昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§7 秦の河勝と茨田の堤。

多氏と秦氏、その1
 前節で、田原本町秦庄と田原本町多とを組み合わせることで太秦が生まれました。これを不思議と感ずるよりも、馬鹿げていると思う方のほうが多いと思われます。そこで、もう少し付け加えておきましょう。

太秦の意味するもの  多氏と秦氏とのかかわりを「記紀」の中に見つけることは出来ません。しかし、多と秦庄とをさらに重ね合わせてみると、見えなかった関係が「記紀」の中に見えてまいります。
f:id:heiseirokumusai:20151127014017g:plain  1図は、多神社と秦楽寺とを重ね合わせた状態を表現したものです。この図によれば、多氏と秦氏は神武の子孫ということになりますし、同時に牽牛子塚古墳の子孫ともなります。また、多神社は伊勢の斎宮ということにもなります。都合三つほどの大きな課題がこの図より生まれたことになります。そこで、先ず今回は、神武の子孫という課題から始めることといたしましょう。
 最初に、多氏の場合。「記紀」には多氏の祖は、神武の子の神八井耳命とあります。多氏は間違いなく神武の子孫です。次いで、秦氏秦氏については、応神の時代に渡来してきたという以外は分かりません。したがって、多氏と秦氏との関係を直接「記紀」から引き出すことは不可能です。しかし、田原本町でもそうであったように、太秦とのかかわりからそうした関係を「記紀」から導き出せるのです。

 寝屋川市太秦の地名があることは既に述べていると思いますが、この市には他にも市西部に古代史上の難工事と目される茨田堤が築かれたとされる古川が流れており、また、これを記念するための茨田堤碑が古川の本流淀川左岸に建立されてもいます。
 さて、この茨田堤ですが、仁徳記では茨田堤は秦人に造らせたとあります。他方、仁徳紀には、茨田連がこの築造に携わっていたことが記されています。その茨田連ですが、これが神武の子孫なのです。神武記によると、茨田連の祖は日子八井命だとあります。日子八井命は、多氏の祖である神八井耳命とは、同じ父母を持つ兄弟同士で、紛れもなく神武の子孫ということになります。

父・神倭伊波礼毘古命神武天皇







日子八井命(茨田連の祖)


神八井耳命(多氏の祖)

神渟名川耳命綏靖天皇
母・伊須気余理比売

 そこで、「記紀」それぞれの記事の中で茨田堤にかかわるとする秦氏と茨田連との間に何らかの血縁関係があったとしたら、当然、秦氏もまた神武の子孫ということになります。また、そうではなかったとしても、茨田堤を通して茨田連と秦氏がつながりを持つということだけは「記紀」の突合せから導くことが出来ます。どうやら、多氏が寝屋川の太秦秦氏とつながったようでもあります。しかし、これだけではまだ十分とはいえないかもしれません。しかし、秦河勝が茨田連衫子(ころものこ)だとしたら如何でしょう。  

 しかし、この説明の前処理として、太秦の意味を少し考えて見ましょう。全くの私見というほかは無いのですが、茨田堤の築造技術とのかかわりでの呼び名ではないかと考えております。と申しますのも、仁徳紀では茨田堤の築造に際して人柱を立てたとありますが、茨田連衫子だけが別の方法を用いて完成させたとも読み取れる節があるからです。どのような方法か、それは分かりません。ただ、言えるのは、垂仁紀に、野見宿禰が殉死に代えて埴輪を用いたとあります、それと同じことが、ここでも起こったということではないだろうかと。
 人柱や殉死の風習が古代の日本にあったとは思われません。それに、そういった遺物はまだ発見されていないと聞きます。ただ、これと良く似た風習が古代の日本にあったことも確かです。それは持衰(じさい)です。西日本の各所から発見された、弥生時代の戦死者とされている受傷人骨。私は、それらの殆どが持衰ではないかと思っています。
 それはさておき、中国大陸あるいは朝鮮半島より伝わった新たで高度な土木技術。この技術を駆使し、従来の旧習を一掃したのが、野見宿禰や茨田連衫子(秦河勝)らではなかったのか。そして、こうした技術と一緒に、ある意味での宣伝効果を生むための人柱や殉死の話も伝わった、そう考えるべきでしょう。

 さて、秦河勝と茨田連衫子との関係ですが、この二つの名前、実は、全く同じ意味合いを持っているのです。先ず、姓としての秦ですが、秦は「はた」とも「はだ」とも読みます。通説では、「はた」は機織の機に由来するもの、「はだ」はその製品の褒め言葉、肌に由来するもの、とされています。いずれにしても、秦の訓みは、布や衣服、特に柔らかい肌着を指していると思われます。一方、衫子の衫(ころも)は、衣のことです。衫は薄い布で出来た肌着を意味してもいます。つまり、どちらも同じものを指しているのです。
 次に、河勝ですが、これはそのものずばり河に勝つということです。当時のことですと、正確には、河伯(川の神)に勝つということです。一方、茨田連衫子は、人柱という非情な河伯の要求を退け、これに打ち勝っています。やはり、これも同じ意味合いを持ちます。
 以上のことから、私は、秦河勝と茨田連衫子とが同じ人物であると結論づけました。無論、秦河勝と茨田連衫子との間には、前者が用明天皇の時代の人物であるのに対し、後者は仁徳天皇の時代の人物であるという大きな時間の差があることは確です。しかし、上も下も巨大古墳造りにいそしんでいた仁徳の時代に、茨田堤という公共事業が行えたとは、とても思えません。それになにより、「記紀」が、崇神や垂仁の時代に出来たとする狭山池の築造年代が、今日では7世紀の前半期に設定されるようになってもいるのです。したがって、茨田堤を仁徳11年の4世紀前半に位置づける必要はなくなってきているといえます。
 しかし、それならば、茨田堤が築かれたのは、実際いつ頃の時代なのだろうか。私は、茨田堤が築かれたのは大陵命(おおみささぎのみこと)の時代だと考えています。と申しますのも、鷦鷯(さざき)はささぎとも訓めるからです。

