昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§39 『古事記』の中の法隆寺。

 現在の理が過去の理に勝る。『日本書紀』を読めばたいていの場合そう言えなくもありません。例えば、孝徳も文武も正確には軽王であって軽皇子ではありません。しかし、文武の場合は『日本書紀』編纂の時点では元明天皇の皇子となります。この現在の理により文武が『日本書紀』に登場する場合は常に皇子として登場することになります。したがって、孝徳が文武の投影というのが『日本書紀』の理とすれば、彼も常に皇子として登場することになります。実際そうなっています。つまり、孝徳が文武の投影であることは『日本書紀』が認めていることなのです。
 思うに、『日本書紀』は古代人の歴史書であって現代人のそれではありません。また、古代人の歴史書といっても彼らの歴史書というわけでもありません。古代では、全てのものは天子一個人の物とされるからです。したがって、現代史あるいは近代史と同じレベルで論じても真実は見えてきません。ただし、真実が見えたからといってそれが史実ということではありません。しかし、古代人の理であることに違いはないはずです。

記紀」の明細書

 さて、文武は持統から、孝徳は斉明からそれぞれ譲位をされて天皇となっています。そこで持統と斉明との治世のあり様を比べてみますと、下ⓒ表のように全く同じとなってしまいます。

斉明 皇極が3年間 斉明が7年間 全治世10年間
持統 即位前が3年間 即位後が7年間 全治世10年間

 無論、あるいは持統の治世は11年ではないかと言うかもしれません。確かに持統の治世には持統11年があります。しかし、ここでは皇極から孝徳、持統から文武という関係で話を進めています。したがって、孝徳が皇極4年に即位をし、その年を大化元年と改めている以上、これに合わせて文武の即位の年持統11年を文武元年とするのが道理というものでしょう。しかし、『日本書紀』は持統11年で記述を終えています。以上のような比較をしなければ持統は11年というのが道理なのかも知れません。
 しかし、系譜は持統の後も続きます。持統を11年とするか10年とするかによって次の文武の治世が、10年となったり11年となったりします。あるいはこれもまた道理に適っていると言うほかはないのかも知れません。しかし、どちらであったもしても、文武と持統とを合わせてしまえば、二人の総治世は何ら変わることはありません。あるいはこれが本来の、ただし譲位の場合にのみ通用する道理なのかもしれません。
 ところで、『古事記』は推古の治世を『日本書紀』が36年とするところを37年としています。また、崇峻の治世を『日本書紀』が5年とするところを4年としています。さて、これを矛盾と言うべきか。それとも、先ほど述べたように、それぞれを合わせた総治世は『古事記』も『日本書紀』もどちらも同じ41年で矛盾はなしと見るべきか。
 思うに、総額は合っているのに明細が違う。どこかの会計報告というわけではないのですが、確かうちの自治会でもそんなことがありました。しかし、明細の項目の立て方が違うというだけで別段問題にはならなかったようです。そこで、これの明細の中身を覗いてみましょう。

  崇峻と推古との総治世(41)年
古事記 崇峻(4)  推古(37)
  持統(11) 斉明(10) 元明(8) 元正(8)
日本書紀 崇峻(5)   推古(36)
持統(10) 斉明(10) 元明(7) 元正(9)

 こうした明細書が会計監査で通るかどうか。また、その是非はさて置き、こうしたものが成立する以上、『隋書』と齟齬を来たす推古天皇についてはその存在を疑ってみる必要があることだけは確かのようです。なお、ここでは『古事記』記載の用明と崇峻の崩年干支がもたらす矛盾は考慮せず、治世年だけを取り上げています。なお、この二つの崩年干支については後ほど説明をすることとします。
 さて、私は『古事記』も『日本書紀』も太安万侶が編纂したという前提でこの両書を見ています。そして両書の齟齬のあるところには、安万呂の道標があるものと想定をしています。

古事記』の理、『日本書紀』の理、素人の理

 さて、崇峻と推古の治世の両書での齟齬ですが、これは『古事記』の理と『日本書紀』の理との違いから来るものです。ここでの場合、それは天皇の治世の数え方、延いては天皇の元年をどこに置くかの違いでもあります。具体的には、前天皇の死をうけての即位と前天皇からの譲位をうけての即位とを区別するかしないかの違いでもあります。そこで、この関係を表として下に示しました。西暦の数字年は、前天皇の死亡年かつ新天皇の即位年を、又は譲位年かつ即位年を示しています。なお、斉明は省いています。

←・→ 持統11年   元明元年 ←・→ 元明9年   聖武元年 ←・→
  697 …… 707 …… 715 …… 724  
  文武元年 ←・→ 文武11年   元正元年 ←・→ 元正10年  

 理と言いながら、『古事記』には載らない天皇の治世を『古事記』の理として話をしている。当然、それは理に合わないと言う向きも居られると思います。しかし、これは『古事記』の理というよりも太安万侶の理と言うべきものなのです。また、『日本書紀』の理もまた太安万侶の理と言うべきものなのです。なお、これは矛盾とはりません。安万呂にとって『古事記』と『日本書紀』は陰と陽の関係にあるというのが私の論です。陰陽は相反しますが、矛盾とはなりません。

 個々の天皇の治世を年単位で捉えようとすると、ある年で新旧の天皇の治世が重なる場合があります。上の表では西暦年数字の箇所がその年になります。なお、この表では、下線のあるのは死去と即位の年、その他は全て譲位と即位の年となります。そして、この年をどちらの天皇の治世とするかによって、その天皇の治世の長さが変わります。しかし、こうしたことには何らかの決まり事があり、全てこれに合わせれば治世の長さに変化は生じません。しかし、譲位の年と死去の年、これを共に同じように扱えるのかという問題が当然生じます。
 『日本書紀』では天皇の死去の場合は越年称元(しょうげん)年代とか言われるように、新天皇の元年は翌年からとなっています。しかし、天皇の譲位の場合はその逆で、皇極から孝徳への譲位の場合では譲位の年が新天皇の元年とされています。つまり『日本書紀』は、死去の年と譲位の年とではその元年の置き方を違えているのです。そして、このことが『古事記』と『日本書紀』との間に齟齬を生じさせているのです。しかし、このことから、『古事記』が死去の年と譲位の年とを区別していないということが分かりもするのです。下ⓕ表。

日本書紀 持統(10) 文武(11) 元明(7) 元正(9) 聖武
  697 …… 707 …… 715 …… 724
古事記 持統(11) 文武(10) 元明(8) 元正(8) 聖武

