昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

働かせ方改革法案。

 働き方法案なるものが国会で討議されたとか。しかし、この法案、庶民からの議案ではなくお上や企業からの議案らしい。
 そうすると、働き方法案ではなく働かせ方法案が正しい呼び方ではないかと。

✎.........................................................................................................................................

 島流しの身の上、働かせ方法案が正しいなどと申せる立場にはありませんが、私も役君と呼ばれているように嘗ては庶民を働かせていた者にございます。そもそもこれは庶民のための法案なのか、それとも企業のための法案なのか、どちらとも分からない焦点をはぐらかしたような法案、見過ごすというわけには参らないのでございます。また、口幅ったいことを言うようですが、働く方を改革するのではなく働かせる方を改革するというのが審議の正しいやり方ではないかと。
 えっ、どちらをも一緒に改革するって! それは可笑しい。物事には順序というものがございます。上先ず正せば、下おのずから正されると。やはり、先ず働かせる方から改革するべきかと。

 ところで、私の後輩とは言っても一度も合ったことはないのでございますが、佐伯今毛人(さえきのいまえみし)という男がいます。佐伯今毛人は、人を働かせることにかけては右に出る者がいないと言われたほどの男で、造東大寺長官を三度も勤め上げ、聖武天皇からは「東大居士」の愛称をもらったほどの辣腕家でございます。
 ただ、その佐伯今毛人も今日での評価は必ずしも芳しいなどと言えるものではないようでございます。と申しますのも彼の人の働かせ方なのですが、伝えられるところではすこぶる「方便」をもって役夫を働かしたとあるのです。つまり、今日的な解釈が「方便」になされているからでしょう。

 思いますに、「方便」という言葉は、今日ではあまり良いようには解釈されていないようでございます。しかし、本来これは仏教用語でございまして、佐伯今毛人の生きた奈良時代には「方便」を語ることが僧侶の重要な務めの一つでもあったほどなのでもございます。また、逆に申せば僧侶のようなものでなければ「方便」は語れなかったということでございまして、仮にそれ以外の者が語ったとしても誰も随うことはなかったということでございます。
 さて、そうなりますと、また佐伯今毛人の「方便」に役夫が随ったということになりますと、取りも直さず佐伯今毛人は「方便」を語るに適う人物という事になるほかはないようでございます。彼の愛称「東大居士」の「居士」は正にそうしたことを物語っているからこそ付けられたものなのです。

 佐伯今毛人が具体的にどのようにして人を働かせたかは分かりませんが、伝えられているところによると彼は聖武天皇の年毎の命、おそらく東大寺造営の年間予定に関しての要請と思われますが、これを毫釐もちがえなかったということです。
 思うに、今毛人は律儀な人柄であったのかも知れません。加えて居士つまり私と同じ優婆塞の身であったと思われますから、あるいは東大寺造営を仏道修行と見做していたのかも知れません。おそらく彼は、義理堅く、また約束を違えたりはせず、そして常に率先して働いていたということだったのかも知れません。

 天平17年(745)、東大寺盧舎那仏像鋳造に先立って聖武天皇はその基壇の土を率先して運んだといいます。この率先という行為、もしかしたらこれは天皇が佐伯今毛人を真似た結果なのかも知れませんし、あるいは逆に今毛人が天皇を真似た結果なのかも知れません。いずれにしても、これによって基壇はつき固められ鋳造は予定通り完成を迎えたのです。
 思いますに、佐伯今毛人が人をよく働かせることができたのは、彼が謹厳実直な優婆塞であったという事と、そして何より自らが率先して働いたという事によるものでしょう。今毛人が生きたのはいわゆる古代です。古代ではそういったものが先ず大事だったのです。

