昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§3 見瀬丸山古墳は聖徳太子の墓か。

陰陽の狭間
 安万呂の道標には二つの陰陽の狭間が出てまいります。一つは、見瀬丸山古墳と三輪山とを結ぶライン。もう一つは、法隆寺聖武天皇陵とを結ぶラインです。このラインは北東あるいは南西に向かっており、それぞれの向きで鬼門もしくは裏鬼門と言われています。ただし、鬼門とはいっても奈良時代のことであり、法隆寺聖武の場合からも分かるように今日的な鬼門の意味があったわけではありません。
f:id:heiseirokumusai:20151105001843g:plain  上の図は、陰陽五行と方位の関係を四つの段階で表したものです。最後の段階の、五行を八方位に当てはめた図を見れば分かると思いますが、北東、北西、南西、南東の四ヶ所に土行があてがわれています。土行は五方では中央に当たりますから、この場合は鬼門とか裏鬼門とかの意味は無く中央あるいは中間の意味しか持ちません。つまり、法隆寺聖武陵、丸山古墳、三輪山はいずれも世界の中央かつ中間なのです。
 つまり、陰陽の狭間とは陰陽の中間のことで、陰でもなく陽でもなく且つ陰でもあり陽でもあり、しかも陰陽が移り変わるその境を指しているのです。言葉だけですと矛盾染みた表現になってしまいましたが、図のaとbとを重ね合わせれば、陰陽が互いに打ち消し合って表面には現れなくなる境のあることが分かると思います。この場合、ab共に円の直径軸に向かうにつれて陰陽の気が弱くなり、直径軸ではそれぞれの気がなくなると同時に反転するというふうに考えると分かりやすいと思います。
 さて、陰陽の狭間というのは陰陽の影響を受けない隙間ということで、鬼が自由に出入りできる出入口つまりは鬼門とも呼ばれるのですが、『記紀』には今日的な鬼は登場していません。斉明紀に鬼が出てきますが、人々はこれを恐れているようには描かれていません。つまり、当時の鬼は、いわゆる悪霊ではなく、先祖の死霊つまりは鬼神のことだったと思われます。当時、人に害をなす悪霊は、八岐大蛇の話からも分かるように、鬼の形ではなく龍の形で落雷や風水害をもたらすと思われていたとみるべきでしょう。
 ところで、陰陽思想はあらゆる物を陰と陽に分けたのですが、霊魂をどのように分けたのか、そうした書物は残念ながら市立図書館にはありませんでした。死霊を陰、生き霊を陽とも考えられなくもないのですが、それはともかく、陰陽の影響を受けない陰陽の狭間ではどちらでもいいことなのでしょう。それが、本来の鬼門という考えなのかもしれません。

聖武即ち聖徳太子、太子即ち丸山古墳の主、古墳の主即ち三輪の大物主。
 陰陽の狭間、即ち鬼門は霊魂が自由に出入りできるところてす。したがって、鬼門でつながっている法隆寺聖武陵はそれぞれの主の霊が互いに行き来の出来る状態になっていることになります。そうなりますと、聖武の霊が法隆寺にあったり、聖徳太子の霊が聖武陵にあったりするわけです。つまりは、聖武聖徳太子であり、聖徳太子聖武であるということになるわけです。
 時代は少し下がりますが、聖武天皇聖徳太子の生まれ変わりとする話が『日本霊異記』にあります。ただ、これは仏教説話で、後世に伝わった因果応報や輪廻転生の仏教思想から生まれたものです。しかし、聖武を聖徳に結びつけるという発想はそうした思想が伝わる以前からあったようです。例えば聖武という漢風諡号、これは明らかに聖徳太子の聖を意識しての付け方と見えます。
 ところで、〝生まれ変わり〟と良く似た思想が道教にあります。f:id:heiseirokumusai:20151105002103g:plainそれは、人は死後、天界につながっている朱宮で修行を積み、不老不死の神仙となって天界で遊ぶという神仙思想です。朱宮というのは南にあって、道教の説く蘇りの場所と普通には解釈されているものです。天界とは、神仙境とも桃源郷ともうけ取れるもので、仏教でいう浄土にあたります。
 浄土と天界、実はこのどちらにも逝ったと思われるのが聖徳太子なのです。推古紀での聖徳太子と片岡の飢え人とのやり取りは神仙思想によるものですし、高麗の僧慧慈の話は浄土思想によるものです。つまり、聖徳太子は儒仏道を修めていたということです。
 さて、浄土の思想は、金銅仏の光背銘などから飛鳥時代には既に広く一般に浸透していたことが分かっています。一方、朱宮の思想はどうでしょうか。無視できない事実があります。藤原京平城京、それぞれの都の中心を真南に走る朱雀大路の延長線上に、野口王墓と見瀬丸山古墳がf:id:heiseirokumusai:20151105002317g:plainそれぞれ存在していることです。これを、南にあるという朱宮とすることは出来ないだろうか。
 野口王墓は、誰もが認める天武天皇の古墳です。この天皇は儒仏道を修めた天皇として有名ですから、野口王墓に関しては朱宮とみなしてもいいのかもしれません。それに、藤原京の基となる条坊の地割り整備は天武時代に始まっているとされていますから、おそらくは確でしょう。
 一方、丸山古墳はどうか。この古墳、そしてこの古墳より始まる下ツ道、そしてこの下ツ道のもう一方の始点平城宮、これら三者はすべてその造営時期が異なっています。しかし、平城宮の主、天武系の聖武から見た場合、本古墳を朱宮とみなしていることは天武の例からして確かと思われます。この場合、本古墳の主は聖武の前身、聖徳太子をおいて他にはありません。
 聖徳太子は、『隋書』によれば、冠位十二階を定め、国・イナキ制を定め、また、法隆寺釈迦三尊像光背銘によれば、法興という年号を持ち、法皇という尊号を持つ、いってみれば日本で最初の本格的な国造りをした人物です。つまり太子は、国土創生の神である大国主であり、その幸魂奇魂である三輪の大物主でもあるのです。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 03≫