 思うに、『古事記』は末年崩年干支の書です。『古事記』からすれば、譲位の年は末年の年ということなのでしょう。一方、『日本書紀』は元年太歳干支の書です。正に譲位の年こそ元年にふさわしいと。おそらくはそういう事なのでしょう。末年と元年、正に陰と陽ということになります。
 なお、『続日本紀』の捉え方によっては、文武から元明への皇位継承が譲位であったとする見方もできます。この場合は、持統、斉明、元明、元正の治世の総計が『古事記』と同じ37年となり、『日本書紀』が故意に推古の治世を一年縮めている可能性があります。しかし、これに就いては、別の章で述べることになります。
 ところで、『古事記』は和銅年間の書なのですが、元正の即位の年と聖武の即位の年を知っていたのでしょうか。笑止な問いと言われればそれまでの事ではありますが、安万呂の道標と思えば別段不可解ということにはなりません。と言うのも、安万呂が『古事記』をしたためたのは過去の天皇のためではなく現在の天皇のためであることは、当時のいや現代の社会通念から推しても確かなことだからです。
 権力者が歴史を作る、あるいは書かせる。古代も現代も書かせられる側からすれば、それほどの変わりはありません。つまるところ古代においては『古事記』も『日本書紀』も天皇一個人のために書かれた書物ということです。おそらく、それらの編纂を命じたのは元明とは思いますが、果たして彼女自身のために書かせたものなのだろうか。思うに、元明も元正もいわゆる中継ぎの天皇です。彼女たちの役目は聖武への皇位継承の橋渡しにあります。そう、「記紀」は聖武のために書かれているのです。そして、聖武元年を甲子の年とすることを決めているのです。

古事記』の中の法隆寺金堂

 「記紀」が聖武のために書かれていることを証明する手がかりがあります。それは用明の崩年干支です。用明の崩年は、法隆寺金堂薬師如来像光背銘より丙午の年であることが分かります。しかし、「記紀」共にこの天皇の崩年を丁未の年としています。これは、聖武聖徳太子の生まれ変わりとするというよりも、生まれ変わりとしたいという当時の社会の願望によるもので、聖徳太子の父用明の崩年干支を聖武の父文武の崩年干支丁未に合わせたものと見えます。

沼名倉太玉敷の命、…壱拾肆歳(とをまりよとせ)天の下治らしめしき。…甲辰(きのえたつ)年…崩りたまひき。
橘の豊日の王、…参歳(みとせ)天の下治らしめしき。…この天皇丁未(ひのとひつじ)の年…崩りたまひき。
長谷部の若雀の天皇、…四歳(よとせ)天の下治らしめしき。壬子(みずのえね)の年…崩りたまひき。
豊御食炊比売の命、…参拾漆歳(みそとせまりななとせ)天の下治らしめしき。戊子(つちのえね)の年…崩りたまひき。

 上は、角川文庫『新訂 古事記』よりの引用です。そして、これに載る敏達から推古までの治世年と崩年干支とを横並びの時間枠の桝目に示したものが下の表です。先ず一行目ですが、これは『古事記』をそのままに写し置いたものです。ただ、このままですと治世年と崩年干支との間に矛盾が生じますので、これを直して二行目に表わしました。三行目は、丙午を基準としてそれぞれの治世年に合わせて崩年を移動させたものです。最後の行は『日本書紀』からのものです。

ー ⓖ表 ー
敏達(14) 用明(3) 崇峻(4)表では5年 推古(37)表では36年
敏達(14) 用明(3) 崇峻(4) 推古(37)
敏達(13) 用明(3) 崇峻(4) 推古(37)  
癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申・己酉・庚戌 辛亥 壬子 癸丑・甲寅… …丁亥 戊子
敏達(14)表では15年 用明(2) 崇峻(5) 推古(36)

 さて、二行目と三行目とを見比べてみると、二行目は三行目を一干支だけ繰り下げたものだという事が分かります。つまり、用明天皇の崩年を丙午から丁未に繰り下げたいうことになります。また、推古の元年が辛亥年つまり法興元年であったことも分かります。思うに、『古事記』はこの箇所に法隆寺金堂を構築したのではないか。
 法隆寺金堂には三つの本尊が並んでいます。それらの作られた時代はそれぞれ違いますが、それらは同じ一つの空間に錯綜することなく並べられています。今、薬師如来像と釈迦三尊像が敏達から推古にかけての『古事記』金堂に見出せました。残るは、阿弥陀如来像です。そこで、これを探してみましょう。
 表より、『古事記』金堂の幅は(14+3+4+37)の58年となります。これに『日本書紀』の編年を宛がうと敏達が14年から15年に変わります。また、三行目では13年になっていますから、敏達は、13年、14年、15年といった三つの治世年を持つことが分かります。 このことから、敏達には三つのシナリオがあるのではないかと想定が出来ます。そして、探し当てたのが次の表です。

敏達   即位後が14年間 全治世14年間 ⓗ表
天武 即位前が1年間 即位後が13年間 朱鳥が1年間 全治世15年間
舒明   即位後が13年間   全治世13年間

 敏達が舒明に重なることは24章で述べたことですが、今回は天武とも重なるようになってしまったようです。実は、敏達紀には壬申の乱とかかわりのある記事があるのです。

§38 儀鳳暦と大射。

 十三夜に十五夜十六夜、そして二十三夜。これらは全て月の呼び名です。ただし、これらの呼び名が成立するためには定朔の暦が出来ていなくてはなりません。
 定朔の暦の最初は戊寅元暦と呼ばれているものです。ただ、時期尚早というか、これは後に平朔の暦とされてしまいます。
 定朔の暦が確実に定着したのは麟徳2年(665)から使用された麟徳暦と呼ばれているものです。この暦は、麟徳2年から開元16年(728)までの73年間用いられたとされています。

天武年間までの定朔暦
歳次丙寅年正月生十八日記 高屋大夫 為分韓婦夫人名阿麻古願 南无頂礼作奏也

 上は、法隆寺から献納されて御物となった金銅弥勒菩薩像の台座に彫られている銘文です。作られたのは丙寅年、666年とされています。

対馬国司、使を筑紫の大宰府に遣して言さく、月生ちて二日、沙門道文…。

 上は、天智紀の10年(671)11月10日に載る記事です。

辛巳年正月生十日柴江五十戸人

 上は、静岡県浜松市郊外の伊場遺跡で発見された木簡の文書です。さて、上記の三例は雄山閣出版大谷光男著『古代の暦日』よりの引用です。ついては、説明に代えて、もう少し引用させてもらいます。なお、横書きで読み辛くなる漢数字はアラビア数字に改めさてもらいました。

この辛巳年は井上光貞氏によると、「木簡の出土した地層からいっても、大宝令以前は年号ではなく干支で年代を示す通例からいっても、天武朝の681年にあたることに間違いない。(中略)生十日といえば、新月がうまれた日(朔)から数えて十日目という意味でいかにも七世紀という時代にふさわしい」(「伊場と木簡」『学士会会報』1975年726号)とのことで、天武天皇十年と断定している。
 一方、今井湊氏は「飛鳥時代暦法」で弥勒菩薩造像記銘の丙寅年も天智天皇五年と認めれば「野中寺造仏銘文と同年である。又、対馬国司の場合もそこが朝鮮交通の要地にあるのであるから、これ等はむしろ新しい麟徳定朔暦による記日の暦の新造語ではなかったかとも考えられる。恐らく当時この暦法の定朔と云う事が力説されたに違いなく、このは日食の場合の生えの生と同じことを意味するのではなかろうか」(『天官書』第一輯)と、「」はいはゆる麟徳暦伝来による新造語ではなかろうかと述べている。