 しかし、時代が降れば、人はそれだけではつき従ってくることはありません。今や、金が人や社会を動かす時代。加えて、休まず、怠けず、働かずといった三ずの神器ならぬ三ずの仁義を信奉する時代です。
 さて、そうした時代を動かした二人の人間がいます。織田信長豊臣秀吉です。この二人は佐伯今毛人の長所に加え、必勝必罰をもって天下を統一に導き、そして統一を完成させてもいます。
 しかし、彼らが本当にその時代を全うしたか如何か、それは疑問です。信長は明智光秀の謀反に遭い、秀吉は子飼いの家臣同士の反目に拠り豊臣家滅亡の憂き目に遭っています。画竜点睛を欠くと申しましょうか、この二人には欠けたものがあったのです。それは公平さです。特定の者をえこ贔屓しないという公平さです。
 信長の光秀に対する仕打ち、これもある意味でのえこ贔屓です。そして秀吉の石田三成に対してのえこ贔屓。えこ贔屓ぐらい人に嫌われるものはありません。確か、韓国では大統領のえこ贔屓が原因で国を揺るがす大事へと発展していったとか。

 ところで、聞くところに拠りますと、何でもどこかの国の大統領、どこかの国の総理大臣が特定の国や特定の団体にえこ贔屓をしているとか。そうでなくても不平等の世の中、せめてえこ贔屓だけは止めてほしいものでございます。

・∙∙∙∙∙∙ ✪ ∙∙∙∙∙∙・

さてさて、えこ贔屓の恩恵に預かれなかった皆様。
せめてecoの運動に参加して、ecoの音頭でも謳いましょう。

色即是空 空即是色
 因果は巡る風車 チンチンポイポイ ポイ捨て
  要らないのいらないの 飛んでけー

結構でございました。

§45.高市大寺は川原寺か?

 さて、元明陵から山田寺まで道標に従って輪廻の路を下ってまいりましが、実はこの路の途中にもう一つ別の道標があるのです。それは吉備池廃寺と呼ばれている古代の寺院跡です。そして、この寺院跡が大官大寺の前身である百済大寺跡ではないかとも言われているものなのです。
 百済大寺については色々な流布伝説があるようですが、私が一番興味を引いたのはこの寺が焼失したということです。焼失した寺としては法隆寺が有名ですが、藤原京大官大寺もまた有名です。特にこの大官大寺の塔の焼亡は平城京の伽藍配置に影響を及ぼしているようにも見えます。例えば、藤原京までの塔が回廊の中に配置されていたのに対し、平城京では塔が回廊の外に配置され、伽藍主要部より切り離されてしまっているのです。
 思うに、大官大寺の焼亡こそが百済大寺の焼亡伝説を作ったのではないかと。しかし、その代わりというか、回廊内から解き放たれた塔は自由さを増し、その数や位置を自由に設定できるようになったとも言えます。正に、東大寺の西塔と大仏殿と聖武陵との位置関係はその賜物ということなのでしょう。
 なお、吉備池廃寺には焼亡の痕跡はありません。しかし、この寺が大寺と呼ばれるにふさわしい規模であることだけは確かのようです。

伽藍配置が示す道標

 大官大寺の名称は天武紀から持統紀にかけて何度か出てきますが、この寺が現実のどの寺に当たるのかは未だ決していないようです。ただ、この寺の前身が百済大寺と呼ばれていたことだけは確かなことのようです。
 さて、その百済大寺ですが、奈良県桜井市吉備の吉備池廃寺がそれではないかとする説が有力視されています。仮にその説が正しいとすると、43章でも述べたことですが、天武時代の大官大寺法隆寺である可能性が生まれてくるのです。と言うのも、吉備池廃寺と法隆寺は伽藍配置がどうも同じらしいのです。また、法隆寺には焼亡の事実もありそれと相まってますます可能性があるようにも思えます。
 下の伽藍図は、吉備池廃寺の伽藍配置とそれに良く似たものとを、また藤原京大官大寺の伽藍配置とそれに良く似たものとをそれぞれ組み合わせて掲げたものです。そして、新旧の関係を推し測って、旧い方から新しいほうへ矢印を向けて指し示したものです。また、図の稚拙さ以外は、同じ縮尺となっています。

