳以外は自然物ですから、非常に起こり難い偶然というほかはありません。しかし、こうした偶然を見つけ出し、これを利用するということは、とりもなおさず、古代人が何よりも陰陽五行思想の観点から自然を見つめていたという証でもあります。
 しかし、ある程度の誤差はともかく、自然を完璧なまでに利用することは現代に於いても不可能です。それは益田の岩船も同じです。岩船については次のような説明がウィキペディアにあるのでこれを載せます。

横口式石槨の古墳・横口式石槨の建造途中で石にひびが入っていることが分り放棄されという説。その後別の石を使って完成したものが、岩船から南西(東が正しい)へ500メートルほど行ったところにある牽牛子塚古墳であるという。東側の穴と違って、西側の穴には水がたまらない事からも亀裂が入っている事がわかる。

 益田の岩船が横口式石槨の陵墓として造られようとしていたことは、丸山古墳との関係から確かと思われます。また、牽牛子塚古墳が岩船の後継であることも、本墳が岩船のほぼ南東に位置することからして確かと思われます。なぜなら、南東は天門・風門ライン、法隆寺・多神社・吉野宮そして伊勢内宮のラインだからです。そしてそうならば、益田の岩船は法隆寺あるいは多神社となり、牽牛子塚古墳は吉野宮あるいは伊勢内宮となります。

牽牛子塚古墳は皇祖母陵  古代人は、益田の岩船を陵墓とすることには失敗しましたが、牽牛子塚古墳をその後継とすることで、真北の笠縫邑より東南に八卦地母神葛城山を拝することをも付け加えることが可能となり、災いを転じて福と成したわけです。これこそが、陰陽五行の真骨頂なのです。古代人が、八卦や陰陽五行を自在に操って、大和の地にまほろぼを築こうとしていたことだけは、上の図からも読み取れると思います。
 ところで、益田岩船が陵墓として完成していたとしたら如何でしょう。多神社ー父(神武)ー母(岩船)という並びになるのではないでしょうか。神武は初代の天皇です。いってみれば皇祖父です。そうしますと、母は当然皇祖母ということになります。牽牛子塚古墳を益田岩船の後継とすれば、牽牛子塚古墳は皇祖母の陵墓となります。
 皇祖と呼ばれる神あるいは人は『紀』の中には何名かいますが、皇祖母尊の号を奉られているのは皇極斉明だけです。そうすると、俄然生きてくるのが牽牛子塚古墳を斉明陵とする説です。この説は古くよりあるようですが、近年この古墳の近くから大田皇女のものとされる墳墓が発見され、この説はさらに強固なものとなってきています。

大和を覆う幾何学文様  詳細は省きますが、牽牛子塚古墳は、見瀬丸山古墳同様それぞれの時代の頂点を極めているといっても過言ではないほどの規模と豪華さを備えた古墳です。しかし、見瀬丸山古墳がそうであるように、本墳も陵墓の指定はありません。また、「記紀」にも何も記されてはおりません。しかし、人は語らずとも、この二つの墳墓は安万呂の道標の中で、大和を見守るように配置されているのです。
f:id:heiseirokumusai:20151211200509g:plain  日本で最初の条坊制都市、藤原京。直交する直線が描く賽の目で覆われた世界です。この賽の目で覆われた世界を、二つの直角三角形a・cと一つの平行四辺形bとが互いを補い合うように、さらに覆いかぶさっています。今話題としている牽牛子塚古墳は、その平行四辺形bの一つの頂点にあります。
 牽牛子塚古墳、畝傍山、三輪山、そして舒明陵(段ノ塚古墳)、この四つを直線で結ぶと、きれいな平行四辺形が出来ます。これは偶然ではあり得ません。それに、天武系の祖の舒明陵がこの位置にあるのは不自然です。また、牽牛子塚古墳は益田岩船との関係から位置を変えることは出来ません。したがって、この平行四辺形を成立させるためには、舒明陵をこの位置へ持ってくるのが最善の方法です。それに『紀』によれば、皇極二年九月に舒明天皇は改葬されたとあります。
 ところで、舒明天皇は最初どこに葬られていたのだろうか。『紀』には滑谷岡(なめはさまのおか)とあります。比定地は明日香村の外れの山中、これもまた天武系の祖としては不自然な場所です。思いますに、元舒明陵は野口王墓(天武陵)のある鬼の俎板や鬼の雪隠の辺りにあったとするのが自然と思われます。あるいは、そのいずれかが本来の舒明陵であった可能性もあります。現舒明陵には二つの石棺があると聞きます。双墓(ならびのはか)と言われている鬼の俎板と雪隠、二つとも舒明陵に移したと思えなくもありません。ただ、石棺である点に疑問は残ります。
 既に述べたことですが、牽牛子塚古墳は(単なる)八角墳です。しかし、舒明陵は上八角下方墳です。墳形としては舒明陵の方が明らかに新しい形です。つまり、舒明陵はいつの時代かに、おそらくは文武天皇の時代に山科山陵と一緒に造られたものと思われます。なぜなら、山科山陵も上八角下方墳だからです。また、『続日本紀』文武三年十月に載る越智山陵と山科山陵の造営の記事、この中の越智山陵を段ノ塚古墳(現舒明陵)とすれば、つじつまがすべて合います。それに何より、『紀』のいう皇極二年の改葬記事に合わせたのでは、舒明陵は上八角下方墳どころか単なる八角墳の可能性もありません。
 それはさておき、この平行四辺形の意味するものは何なのか。そこで、当時の人に畝傍山と問えば、どのような連想をするかを想像してみましょう。おそらくそれは、神武と畝傍の橿原宮ではないでしょうか。そして、さらに続けて三輪山と問えばどうでしょう。当然、神武の后、三輪山の神の娘ヒメタタライスズヒメが答えとして返ってくるはずです。つまり、平行四辺形の四つの頂点のうちの二つ、畝傍山と三輪山とで夫婦を表しているということなのです。
 どうやら、牽牛子塚古墳は舒明の后、斉明の陵墓であると言う他はないようです。すなわち、この四辺形に囲まれた藤原の宮は、神武の子孫、舒明の子孫にふさわしい都なのです。
 さて、牽牛子塚古墳が皇祖母の墓となれば、当然多氏はその子孫です。また、秦河勝が茨田連の血族だとすれば、これもその子孫となります。仮に血族でなかったとしても。秦大蔵造万理は皇孫建王を奉る子孫と言えなくもありません。それになりより、秦氏は皇祖母斉明とのつながりだけでなく、もう一方の皇祖母ヒメタタライスズヒメとのつながりもあった可能性があるのです。
f:id:heiseirokumusai:20151211200815g:plain  神代紀および神武紀によれば、ヒメタタライスズヒメ三輪山の神の娘であると同時に三島のミゾクイの神の孫でもあります。三島のミゾクイの神の三島とは、秦氏がその名前を地名に残すほど居住していた豊島郡と茨田郡との間にある摂津国三島郡のことです。また、ミゾクイの神のミゾクイは溝杭とも表記でき、灌漑技術とかかわりのある神の名とも受け取れます。灌漑技術の神といえば、秦河勝もまたそう呼べなくもありません。
 秦氏が、天皇家外戚あるいはその祖と何らかのかかわりがあることは確かと思われます。なお、この地には讚良郡があり、野讚良の諱を持つ持統天皇とのかかわりも考えなければなりません。彼女の諡、高天原廣野姫には皇祖母の意味もあるのです。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 09≫