 以上の引用からもわかるように、麟徳定朔暦は唐での施行後一年も経ずして日本に伝来しているようです。ただ、日本に麟徳暦といった呼び名がないことから、この暦はあるいは朝鮮交易に携わる商人が私的に持ち込んだのかもしれません。それにという新造語にしても、それが朝鮮で生まれたのか、それとも日本でなのかはこれだけでは分かりません。ただ、前章から問題としている「朔(ついたち)」という言葉に関しては、天武時代には未だなかったとは言えそうです。
 なお、天智紀では月生ちてを後世の「ついたち」に合わせて「月生ち(つきたち)」と読ませていますが、造像銘や木簡に記されたは上記の説明のように「生え(はえ)」と読まれていた可能性があります。説明では日食の場合の生えとしていますが、『日本書紀』では蝕と書いてこれを「はえ」と読ませています。おそらく、暦法の確立した時代に編纂された『日本書紀』が最新の暦法言語に合わせたのでしょう。

 このように見てまいりますと、天武5年と6年とに出てくる告朔の儀は、時間的には儀鳳暦が伝わったとされる時期と都合好く重なりはしますが、やはり正朔の確立した持統4年以降に回すのが順当のように思えます。なお、天武朝での定朔の影響ですが、これは正月の行事の「射」に現れているようです。ただ、これについても少々疑問点があるにはあるのですが、とりあえずは続けましょう。
 「射」は天武紀では4年以降に見られるもので、また、正月以外にも行われているようですが、『隋書』に日本の風習として、正月一日毎に射戯と飲食をするという記事のあることから、「射」は本来は正月一日の行事であったと思われます。また、この行事の主体は一般庶民で、おそらく弓の上達を願っての丁度今日での書初めと同じような意味を持っての民間行事ではなかったかと。また、「射」を当時どのように呼んでいたのかは分かりませんが、これがやがて「大射」と呼ばれるようになる様は新嘗が大嘗と呼ばれるようになる様とよく似ており、あるいはこの行事もいつの時期かに朝廷でも執り行うようになったのではないかと。なお、この行事は奈良時代から平安時代中に「射禮(じゃらい)」と呼ばれるようになっているようです。

仁徳 天武 持統
 12年8月10日 ◎4年正月17日
◎5年正月16日
◎6年正月17日
◎7年正月17日
◎8年正月18日
◎9年正月17日
 9年9月9日
◎10年正月17日
◎13年正月23日
 14年5月5日
 3年7月15日
 3年8月23日
 5年8月5日
◎8年正月17日
◎8年正月18日
◎9年正月17日
◎10年正月18日
清寧
 4年9月1日
孝徳
◎大化3年正月15日
天智
◎9年正月7日
続日本紀に載る大射◎と射○
大宝元年正月18日
慶雲3年正月17日
霊亀元年正月17日
 養老7年8月9日
神亀5年正月17日
天平12年正月17日
天平13年正月15日
天平寶字3年正月19日
天平寶字4年正月17日(射禮)
天平寶字7年正月21日
○寶亀11年正月16日

上の二つの表は『日本書紀』と『続日本紀』に載る「射」関係の記事の年月日だけを集めたものです。なお、参考としたのは吉川弘文館出版国史大系のそれぞれの普及版です。また、これまでの『日本書紀』引用の原文はすべてこの吉川弘文館出版国史大系普及版からのものです。
 天武以前の「射」は記事数が少なく参考とはできないかもしれませんが、天武以降の「射」特に正月のそれは15日つまり満月以降に行われていると言えそうです。「射」とは弓を引くことですからいわゆる弓張り月という表現がこの場合にはあてはまることになります。したがって、実際の月の形と弓を引いた形とに特別興味が注がれたとしても不思議はありません。しかも、定朔の暦ですから日にちを決めることも容易です。
 思うに、天武以降の正月の「射」は下弦の月の日を選んでいるように見受けられます。この下弦の弓張り月は、弓を上向きに構えた状態を表していますから、単純には弓が上達するという風にも受け取れなくもないのですが、8月や9月の場合はその逆の構えのようにも見えるため、あるいは次のように考えた方がいいのかも知れません。

4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 正月 2月 3月
大壮
 
新月 上弦の月 満月 下弦の月
 
太陽 陽⇒陰つまり地に向かう 太陰 陰⇒陽つまり天に向かう
三日月や十三夜月等 15夜 十六夜月や二十三夜月等

 月を陰陽消長で捉えると、新月が太陽、満月が太陰となります。これを定朔の暦に当てはめれば新月が1日、満月がほぼ15日となります。また、64卦では新月が乾の4月に、満月は坤の10月に相当します。陰陽は消長しますから太陰の満月を過ぎれば陽へと向かいます。これは64卦の復で11月の冬至一陽来復の復に同じで、月齢では17日前後の下弦の月に当たります。そこで、月の形に合わせて弓を引けば、弓は天を向き、矢は陽に向かいます。そして、上弦の月ではその逆となり弓は地を向き、矢は陰に向かいます。正に自然と陰陽消長の調和とも呼べる行事のようにも見えます。なお、正月は64卦では泰となり、月齢だと下弦の月の23日頃の半月となります。卦図も陰陽半々、つまり上卦が坤で内卦が乾の丁度その様な形になっています。

 『隋書』の記事の時代、正月一日に行われていた射戯が天武の時代には下弦の月の17日前後となり、8月9月の「射」は上弦の月の日に行われるようになったものと見えます。これは定朔の暦によって月の満ち欠けをその月の日付で捉えることが出来るようになり、月の日付と易64卦の12ヶ月とを対応させた結果、「射」の行事を月毎に上弦あるいは下弦に合わせるようになったためと思われます。つまり、上弦の月の範囲に当たる5月から9月まではその月の2日から15夜の前日までに「射」を行い、下弦の月の範囲に当たる11月から3月まではその月の16日から晦日の前日までに「射」を行うということです。
 無論、そうした取り決めが実際あったか如何かは分かりません。しかし、平安時代には 「射禮」は正月の17日と決められていたと聞きます。また、奈良時代には15日から21日までの範囲でこれが行われていたようです。思うに月の満ち欠けと易経とは古代から今日まで何ら変わることのない同じものです。そして、その同じ物に対しての連想に、古代も現代も変わりはないということです。