 これを見て思うことですが、どう見ても吉備池廃寺から法隆寺へ、川原寺から大官大寺へという流れしか見えてきません。無論、問題点もあります。例えば、法隆寺はなぜ吉備池廃寺よりも小さくなったのか、また川原寺には金堂が二つあるのになぜ大官大寺は一つだけなのか。
 あるいは、この問題が解けなければ、そうした流れの見方そのものを否定しなくてはならないのかもしれません。しかし、仏教隆盛の時期に寺が小さくなるのは、いや正確には法隆寺の場合は小さくなったということではないのです。法隆寺はあくまで標準的な規模の寺なのです。この場合、なぜ大きく出来なかったかということなのかもしれません。そして、この問いに対しての正確な答えは、法隆寺がいつ出来たかということを突きつめれば、あるいは自ずと出てくるものなのかも知れません。
 また、川原寺と大官大寺の問題にしても、図を見ればわかるように、大官大寺の金堂は川原寺の金堂の数倍以上の大きさがあります。つまり、金堂一つでも川原寺の数倍の働きが出来るのです。しかも、これを逆に考えれば、金堂一つで事足りるとしたのは大官大寺がやはり川原寺を基としているからということになるのではないだろうか。

 ところで、『日本書紀』には、天武2年(673)というから壬申の乱の翌年ですが、この年の12月17日に造高市大寺司の任命記事が見えています。おそらく、次の年から高市大寺の造営が始まったものと思われます。また、この記事の分注に、この寺は今の大官大寺であるとしています。結局このせいで、後世も我々もこの高市大寺を当時の大官大寺だと言ってしまっているのです。しかし、今の大官大寺という言い方に疑問はないだろうか。今とは、『日本書紀』編纂の奈良時代のことで、当時のことではないのです。穿った見方をすれば、当時は大官大寺と呼ばれてはいなかったということでもあるからです。
 大官大寺の名称は天武2年の分注以外は天武11年以降になってから見られます。単純には、高市大寺を大官大寺とした場合、高市大寺がこの頃に完成したということになるのかもしれません。また、それにもかかわらず高市大寺の名が見えないのは、『日本書紀』編纂者が高市大寺を全て大官大寺と書き改めたということなのかもしれません。しかし、それならなぜ天武2年の高市大寺を書き改めなかったのであろうか。

高市大寺という道標

 正真正銘大官大寺が存在していた大宝以降、この時期を扱った『続日本紀』には大官大寺の名前は一切ありません。大宝元年7月には、本来なら造大官大寺官と記されるところが造大安寺官となっています。歴史は現代史と言うように現在から推し測っての過去が歴史に記されるのです。そういう意味では高市大寺という名前を残した『日本書紀』は歴史書としては未熟ということなのだろうか。それともこれもまた後世に残した道標なのだろうか。

 思うに、大官大寺という名称には官大寺の中の官大寺という意味しかありません。つまり、官大寺が複数できた時点で始めて意味を為すものです。それに官大寺という意味、これは大きな官寺という意味ではなく、官寺即ち大寺という意味ではないだろうか。
 たとえば、天武9年4月、天武は、「国の大寺二、三を除いて、その他は官司の管理をやめよ」と命じていますが、天武の時代の、後の大官大寺や吉備池廃寺のように巨大な伽藍配置を持っている寺の遺構は二、三どころか一つも発見されていません。つまり、天武の言う大寺とは国営の寺という程度の意味しか持っていないことになます。
 また、天武は先ほどの命に続けて、(正確には)飛鳥寺は官治するべきではないと言っています。それは、飛鳥寺蘇我氏が建てた寺だからです。つまり、このことは大寺の基本は勅願寺であるということで、官治はその当然の結果だということを意味しています。また、天武はさらに続けて、飛鳥寺は功労のある寺で古い大寺として官治が行われているので官治してよいとも言っています。

 ところで、天武がこの時期になぜこのような勅を出したのだろうか。それは、おそらく高市大寺が官寺として機能し始めたからではないだろうか。また、飛鳥寺の処遇について言及したのは、この高市大寺が出来るまでは飛鳥寺がこの地域で官寺として機能していた唯一の寺だったからではないだろうか。
 ところで、そもそも天武はなぜ高市大寺を作ろうとしたのか。思うに、当時の高市には官の大寺がなかったからではないのか。だからこそ高市大寺と言う名称を先ず用いたのではないだろうか。そうなると、飛鳥の官大寺として扱われている川原寺は未だなかったことになります。思うに、高市大寺を大官大寺とする、このあたりの通説から変えていかない限り大官大寺高市大寺も分からず仕舞いになってしまうのではないだろうか。

  以下は天武9年4月の勅の全内容です。講談社学術文庫宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀下』によります。