 ここで、少し連想をしてみましょう。「記紀」は、茨田堤が築かれたのは大さざきのみこと(仁徳天皇)の時代だとしています。さざきは、『紀』では鷦鷯、『記』では雀の字をあてています。鷦鷯はミソサザイ、雀はスズメのことです。『紀』と『記』では全く違った鳥を指しているのです。それぞれ違う鳥を指していながら、それでいて、共に仁徳を指しているわけですから、大さざきは鳥の名前ではないということになります。それに、仮に鳥のことだとしても、どちらも小さな鳥でしかありません。これでは、大さざきは、大きい小さな鳥というわけの分からない意味を持つことになります。
 ところで、応神天皇仁徳天皇は同一人物である、という説のあることをご存知でしょうか。この説は、『記』に応神を大雀命と呼んでいることから生まれたもので、それなりの理由のあるものだと思いますす。しかし、ここでは同一人物として捉えるのではなく、ある仮説の下に連想を進めていきます。その仮説とは、「記紀」編纂者が大さざきを、応神・仁徳共通の呼び名として用いた、と。
 応神と仁徳に共通のものとは何か。「記紀」を読んでも、そんなものはありません。それに「記紀」の編纂者が「記紀」を編纂する以前に「記紀」を読むことは出来ません。では、編纂者は何によって共通のものを見出したのか。実は、そのものを見つけ出すことは、現代の我々にとっても非常に簡単なのです。無論、彼らにとってもそうです。なぜなら、それは山のように大きな巨大古墳だからです。つまり、応神・仁徳に共通する呼び名とは大陵命(おおみささぎのみこと)なのです。
 さらに連想を進めましょう。下に示したのは、すべて全長300メートル以上の墳丘長を持つ巨大古墳です。そして、すべてが大陵命(おおみささぎのみこと)の墓と呼び得るものです。

大仙古墳(河内・中期)
上石津ミサンザイ古墳(河内・中期)
河内大塚山古墳(河内・後期)
渋谷向山古墳(大和・前期)
 ・誉田御廟山古墳(河内・中期)
 ・造山古墳(備前・中期)
 ・見瀬丸山古墳(大和・後期)

 全国で墳丘長200メートル以上の大規模古墳は、全部で38基ほどがあるそうです。しかし、その中で後期古墳とされるものは、河内大塚山古墳と見瀬丸山古墳のわずか二つにすぎません。しかも、この二つの古墳は、いわゆる孤立墓で、他の大王墓とは違って、周辺に同時代の大型古墳を伴ってはいません。このことから、この二つの古墳の時代、巨大古墳が築けたのは大王だけであったとする仮説が成り立ちます。もし、この仮説がまちがいでは無いとするなら、この時代の大王にあらゆる権力が集中したことを意味し、その結果、大規模な公共事業とでも言い得る茨田堤の築造に着手が可能になったと言えることになります。
 さて、『記紀』が編纂された時代は大和の時代です。当時の大和において、大陵命(おおみささぎのみこと)と呼ばれ得る古墳は、平城京中軸線上にある見瀬丸山古墳をおいて他にはありません。その丸山古墳が築かれたのは6世紀末と推定されています。仮に、茨田堤がこの古墳の主の時代に築かれたのだとしたら、秦河勝が仕えた用明天皇の時代と近くなります。そうなれば、当然、茨田連衫子が秦河勝であるという可能性は俄然大きくなることになります。

 最後に、茨田堤について、少し私見を述べさせていただいて、この章の終わりといたしましょう。茨田堤は、古代史上有名な公共土木事業なのですが、今日でもそうであるように実態は庶民にはあまり知らされていないようです。下の図は非常に不完全なものですが、あえて、参考のため掲げました。これも、茨田堤の資料がほとんど無かったからです。
f:id:heiseirokumusai:20151127015519g:plain  仁徳紀によれば、茨田堤は、淀川の水を直接河内湖に流れ込ませないためのものと読めます。通説では、この堤は、寝屋川市の太間あたりから始まり大阪市旭区千林あたりまで続くらしいのですが、その堤の築かれた古川を、現代地図の上で、千林あたりまで完全にたどることは出来ませんでした。今日、古川はかっての河内湖あたりまで延びており、どこから西流させたのか、残念ながら適切な資料を見つけることが出来ず、これも分かりませんでした。この図では、門真市宮野町の堤根神社あたりから西に向けて描いてあります。無論、いわゆる適当にです。
 しかし、全くのいい加減というわけではありません。それなりの理由はあります。
f:id:heiseirokumusai:20151127015728g:plain  左の拡大図が、その理由の答えです。古川は、この箇所で大きく西に流れを変えています。そう、ここはまさしく太秦です。この地を守る堤根神社の祭神は、茨田連の祖、日子八井(耳)命です。ここでは、茨田連と太秦がつながっています。茨田連と秦氏、限りなく近づいてきたようです。
 なお、古川沿いに築かれている堤は「記紀」にある茨田堤ではないという説があります。こうした説があるのも、茨田堤については不明な点が多過ぎるためと思いますが、古代史というものは、分かっているようでいて、分かっていないことの方が多いということを、この茨田堤でつくづく感じさせられました。しかし、そうであるからこそ、素人の連想が活きて来る機会もあるというものかもしれません。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 07≫