 さて、いつの時期か「射」を朝廷でも行うようになって、これが「大射」と呼ばれるようになりました。また、いつの時期か「新嘗」を朝廷でも行うようになって、これが「大嘗」と呼ばれるようになりました。思うに、これら二つの事実が教えているのは、嘗て朝廷では「新嘗」も「射」も行われてはいなかったという事です。そして、これら二つの行事が始まったのは、それほど古くはない時期、おそらく、以外ともいえるほど新しい時期ではなかったかと。
 「新嘗」も「射」も古くは仁徳紀にその記事がありますが、仁徳すなわち難波天皇、難波天皇すなわち孝徳天皇孝徳天皇すなわち軽天皇、軽天皇すなわち文武天皇と読み解けば、この記事は持統を遡ることはなくなります。無論、こうしたやり方を正しいと言うのではありません。しかし、こうした行事が持統朝に成立したという仮定に立てば、仁徳紀にこうした記事が出てくる理由を当然考えなければならないわけですから、前後が逆になりはしましたがこうしたやり方もあってしかるべきかと。また、この行事の成立の時期を持統朝としましたが、仮にこれを別の朝に違えたとしても結果は何ら変わりません。例えばこれを天智朝としてみましょう。
 天智と孝徳が同一ではないかということは、既に何度か話していますが、今回は別の観点から少し覗いてみましょう。それに天智紀には、舒明以降が敏達以降に置き換わるという道標の最初もあるのです。それは、天智7年の天皇即位の記事の分注にあります。分注には、「ある本には、6年3月即位とある」とあります。つまり、これにより天智の治世は5年と5年とに分かれることになります。これは、孝徳の治世が5年と5年とに分かれるのと全く同じです。また、本文どおりの7年即位とした場合は、今度は文武と同じになります。しかもこれは皇極斉明の治世とも似てくるのです。なお、文武の即位は持統紀ではその11年ですから、此処での場合、この年は持統の治世として計算することになります。

ー 分注による ー
孝徳 大化が5年間 白雉が5年間 全治世10年間 ⓐ表
天智 即位前が5年間 即位後が5年間 全治世10年間
ー 本文による ー     ・
天智 即位前が6年間 即位後が4年間 全治世10年間 ⓑ表
文武 文武が3年間 大宝が3年間 慶雲が4年間 全治世10年間
斉明 皇極が3年間 斉明が7年間 全治世10年間

 ⓐとⓑとを見比べてどのように感じるだろうか。私は文武を雛形として、斉明、孝徳、天智の治世が割り出されたのではないかと考えています。つまり天智即位年の分注の記事は、天智の治世のもう一つの設計図あるいはシナリオではなかったかと、だからこそこの分注が天智紀にあるのだと。
 さて、少し遡りますが、また、本題とは随分と離れてしまいましたが。確か32章では、皇極、孝徳、斉明に天智を宛がえば(こうしたシナリオは)ありうることだと述べました。これは、一つには24章で述べた敏達を舒明に宛がった結果を受けてのものですが、もう一つには、天智の即位が父舒明天皇の死後実に26年もの長きを経てからのものだということによるものです。思うに、これは文武の享年とほとんど変わりません。文武は15歳で即位し、25歳で亡くなったとされていますから、あるいは天智というよりも孝徳を16歳で即位をさせ26歳で死亡させるというのが本来のシナリオであったのではないかと。思うに、難波天皇短命説は文武天皇がその出所かも。どうやら連想が先走ってもいるようです。

§37 朔旦冬至と即位、そして大嘗祭。

 人は、夏の暑い日には日陰を好み、冬の寒い日には日向を好みます。もしかしたら、私達にとって、『古事記』と『日本書紀』とはそう云うものなのかも知れません。
 また、人は、作物や草花を日向には植えても、日陰には植えません。そのせいか、庭の日向は決まって耕されますが、庭の日陰が耕されることはありません。

 いつの頃からかは詳しくは知りませんが、『日本書紀』は、その成立の後で、あるいは成立の直前に、当時の政権にとって都合の好いように書き換えられた可能性があるとの指摘が取り沙汰されて今日に至っています。
 思うに、『日本書紀』は六国史の筆頭として史書の日向を歩む正史ではあります。しかし、この史書は長子として甘やかされて育てられたせいか、神話を初めとする幾多のユルキャラの縫い包みに取り囲まれ、しかも常に日向に身を置く立場にあります。あるいは雑草が生えすぎて耕されようとしているのかも知れません。
 それにつけても、千数百年来変わらぬお国柄というのでしょうか。巷での森友の何とかの文書が書き換えられたとかという騒ぎ、… 日向を歩む者はこうしたことの無いよう常に気を配らねば。… それにひきかえ、日陰に身を置く『古事記』、あるいは私、未だ嘗てそうした取り沙汰は一つもございません。… 喜ぶべきか悲しむべきか。

践祚大嘗祭はなかった?

 大嘗(祭)と新嘗(祭)の名前は『古事記』にも見えます。しかし、『日本書紀』のように使い分けているようには見えません。例えば、『日本書紀』には天照が新嘗キコシメスとしているのですが、『古事記』ではこれを大嘗キコシメスとしています。
 大嘗を践祚の大嘗とした場合、『古事記』は明らかに間違えています。しかし、大嘗を天皇が行う新嘗の言い換えに過ぎないのだとしたら、必ずしもそうとは言い切れません。また、記神話が大嘗キコシメスと表記した時代、践祚大嘗祭というものが未だなかったのだとしたら、その表記はむしろ正しいとさえ言えます。
 思うに、新嘗祭天皇が執り行うようになった時、その瞬間に大嘗という言葉が突如として生まれたということではないはずです。また、大嘗という言葉が生まれたからといって、それが即践祚大嘗祭に繋がったということでもないはずです。それが繋がるには、やはり何らかの手続きがあったはずです。
 聞けば、養老令では大嘗祭新嘗祭も共に大嘗と呼んでいたと言います。養老令は大宝令の改訂版とも言われていますから、この時点で令においてなお書き分ける必要がなかったということは、大嘗祭新嘗祭もその手続きあるいは式次第には令の上での相違点が無かったということになります。
 そもそも、大嘗祭新嘗祭との言葉の使い分けは、祭りそのものの違を表わしているのではなく、この祭の主宰者である天皇の代替わり前とその後での最初の祭とを区別するためのものでしかありません。それは天皇が替わったからといって天皇の意味が変わるということでは無いのと同じです。ただ、当時が唯一違いを明らかにしなければならなかったのは、代替わりの年の新穀を前代の物とするかそれとも後代の物とするかということだけです。そして、その結果、8月以降の即位の場合は翌年に大嘗祭を行い、それよりも前の即位の場合は年内にそれを行うという規定が出来上がったのだと思います。もし、大嘗祭新嘗祭との間に違いがあるのだとしたら、おそらく唯一このことに因るものでしょう。

 思うに、令は、大嘗と新嘗との区別をせず、どちらも大嘗と表記します。それは令が前天皇にとっても現天皇にとっても同じ令だからでしょう。また、『日本書紀』は大嘗と新嘗とを区別するため、異なる二つの表記を用いています。それは個々の天皇を書き分けるというのが『日本書紀』の趣旨だからでしょう。なお、『古事記』には大嘗と新嘗、二つの表記がありますが、新嘗の表記は祭りを指しているのではなく、新嘗屋と呼ばれる建物の名称として用いられています。しかもこの名称は物語の中にではなく歌謡の中にのみ見られるもので、最初にも述べたように『古事記』は大嘗と新嘗とを区別してはいません。『古事記』がそれらを区別しないのは、令と同じ理由によるものなのか、それともこの神話の書かれた時代には践祚大嘗祭はなかったことによるものなのか。前章の説明を補う上でも時間を少し割く必要がありそうです。