およそ諸寺は、今後、国の大寺二、三を除いて、その他は官司の管理をやめる。ただし食封を所有しているものは、三十年を限度とする。
また思うに飛鳥寺は官治すべきではない。しかし古い大寺として官治が行われたし、かつて功労のあった歴史があるので、今後も官治する中に入れてよい
大寺二、三とは

 さて、このように見てまいりますと、天武9年の時点で飛鳥というか高市と呼ばれる地域には天武が大寺とする寺は、飛鳥寺高市大寺の二つしかなかったことになります。そのうちの飛鳥寺勅願寺ではありませんから二、三と呼ばれる中では三と呼ばれる方に入ることになります。そうすると、二つの勅願寺の中の一つは高市地域以外に有るということになります。

 甲午年三月十八日 鵤大寺徳聡法師 片岡王寺令弁法師
 飛鳥寺弁聡法師 三僧一所生父毋報恩敬奉観世音菩薩

 上は法隆寺に残る銅版に記された観世音菩薩造像銘の一部です。なお、観世音菩薩像本体は残っていないそうですが、持統8年甲午(694)藤原遷都の年に作られたものといわれています。観世音菩薩像は朱鳥元年(688)に天武のために作られていますが、おそらくこれ以降一般にも広がったのではないかと思われます。またそういう意味でも、銘文の甲午年は694年でいいのだと思います。
 そうなりますと、持統年間において鵤大寺と呼ばれる法隆寺は取りも直さず勅願寺、つまり先ほどの二つの勅願寺の中の高市以外の勅願寺となるのではないだろうか。
 さて、そうなると、天武紀に出てくる川原寺とは一体何なのだろうか。このままでは川原寺は、勅願寺でも大寺でもなくなることになります。

 ところで、高市大寺は天武2年にその名前が一度見えるだけで後はまったく見られません。思うに高市大寺というのは、高市の大寺という程度の意味しかなく、当然大官大寺というわけでもなかった。しかし、この寺は間違いなく天武天皇勅願寺です。従って、藤原京での勅願寺は当然この天武の勅願寺を移すことになるはずです。
 この章の始めの方でも述べましたが、藤原京勅願寺である大官大寺の伽藍配置は、川原寺のそれによく似ています。もし高市に川原寺以上に大官大寺に良く似た伽藍配置の寺がないのであれば、川原寺を高市大寺であるとする他はないのではないだろうか。
 そして、そうなれば大官大寺は鵤大寺である可能性もまた生まれてくるのではないだろうか。

都市と地方。

 近頃、人の間だけでなく自然の間にも格差が生じているとか。異常気象に環境異変。上から下への富やエネルギーの流れに偏りが生じている証なのかも知れません。
 これも古い話でございますが、暇ならどうぞお読みください。誠惶誠恐、頓首頓首。

✎.........................................................................................................................................

 先だって、スコットランドの独立への賛否を問う選挙がありました。結果は変化よりも現状維持を望む反対票が多く、独立はなりませんでした。ただ、自治権が拡大されることとなったのは大きな成果だと評価もされているようです。
 しかし、自治権が拡大してもロンドンが小さくなるわけではありません。ロンドンが小さくならなければ富の還元はありません。かえって自治権の拡大した分自治政府は大きくなり、予算が足りなくなるだけでしょう。先進国家の南北問題、富の流れとその配分、富が大きくなればなるほど根が深くなるようです。

 金の流れと人の流れはよく似ています。金も人も少ない方から多い方に流れていきます。何故そうなるのか、それは金も人も大きくなるためにです。大きくならなければ他に呑み込まれるからです。この流れが地方と都市の格差を広げるのです。
 思いますに、有史以来支配者は常に都市に住み、地方の疲弊を省みず富や人材を集めてまいりました。それもまた大きくなるための行為です。

 近代都市社会であると、都市文化を満喫している者はそう豪語しています。しかし、この社会が追いかけているのはそうした過去の支配者が作り上げた文化や芸術です。今日、支配者と呼べる支配者はいません。しかし、支配者の作り上げた文化や芸術を追いかける都市という社会が支配者の役割を果たしているように見えます。
 社会に居座る権力。都市に住まう権威、政治の権威、文化の権威、芸術の権威、これらを合わせるといないはずの支配者の姿が都市の中に浮かび現れてきます。民主主義社会とはいっていますが、支配者を部品化して隠しただけの社会なのかもしれません。