 さて、即位の時期によって践祚大嘗祭を年内に行うか、それとも翌年とするかを決めた時期があったということなのですが、それならば、それを決める以前はどのようにしていたのだろうかと、誰もが普通そう思うのではないだろうか。しかし、これに就いてあれこれと考えるよりも、持統の場合は践祚大嘗祭だったかどうかを先ず確かめることから始めた方が順序というものかもしれません。何故なら、持統は令に則って即位した最初の天皇だからです。
 持統は4年の正月一日に即位をしています。しかし、この年内に大嘗祭は行われていません。大嘗祭が行われたのは翌年5年の11月1日戊辰です。持統の場合、その3年の6月には浄御原令の施行があり、さらに8月には天神地祇の談合も持たれています。もし、当時践祚大嘗祭という祭事が存在していたなら、これについての何らかの取り決めがあって当然なのですが。しかし、そうした気配は天武紀からもそして後の文武紀からも感じられません。持統の大嘗祭は、天武紀からもそして後の文武紀からも孤立しているのです。しかし、この意味するものからは無視のできない結論が得られます。それは、天武の大嘗祭践祚のそれではなく単なる新嘗祭であったということです。しかし、これは後に回すとして、持統に就いて続けますと。持統の場合、次のような解釈が成り立たないわけでもありません。
 つまり、前天皇の代での新嘗祭により新天皇の初年度の新穀には前天皇にかかわる穀霊が宿る、とする解釈です。これを推し進めれば、新天皇大嘗祭に先立って先ず自身による新嘗祭を行う必要が生じます。したがって、持統は即位の年に新嘗祭を行い、次の年に大嘗祭を行ったと。しかし、この論理は後世には引き継がれていません。それになにより持統の即位も大嘗祭も前天皇の死後数年を経ているのです。加えて、これはある意味での取り決めとなりますから、11月1日という期日もまた取り決めと見なくてはなりません。しかし、11月1日というのは前章でも述べたように朔旦冬至に擬したものとするべきものです。そうなると、11月1日という期日は取り決めによるものではなくなり、延いてはこうした取り決めは最初から無かったということになります。
 そうすると、今度は持統が、というよりも『日本書紀』が何故この時期を、つまり持統5年を選んだかということになります。と言うのも、『日本書紀』は新嘗と大嘗とを区別していながら、後世の取り決めとは異なった持統5年の11月1日に大嘗祭を置く以上、そこには何らかの理由があるという事になるからです。

持統と則天武后の即位

持統4年(690)、大嘗祭の前の年の記事です。この年の1月に持統は即位し、11月中には暦の施行を迎えています。そして、この年の9月の末には、白雉4年(654)に唐に渡ったとされる学問僧智宗・義徳・浄願の三名と、百済の戦役で唐の捕虜となった大伴部博麻暦が筑紫に帰還しています。そして、この一行が10月10日に都に着いと記事にはあります。おそらく、この時に唐の最新情報がもたらされたと思います。なお、こうした長期滞在あるいは抑留からの帰還の記事は、天武13年(684)の暮れの記事にも載っていますが、この時と今回とでは唐の情勢に大きな違いがあります。
 唐では、弘道元年(683年)の高宗の死亡によって、病気がちな高宗に代わって垂簾政治を執っていた皇后の武照(則天武后)が、実質的支配者となります。天武13年の帰還はこれに因るものと思われます。また、則天武后は息子二人の傀儡政権の後、永昌元年(689)11月を突如載初元年正月と定め、翌年には自ら皇帝に即位をしています。いわゆる武周王朝の成立です。
 ところで、則天武后が永昌元年の11月を載初元年正月と定めたのは三正のうちの周正を選んだためです。これは、周王朝を興した則天武后にしてみれば、子の月を正月とする周

月建 卯…
夏暦 11月 12月丑 正月 2月…
殷暦 12月 正月 2月 3月…
周暦 正月 2月 3月 4月…

の暦に合わせるのは当然の行為ということでしょう。しかし、それはそれとして、では何故この年のこの月に突如それを行わなければならなかったか。例によって素人の勘繰りではありますが、先ほどの事と関係があるやもしれません。少し時間を裂いてみましょう。左は三正(夏暦・殷暦・周暦)。

 最初に結論から申せば、永昌元年(689)11月は朔旦冬至に当たるということです。思うに、朔旦冬至というのは元嘉暦法そのものを言い表しているとも言えるものです。また、当時中国で用いられていた麟徳暦(日本名儀鳳暦)は章法(元嘉暦法等)を否定する立場の暦法で、今日から見れば何とはなく朔旦冬至をも否定しているようにも見えます。しかし、麟徳暦でも朔旦冬至は起こるわけですから、当時この暦法下で朔旦冬至が否定されていたわけではありません。むしろ、より瑞祥吉日とされていたと観るべきかもしれません。
 なお、章法というのは、任意の冬至から19番目の冬至までの時間が平均朔望月235ヶ月分とほぼ等しいという観測結果によって生まれた暦法です。また、この暦法は、235ヶ月が19年と7つの閏月とよりなることから、19年7潤法とも呼ばれています。また、この暦法では、19年毎にめぐって来る冬至を11月の朔に置き、これを朔旦冬至と呼んでいるのです。そして、この朔旦冬至を起点として暦を組んでいくのが章法(19年7潤法)です。他方、麟徳暦は1日を1340分と決め、1年を489428分、平均朔望月を39571分として暦を組んでいくもので、19年という枠組みを持ちません。しかし、この両暦の朔の誤差は19年で4分ほどと言われています。したがって、当時は朔旦冬至が暦から外れることは未だ無かったと思われます。
 さて、そういう訳で、則天武后にとってこの永昌元年(689)11月を逃せば次の朔旦冬至は19年後の708年となってしまいます。悪運が強いと言うか、彼女には永昌元年11月が瑞祥吉日と見えたのかも知れません。実際、則天武后は705年に退位を促された後まもなくして死亡したと言われていますから、この689年が彼女にとって唯一の朔旦冬至の年だったということになります。

 古代、あるいは現代もそうかもしれませんが、人は何かをする場合吉日を占ってもらいます。しかし、占わなくとも瑞祥吉日が目前にあるのだとしたら…。思うに、持統と則天武后の即位はこの朔旦冬至を受けてのものだったのではないだろうか。古来より瑞祥を受けての改元がありました。そして今回は、瑞祥を受けての即位ということなのでしょう。
 思うに、持統と則天武后の即位の年は章法でいう章首の年に当たり、朔旦冬至より前を旧年とすれば、正に19年を経て巡って来る新年と呼べる年なのです。加えて19年は一世代にも近く、人の世の新旧を告げる節目とも受け取れます。正に、朔旦冬至とはそういうものなのかもしれません。

 持統と則天武后、思うにこの二人にはいろいろと共通点があるようですが、これについては別の章で取り上げるとして、本題の大嘗祭に戻りますと。持統5年(691)の11月1日は朔旦冬至ではないことになります。ただ、持統4年施行の儀鳳暦は定朔を目的とする暦法ですので、単に11月1日が朔であったというだけの事なのかもしれません。というのも、斉明5年(659)に遣唐使が唐の朝廷で観たという11月1日の冬至会、あるいはこれもそうであったかも知れないからです。そもそも、斉明5年は朔旦冬至の年とはなりません。ただし、仮に遣唐使が招かれた冬至会が真に朔旦冬至であったとしたなら、この記事はこの年の前後の朔旦冬至の年、670年か、あるいは651年に設定し直すべきかもしれません。しかし、これに就いては別の機会に取り上げましょう。
 なお、定朔というのは、その月の1日と朔とを一致させるという暦法です。これは、月の朔望の周期には29.27日から29.83日ほどの幅があるため、大の月と小の月とをやり繰りして調整するというものです。ただ、調整の幅は一日単位でしかできませんので正確とは言えないかも知れませんが、その分逆に余裕があるとは言えるのかも知れません。
 ところで、11月1日は11月朔ともできます。こうした書き換えがいつ頃より行われているのかを私は知りませんが、ただ平朔法である元嘉暦使用時には必ずしも適切なことだとは言えません。というのも、元嘉暦では1日に朔が来る確率は非常に少ないからです。したがって、元嘉暦使用時に1日を朔と呼ぶことは無かったと考えるべきです。
 思うに、1日を朔と呼んで良い時期は、儀鳳暦が伝わってからではないかと。正確には儀鳳暦法というべきかもしれません。というのは、儀鳳暦は野中寺弥勒菩薩像台座の銘文の書かれた時期には伝わっていた可能性もあるからです。つまり、儀鳳暦が定朔法によるものであることを理解していなければそうした読み換えはできないということです。

 儀鳳暦法が伝わったのは、その名の通り儀鳳年間(676~679)のことと言えます。これは天武朝の5年から8年にかけての時期に当たります。期せずと言うか、願ったり適ったりと言うか、天武5年と6年に告朔という名称の儀礼のあったことが載せられています。

§36 大嘗祭の最初は持統天皇か。

 飛鳥から木簡が出土し、大化の改新の詔の信憑性が疑われ出してから久しくなります。しかし、大化の改新そのものを疑う人は未だ居ないようです。まして、壬申の乱を疑う人はさらに居ないでしょう。しかし、改新の詔を疑う以上、大化の改新そのものをも疑うというのが順序ではないだろうか。それとも、評を郡へと単に制度の名前を変えたに過ぎないと言うのでああろうか。しかし、それなら中の大兄も鎌足もそして軽も単に名前を変えているに過ぎないと言って良いのだろうか。
 『日本書紀』は疑い出せば限がない書物です。しかし、それが『日本書紀』に課せられた古代からのメッセージと観れば、これもまた楽しいものです。

天武紀を疑う

 誰もが指摘するように『古事記』と『日本書紀』とは、それぞれ違った観点で整えられている書き物です。しかし、その掲げているところのものは一致しています。それは、天武天皇を称えるということです。『日本書紀』が天武に2巻を裂いているのはその現れです。また、『古事記』に序文があるのもそのためです。
 しかし、古代も現代も天武を過大評価し過ぎているのではないだろうか。それは、古代の主張である天武は旧政治体制を崩壊させて天位に就いた偉大な天皇とする天武紀に現代が追従し、皇親政治といった言葉を生み出している処におおむね現れています。しかし、考えてみれば、天武は1巻を費やすほどの壬申の乱後、半年そこそこで天位に就いています。しかも、天武紀に載る乱後の処理は本の数行で終える程度のもの。天下をめぐる争いの幕引きとしては余りに呆気ないと言うほかありません。また、天武がこの時どのような政治体制を敷いていたかは皆目見当もつきませんが、大乱の直後でありながら政治的混乱はまったくなかったということのようです。
 ただ、そうなると。穿った見方をすれば、本当に天武紀上に載るような壬申の乱はあったのだろうかと。それはともかく、天武紀上(壬申紀)に則って天武紀下のこれまでに述べたことを省みた場合、仮に天武がそれらの創始者だとしても、記事に載らない政治体制、いわゆる皇親政治の下で、後世の律令体制にも耐え得るほどのそれらの制度化が進められたかどうか、すこぶる疑問と言う他はありません。
 さて、天武は同じような政治体制の下でそれら以外にも、例えば僧尼や寺の統制をはかる詔を発しています。ただ、これらは天武が律令の編纂を命じる前後に載る記事で、おそらくこの時期の前後に天武自身が令制の必要を痛感したのだと思います。また、これと同じ時期に「古事記序」に載る帝紀旧辞の撰録と校訂とを命じています。しかし、これは「古事記序」にあるように完成していません。おそらく、これ以外の諸事についてもそうだったものと思われます。そして、その原因は人員不足によるものであったことがその年の記事から想像できます。天武は10年2月の詔の中で次のように述べています。然れども、にわかにこれをなさば、公事かくことあらむ、人を分けて行うようにと。
 とにもかくにも、天武の時代、事はなりませんでした。これが成ったのは持統3年の6月のことです。しかし、この時点に於いても未だ令のみで律令とまでは至っていません。しかし、翌年の4年7月には、太政大臣、右大臣、八省百寮も選任され政治体制は整ったといえます。そして何より重要なことは、この年の11月中から暦の使用、正確には自国で作られた暦が使われだしたということです。つまり、これにより天皇が暦つまり正朔を定めたとされる事になるわけです。そして、これが告朔につながり、12月さらには翌年の5年からの告朔の儀が可能となるのです。
 無論、天武の時代にも暦はあります。しかし、それは日本自身の手によったものではなかったと思われます。ただ、元嘉暦に関してはあるいは日本で作られた可能性もないわけではないのですが、ただ平朔法である元嘉暦は何十年分もの作り置きが可能であるため、あるいは半島で作らせておいた可能性もあります。しかし、いずれにしても最新の儀鳳暦は天武の時代には未だ作れなかったということです。これは天皇たる天武にとって、というよりも「記紀」編纂者にとって非常に歯がゆい事ことだったと思われます。
 そもそも、暦造りは天子にとっては非常に重要なことなのです。それは、正朔という言葉に現れています。正朔、これは1月1日を決めた暦のことですが、延いてはこれを制定した天子の統治を意味する言葉にもなります。これを当時の東アジアに当てはめると、中国の正朔を奉じていた朝鮮半島はいわゆる中国の統治下(冊封)にあったということになります。一方、日本は中国の冊封下にはありませんでしたが、半島から取り寄せた暦を使用することで真の独立国ではなかったということになります。つまり、天武の時代、真の天皇としての威信を保つことは難しかったと思われます。おそらく、このことが大嘗祭や告朔の儀式を生んだのではないかと。
 以上を考慮して、再度天武紀に目を遣りますと。天武4年に始まる龍田と広瀬の祀り、そして天武の5年と6年とに現れる告朔と新嘗祭、思うに、これらの記事は本来持統紀の記事であったとした方がより自然なのではないかと。これは天武を称えすぎた結果、本来持統が最初であったものを天武紀に遡らせたのではないかと。無論、これは一私論です。しかし、持統よりも早いとされる天武の大嘗祭、実は、ここからもそうしたことの言える箇所が見出せるのです。