 技術が社会を救う。そう言われて久しくなります。確かに救われた者はたくさんいたでしょう。しかし、救われなかった者もたくさんいたのです。都市と地方という意味での地方がその一つです。
 運輸網や通信網の完備した現代、企業は地方にいようが都市にいようが効率よく生産活動ができます。しかし、なぜか企業は、特にその本社は都市に集中しています。
 今日、物や情報はどこにあろうと効率よく動かせますが、人は違います。人は地方では動き辛く住み辛くなっているのです。地方の電車やバスの運行は一時間一本が普通です。買い物一つにも車を必要とします。車を利用すればするほど電車やバスの運行は少なくなります。そして、廃線となります。地方ではこの悪循環が始まっています。この悪循環は自治権を拡大しても止まりません。

 人は、町を造った都市を創ったとは言うが、地方を造った田舎を創ったとは決して言わない。町や都市には成功や繁栄の意味があるが、地方や田舎にはそうした意味合はありません。
 無論、地方都市、田舎町という言葉はありはします。しかし、人がこの言葉を口にするのは、地方都市をどう発展させるか、田舎町をどう維持するかといった悲観的な物言いの場合に用いられる事の方が多いようです。
 時たま地方創生の救世主が現れてニュースで取り上げられたりもしていますが、これとても結局は地方内での格差を止めることは出来ません。地方においての中央と辺境、地方の辺境では限界集落が生まれているのです。

 都市造り町造りという言葉が示すように、都市も町も人の造った製品の一つに過ぎません。掃除機となんら変わりはないのです。ただ、悲しいことにコンセントとスイッチの場所がいつの間にか国民や市民から遠く離れ、見えなくなってしまっているのでしょう。

 

・∙∙∙∙∙∙ ☀ ∙∙∙∙∙∙・

なぁーんも なぁーんも
寛容 寛容
へば 寛容

何事も寛容寛容へば寛容、誠惶誠恐、頓首頓首。

§2.モード19の暦法が生んだ設計図。

 たった60個の組み合わせしか持たない干支ですが、繰り返すことで無限の年数を表すことができます。前号では、「記紀」の骨組みは1501年間に納まると述べましたが、正確には79章の中に納まるということです。下図参照

f:id:heiseirokumusai:20181007185613g:plain

 章とは19年を1章と数える暦法の単位です。章法とも呼ばれ、19年のうちの7年を閏年とする平朔法の暦法です。そのため、十九年七閏法とも呼ばれています。日本に最初に伝わったとされる元嘉暦はこの暦法を用いて作られた暦であります。しかし、安万呂の時代にはこの章法にこだわらないもっと優れた破章法(定朔法)の儀鳳暦が伝わっていました。なお、儀鳳暦は新羅経由の呼び名で、本来は麟徳暦と呼ばれています。日本には、成立後一年足らずで新暦として伝わっている可能性があるようです。

持統朝の両暦併用

 『日本書紀』、持統天皇4年(690年)の条に、初めて元嘉暦と儀鳳暦を用いるとあります。そのままに受け取れば、両暦を併用したということです。つまり、どのように利用したのかという疑問は残りますが、『日本書紀欽明天皇14年(552年)の条に、暦博士の交代と暦本とを百済に要請したという記事がありますから、欽明14年から持統4年までは、朝鮮からか、あるいは中国からの暦を利用し、それ以降は儀鳳暦(新暦で定朔)はそのまま輸入し、そしてなぜかは解らないが、元嘉暦(旧暦で平朔)をわざわざ作ったということなのでしょう。しかし、なぜ最新の暦をそのまま利用しなかったのでしょうか。
 2002年飛鳥の石神遺跡から元嘉暦に「具注暦」を配した木簡が出土しています。使用されたのは689年、持統天皇の3年とのことです。この事実と『日本書紀』の記述とは少し矛盾があります。当時の大陸では元嘉暦はすでに使われていません。したがって、この「具注暦」は当然日本製ということになります。また、儀鳳暦は河内野中寺の『弥勒造像記銘』から666年にはすでに伝わっていたことが知られています。ただ不思議なことに、この『弥勒造像記銘』には、わざわざ旧暦表示に直したものが記されています。
 思いますに、干支は毎回繰り返す曜日と同じで、紀年干支も暦日干支もある年のある日を起点とし延々と未来に向かって繰り返し伸びていっているものです。したがって、暦法が違ったからといって、その年やその日の干支が変わるというわけではありません。暦法の違いによって変わるのは朔(ついたち)干支です。4月1日(朔)が甲子になったり乙丑になったりします。この干支の違いが暦注に現れます。つまり暦が違うと同じその日の暦注が違ってくるのです。
 ところで、元嘉暦は儀鳳暦とは違い、19年分の雛形を一度作ってしまえば後は干支と暦注を変えるだけで同じものを繰り返し使うことができます。そもそも、寺院の建立に二十年近くを費やしていた時代です。また19年は一世代にも近く、何をするにも吉凶に左右されていた当時の人にとって、前もって「具注暦」により一世代にわたる生活指針が立てられることは非常に都合のよいことではなかったのではないでしょうか。

モード19の最初は暦の編纂

 現在、日本では西暦表記と元号表記が併用されています。元嘉暦は「具注暦」のため。儀鳳暦は公用のため。そう考えますと、持統朝の両暦併用も納得のできるものとなりますし、『弥勒造像記銘』の旧暦表示の理由も理解できます。またさらに推し量って、前もって長期にわたる「具注暦」を用意するというその行為が、後の「記紀」編纂者にある種の歴史の論理を植えつけるべく働いたのではないかと考えれば、持統四年の「初めて」両暦を併用すとるという内容の記事、これが「初めて」でないことは石神遺跡の木簡や、野中寺『弥勒造像記銘』より明らかですが、この矛盾にもある程度の説明がつくようになります。
 暦の編纂と歴史書の編纂はよく似ています。計算結果から導き出された暦の原型にあるのは、順序良く並んだ大の月や小の月や、あるいは閏月を示す枠だけです。歴史書もよく似たもので、順序良く並んだ歴代王朝の時間枠があるだけです。ここに、後から干支や暦注あるいは王朝記事を順序良く書き込んでいくわけですが、この作業が単純かつ機械的であると想像しがたくはありません。
 ハンコ仕事、あるいはハンコ作業という言葉があります。この「初めて」という表記は、おそらく干支暦注印のようなもので、暦が繰り返すごとに、王朝が繰り返すごとに、いとも簡単に押すことのできる程度のものだったのでありましょう。また各王朝を担当する者にとって初出の記事はすべて初めてということでこのハンコを押すことになっていたのかもしれません。
 それにしても、儀鳳暦が伝わって一世代以上がたつというのに、持統朝が元嘉暦を手放さなかったのはやはり一世代にあまる「具注暦」があったためかもしれません。重複しますが、『日本書紀欽明天皇14年(552年)の条に、暦博士の交代と暦本を百済に要請したという記事があります。おそらくこの時期に元嘉暦法による具注暦が伝わったのだと思われます。
 具注暦木簡の使われていた持統四年は、『日本書紀』編纂の時期より一世代ほど前にあたります。人間五十年と詠われてはいますが、当時の平均寿命は五十歳に満たないものです。印刷出版といった有効な記憶媒体手段を持たなかった彼らにとって、一世代二十年は今からみれば半世紀にも当たる長い時間だったはずです。すなわち過去の記憶の薄れゆくなか、それに反してますます色濃くなってゆく具注暦の文化、その真っただ中で育った書物、それが「記紀」なのです。

日本書紀の両暦利用

 ところで、周知のように『日本書紀』の暦日表記には二つの暦が使われています。仁徳天皇87年(399)以前の千年間ほどは儀鳳暦。安康天皇3年(456)以降の二百年余りは元嘉暦。そして、それらの間の57年ほどはどちらの暦法で計算しても同じ暦日となる、つまり両暦成立というのが今日の定説となっております。