収穫祭と冬至

 既に述べていますが、大嘗祭というのは、新嘗祭天皇版のことです。そして、この大嘗祭が即位版となったために再び新嘗祭と呼ばれるようになった。つまり、『日本書紀』が天武紀の中で大嘗祭新嘗祭の二つを用いているのは、当時の最新の情報に頼ったと見るべきなのです。しかし、それは後にして、前章で残した課題、表2と、新嘗祭大嘗祭が11月の卯の日となったことについて少し説明及び考察を加えてみましょう。
 天武紀には、大嘗祭の行われた日の明確な記載はありません。ただ、12月5日に大嘗祭に奉仕した人達への賜物の記事があることから、おそらく11月28日がそうではなかったかと思われます。また、新嘗祭のそれは、5年には11月1日に、6年には11月23日になっています。一方、持統の大嘗祭は5年の11月1日ですから、これだけを較べた場合、天武5年の新嘗祭はこれに倣ったものと言えます? 取り敢えずそうしておきましょう。
 下は、持統朝前後の新嘗祭大嘗祭の日付と干支を表に示したものです。なお、天武の場合は、11月16日丁卯としても良いのですが、11月28日己卯としたのは先ほど述べた12月5日の記事からそうしました。しかし、実際はどちらでも構いません。要は、11月の1日でなければ好いのです。また、清寧の場合は大嘗祭の準備が11月の記事にあることから、その日が11月1日よりも後であることを示したものです。これも、11月の1日でさえなければ構わないのです。

表1
  清寧 用明 舒明 皇極 天武 持統 文武 元明 元正 聖武
大嘗 11/1
他日
      11/28
11/1
戊辰
11/23
11/21
11/19
11/23
新嘗   4/2
丙午
1/1
11/16
11/1
乙丑
         
        11/21
         

 後世、大嘗祭もそうですが、新嘗祭は11月の中旬以降の卯の日に行うというのが慣例となっています。したがって、そういった観点からこの表を見た場合、11月1日戊辰の日の持統の大嘗祭は異質な感じがしなくもありません。しかし、仮に大嘗祭の最初が持統だとしたなら、後世の慣例に近い持統以前のそれらの方が、却って不自然に感じられることになります。なお、これ以降は新嘗祭大嘗祭と呼んで話を進めて行くことにします。
 ところで、大嘗祭をなぜ11月の卯の日としたのだろうか。ある程度の推測は可能です。ただ、正解か如何か、いずれ話すことになります。しかし、それよりも持統の11月1日の場合はかなり納得のいく説明が可能となります。それは、朔旦冬至(さくたんとうじ)を祝う祭りに起因するというものです。
 朔旦冬至というのは19年毎に、11月1日(朔)が冬至と重なることを言います。古来中国ではこの日を吉日として朝廷で祝いをするのが慣わしとなっています。日本でのこの慣わしは聖武朝に始まるとされていますが、日本がこの中国の慣わしを知ったのは聖武朝よりもずっと以前のことです。しかも、斉明紀には、その5年に伊吉博徳(いきのはかとこ)の書から引いた、日本の使者が中国の朝廷でこの祝いそのものを、ただしここには冬至会とあるのみで19年毎の朔旦冬至かは不明ですが、それを直接目にしたとする記事を載せてもいます。思うに、大嘗祭とは和風の朔旦冬至の祝いではなかったかと。そして、それを最初に行ったのが持統ではないかと。

 しかし、あるいはこう言うかもしれません。もし、仮に大嘗祭が持統の代に始まるのなら、なぜ後世の慣例は持統の11月1日のそれとは違うのかと。しかし、それに対してはこう言い返すことが出来ます。もし、仮に後世の慣例が皇極の代に始まるとするなら、天武の5年や持統の場合はなぜこれに合わせてはいないのかと。また、後世の慣例に適合する皇極の場合、何を以ってこの日を決めたのかと。しかし、これには次のように言い返されることになるのかも知れません。すなわち、皇極から文武までの間、大嘗祭を11月の何日とするかは模索の段階であったと。しかし、これに対しては、それを言うのであれば、皇極からではなく清寧あるいは用明からとするべきではないかと。そう反論もできます。ただ、こう進んでしまいますと何日ということだけでなく11月についても検討しなくてはならなくなります。
 思うに、そもそも秋の収穫の祭りがなぜ真冬のしかも冬至の近辺になったのだろうか。やはり、このことから始めなくてはならないようです。これに就いては先ほど述べたようにある程度の推測は可能です。これも冬至との関わりからの推測ですが、その前に、大嘗祭新暦のいつ頃に当たるかを冬至を交えてちょっと覗いてみましょう。

 先ず、冬至ということから始めますと。冬至は北半球では太陽の南中高度の最も低い時 点を指す言葉です。ただし、冬至新暦では12月の22日前後とほぼ一定していますが、旧暦では11月中と幅がかなり広くなっています。したがって、たとえば冬至新暦からは最も遠い旧暦の11月の1日だとすると、11月中旬以降と決められている大嘗祭新暦の正月以降に10日近くも食い込むことになります。
 なお、表1の用明と舒明の新嘗が左図よりそれぞれ旧暦の立春立夏に当たることが分かると思いますが、あるいは新嘗は本来収穫とは関係がなかったのやも知れません。
 しかし、それは別として、新暦に慣れた現代からすれば、秋の収穫祭が年明けになるというのは奇妙な気がいたしますが、当時は季節暦ですから新暦の正月はまだまだ真冬に当たります。そして、その真冬が来たことを教えてくれるのが冬至なのです。そして、面白いことに、それと同時に春が来ることをも冬至は教えているのです。何せ、冬至を過ぎれば日は再び高くなって行くのですから。正に、冬来たりなば春遠からじということでしょう。それとも、「一陽来復」と言った方が良いでしょうか。何せ、これは冬至を祝っての言葉ですから。

 さて、一陽の陽は陰陽の陽のことです。つまり冬至は、陰陽八卦に言う、陰極まりて、始めて一陽を生ず、とされる位置にあることを示しています。そして、この象(かたち)は八卦の震と呼ばれているものと同じなのです。これを八卦の図象で説明しますと、震(☳)は陰の極まった象の坤(☷)が始めて一陽を得た象で、四季では春を、四方では東を、そして十二支では卯を指します。また、震の図象☳を陰陽で捉えると、陰が陽を覆っているとできます。これを、草木が茂って影に覆われていると読み解けば十二支の卯の性状と一致します。また、易64卦の中の一つ、益の名称を持つ卦の図象で下卦あるいは内卦と呼ばれる位置にあるのもこの震(☳)です。
 このように見てまいりますと、収穫祭を冬至を含む11月の卯の日に行うのは、種としての収穫物に命を芽生えさせ、再生と豊穣とを願っての神への祈りとすることができそうです。なお、もう少し補いますと。冬至あるいは11月は、十二支では子、八卦では坎となります。さて、この十二支の子は、新しい生命が種子の中に萌(きざ)し始める状態を表しているとされています。そこで八卦の坎に目を遣りますと、この図象は陰の中に陽がある形をしています。この形☵は陰の中に確りしたものがある状態、つまり種子の中に命が芽生えた状態と読み解けば、先ほどの子の性状と一致します。坎(☵)は八卦では二番目に陽を得た象とされていて、これも来復つまり再生を意味しています。