 元嘉暦は宋の元嘉20年(443年)成立。元嘉22年より使われています。安康3年以降を元嘉暦とすることは理にかなっています。
 一方、儀鳳暦は唐の麟徳2年(665年)より使われています。つまり、儀鳳暦は元嘉暦より二百年以上も新しく、精度も良くなっているのです。したがって、長期、ここでは仁徳87年以前、およそ千年間ほどになりますが、その間の暦のずれあるいは誤差は元嘉暦よりも少ないのであります。これもまた理にかなっています。
 そして、さらに注目すべきは儀鳳暦の使われ方であります。定説によると、編纂者は儀鳳暦を平朔で使用しているのです。平朔というのは一朔望月(月の満ち欠けの一巡)の平均値を利用したもので、恒朔とも呼ばれています。これの長所は、大の月と小の月を交互に配置することが容易だということ。短所は、実際の朔が暦上の朔(ついたち)とはずれてしまうことです。儀鳳暦を平朔で使用した場合、暦元・太陽年・太陰月が元嘉暦との違いとなります。暦元というのはそれぞれの暦法の計算上での始発点です。理想的には、干支の始まり・一年の始まり・一月の始まり・一日の始まりが0時0分0秒で一致している時点ということになります。太陽年というのは一年の長さを日の単位で表わしたもの。太陰月というのは一朔望月の長さを同じく日の単位で表わしたものです。
 下にそれぞれの暦法の定数を示しました。

  太陽年 太陰月
元嘉暦 365.2467日 29.53058日
儀鳳暦 365.2447日 29.53059日

 なお、参考文献として『古代の暦日』と『日本書紀暦日原典』、共に雄山閣出版を利用しましたが、ここで述べることの殆どは全くの一試論であり一私論に過ぎません。

19年7潤の雛形

 さて、儀鳳暦を平朔で使用した場合どのようになるのか、また、元嘉暦のように19年7潤といった雛形が得られるのか、兎にも角にも『日本書紀』にそれを探ってみましょう。
 『日本書紀』には、仲哀元年壬申年から持統九年乙未年までの間に合わせて16個の閏月の記載があります。また、これに先ほど述べた参考文献に載る閏字脱落日付三件、垂仁23年甲寅年と履中5年甲辰年と欽明31年庚寅年とを加えて計19個の閏年を1500と1年分の干支年表に落としてみますと下のようになります。なお、下表は必要部分の抜粋です。

・・・・・・③年・・・・・・・⑥年・・・・⑧年・・・・・・・⑪年・・・・・・・⑭年・・・・⑯年・・・・・・・⑲年  ⇒ 19年7潤
丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・垂仁二三年

丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・仲哀元年

丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰履中五年

辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・清寧四年
庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・
己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・安閑元年
戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・欽明九年
丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・欽明三一年
丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・敏達十年
乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・推古十年・十三年
甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・
癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・
壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・斉明五年・天智六年
辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・天武二・十・十三年
庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・朱鳥・三・六・九年
・・・・・・1潤・・・・・・・2潤・・・・3潤・・・・・・・4潤・・・・・・・5潤・・・・6潤・・・・・・・7潤    └ 持統 ┘

 周知のように、暦法は安康紀を境に異なっています。閏記事は、元嘉暦圏では16個、儀鳳暦圏ではわずか3個しかありません。しかし、この表を見る限り閏年の位置は両暦とも決まった位置にあるように見えます。そもそも、元嘉暦と儀鳳暦とでは1000年で2日ほどの誤差が出るだけです。単純には1000年の間に大の月を4回ほど多くすれば誤差は解消します。
 平朔では、普通17ヵ月置きぐらいに大の月を続けて置き平均朔望月との誤差を解消しています。無論、これでも誤差が完全に無くなるわけではありません。また、19年7潤法とは言っても暦の最小単位は一日ですから、19年毎に時間の端数が無くなるわけではありません。ちなみに、元嘉暦の19年は6939.6875日、儀鳳暦では6939.6507日となります。小数点以下は端数で、この端数が次の19年に影響しますが、どちらも端数が出ることに変わりは無く、したがって、儀鳳暦、正確には儀鳳暦定数を平朔として用いても19年7潤での使用が出来ることに不思議はありません。
 既に述べたことですが、平朔の長所は大の月と小の月との交互の配置が容易だということ。加えて、19年7潤法の長所は、閏年の配置を固定できることです。上の表からも分かるように、19年中での閏年の位置は、3年目・6年目・8年目・11年目・14年目・16年目・19年目と固定されています。あとは閏月と大の月の続く月を決めればいいだけです。
 思うに、定朔と進朔をしなければ、破章法の儀鳳暦が十九年七閏法の章法として使うことができるようになるのです。そもそも、安康天皇以前、千年に渡る暦日干支を本来の儀鳳暦で得るには大変な時間と労力を費やすことは、目に見えて明らかであります。それに比べ、前にも述べましたが章法の利点は、19年分の雛形を作れば繰り返し使えるということです。すなわち、過去に向かって延々と続く干支の流れの中に19年分の雛形を次々と並べていけば、思いの年の暦日干支がその枠の中にいとも簡単に浮かび上がってくるのです。

 最後に、本来の定朔での儀鳳暦を用いた場合について、参考文献より引用してみますと

…平均朔望月の長さは29日半強である、と言っても月の運動は複雑でかなり長短がある。短い時は29.27日、長い時は29.83日ほどになり平均の29.53日とはかなりの差がある。そこで太陽や月の位置を計算して月の運動の平均運動からのずれを算出し、平均の朔の時刻に補正を加え、月の実運動を忠実に追って朔を求めることを定朔という。定朔を用いると毎月の大小の配列は多様になって大の月は4か月、小の月は3か月も続いたりすることが生ずる。
…当然のことながら定朔の計算は平朔とくらべて、はるかに複雑で数倍の手間がかかるのであるから、1300年も遡った時代からの干支の配当にわざわざ定朔を用いる愚は避けたのであろう。
日本書紀暦日原典より―

 このように見てまいりますと、両暦の使い分け、儀鳳暦の平朔使用、何度か言ったとは思いますが、まことに理にかなっているというほかはありません。古代とはいえ、『日本書紀』の編纂者は非常に合理的精神の持ち主であったということであります。
 そうしますと、19年ごとに繰り返す章法の暦観、「記紀」の編纂者が彼らの知らない遠い過去や未来の天皇の世を、19年あるいはその整数倍として捉えたとしても何ら不自然ではありません。ちなみに、初代天皇、神武の治世は『日本書紀』では76(19×4)年となっています。これは、(19年×n)のモードに他なりません。

月極ジッチャンネル。

 最近は、HTMLにもCSSにもそこそこ慣れはしたのですが、縦書きにして横にスクロールさせる方法が未だ分かりません。
 かと言って縦書きに拘っているわけではありません。ただ、横書きはレポート用紙の書式のように思えて不平や不満等を述べるには不向きのように思えてしようがないと、まあそういう訳なのです。

 下に載せるのは、ブログを始めて2ヶ月ほど経った頃のものでしょうか。確か、その時インターネットエクスプローラー脆弱性がどうのこうのと騒がれていたように記憶しています。
 これは年寄りのつまらない愚痴ですが、ブログに不満のない方は後学のためにもぜひお読みください。

✎.........................................................................................................................................

 いよいよ夏の盛りであります。盛りを前にインターネットエクスプローラー熱中症になったとかならなかったとか随分と騒いでいたようですが、縦書き表示はこのブラウザだけなので少々心配です。
 心配といえば、いえ心配というより苦心とでもいうのでしょうか、ブログを何とか縦書きで編集したいのですがうまくいきません。横書きはどうしても気分が落ち着きません。そうこうしているうちに一ヶ月が過ぎてしまい‥、とうとうブログにクモの巣が張ってしまいました。
 一ヶ月以上の更新がなければ広告が表示される。無料ブログの当然と言えば当然の結果ではございますが、訪れる者の誰もいない我がブログに、いくら約束事とはいえ、広告を掲載してなんの意味があるのだろうか。それとも、クモの巣ブログにさらなるクモの巣が張ったというだけのことでしかないと言うのだろうか。…

 それはさておき、やがては夏休。井上用水の春が過ぎ夏休みの歌が聞こえてまいりました。私は老骨、すでに夏休みです。週刊ジッチャンネルとはお別れして、月極ジッチャンネルとしなければならない日が来たようでございます。

・∙∙∙∙∙∙ ♬ ∙∙∙∙∙∙・

皆様、
このクモの巣ブログを見ていない皆様、月極の祈りがやってまいりました。

太った人には一日一善、
 やせた人にはヒッグス粒子を。
  毛のない人には神の恵みを、 … 与え給え。

結構でございました。