 思うに、大嘗祭天皇とのかかわりから複雑に解釈する向きもありますが、それよりも天皇が古来からの収穫祭をある時期に制度化をしたものに過ぎないと考えたほうが良いのではないだろうか。そうすれば、五穀にとって死(玄冬)と同時に再生(青春)を約束する冬至を含むに11月のしかも卯の日にこの祭りをおくことが、八卦や易、延いては益に適うことに繋がるのです。つまり、大嘗祭冬至とのかかわりの中で生まれたとすることが可能となります。そして、その冬至を称える祭りが朔旦冬至にあるのですから、最初の大嘗祭は11月1日(朔旦冬至?)に行った持統ということになります。

§35 天武紀の道標、大嘗祭。

 『日本書紀』を読んで思うことですが、『日本書紀』は支配する側の論理によって書かれていると。
 しかし、こうも思います。すなわち、これを書いたのは支配される側の人達であると。したがって、ここには支配される側の論理もあると。
 思いますに、『日本書紀』をどう読むのか。あるいは、どう読み解くのか。いずれにしても、どちら側の論理によるかで結果は違ってくるはずです。そして、その違いの中にこそ『日本書紀』に記された安万呂の道標があるのだとも言えます。

天武の大嘗祭は持統よりも後世の慣例に近い

 さて、飛鳥浄御原令施行というよりも、持統3年8月2日に百官が神祇官に集り天神地祇について話し合った結果、何がどう変わったかということですが、前章では大嘗祭と龍田と広瀬の祀り、そして新嘗祭と大神への幣帛奉納を既に挙げていますので、先ずこれらを引き続き観てまいりましょう。

 解説書等では、大嘗祭践祚大嘗祭とも呼ばれ基本的には一代一度きりのもので、天皇にとっては格別に大事な祭事とされています。また、その概要は、天皇即位の後の新穀を天照を初めとする天神地祇に奉り、同じく天皇自身もこれを食するという祭事で、この祭事だけを大祀と呼ぶともされています。
 おそらく、この祭事あるいは神事の意味するところは、神と共に食事することに拠り天皇自身も神(真の天皇)になるということだと思います。つまり、少々下賎な例えにはなりますが、「同じ釜の飯を食った仲(間)」ということでしょうか。また、「記神話」にはそれとは逆の環境での「黄泉戸喫(よもつへぐい)」という言葉があります。これは、黄泉(よみ)の国の竈で煮炊きしたものを食すると黄泉の国の者つまり正真正銘の死者となって、二度とこの世には戻れなくなるというのが神話的な解釈です。しかし、素人目には、下賎な例えの方がどちらに於いてもよりよい意を得ているのではないかと。
 それはさて置き、大嘗祭天皇にとって非常に大事なものだということなのですが、実は持統紀さらには天武紀を読むと必ずしもそうとは言えないのです。そしてなに拠りも不可解なのは、天武の儀式次第は持統よりもなぜか後世のしきたりにより近いのです。

 そこで先ず天武ですが、天武はその2年(673)の2月27日に即位をし、その年の11月1日から12月4日までの間に大嘗祭を執り行ったことが、12月5日の大嘗祭に奉仕した人たちへの賜物の記事から伺えます。しかし、それにしても、あるいは素人目かもしれませんが、一世一代の大嘗祭にしてはその日付も記さないというのは、天武紀としては余りにも雑な記事と言うほかはありません。また、あるいはこれも素人目かもしれませんが、天武の大嘗祭は後世の7月以前の即位の場合は年内に行うとする規定に合っていると言うよりも合わせているようにも見えます。無論、これはあるいは偶然かもしれません。しかし、実はこれ以外にもその規定に合わせたと思えるものがあるのです。それは、大嘗祭は11月の卯のつく日に行うというものです。なお、これについては後ほど述べることになります。
 次いで持統です。持統はその4年(690)の1月1日に即位しています。しかし、この年には大嘗祭を行ってはいません。持統が大嘗祭を行ったのは翌5年の11月1日(戊辰)です。つまり、後世の慣例さらには天武の前例とは違っているのです。そして、このことは、飛鳥浄御原令には、大嘗祭は7月以前の即位の場合は年内に行うという後世の決まりは未だなかったことを教えています。ただし、この時、神祇伯の中臣大嶋が天神の壽詞(よこと)を読んでいることから、大嘗祭についての式次第は既に決まっていたものと思われます。しかし、それなら、なぜ天武の前例を考慮しなかったのだろうか。それに、中臣大嶋が天神だけに対して壽詞を読んでいることも気になります。

 ところで、即位の時期と大嘗祭との関係、つまり同一年内に大嘗祭が行える即位時期の下限はいつまでかということなのですが。後世の慣例では、7月以前の即位は年内に、8月以降の即位は翌年に行うとなっています。ただし、これは平安時代からのものです。なお、奈良時代以前ですと、元明が7月17日に即位をし、翌年の11月21日(己卯)に大嘗祭を行っていますから、あるいは当初の慣例というよりも大宝律令では7月の前後で行うか否かを分けていたのかも知れません。ただ、いずれにしてもに飛鳥浄御原令にはないもののようです。そして、実はないものがもう一つあるのです。それは、先ほども述べた11月の卯のつく日という規定です。しかし、この規定は文武天皇の即位までには整えられたと見えます。しかし、この規定は天武紀等を評価する上での道標となりますので、後ほど取り上げることとして、ここでは大嘗祭の原点にあたる新嘗祭を先ず観ておきましょう。

新嘗祭の始めは、天照、卑弥呼それとも持統か。

 新嘗の祭りの記事は神代紀上の天照の祭事に既に見えています。思うに、この神代紀が書かれたのは、新嘗祭が朝廷の祭事として確立されていた時期と見てまず間違いはないでしょう。そして、これを最初に始めたのが天照であるというのが当時の人たちの見解だったと見て取れます。なお、天照については卑弥呼と壹與がモデルであるというのが私の見解なのですが、これは別として、天照が神と見做されるようになったのは、当時からそれほど遠くはない時期、おそらく天皇を神として称え始めた時期と重なることだけは確かと思われます。
 ただ、私にしろ当時の人たちにせよ、卑弥呼が、天照がどのような祭事を行っていたかは知るべくもありません。しかし、前章でも述べたように、過去の理よりも現在の理が優先されます。新しい神話を創りあげる場合、現在の観念やしきたりが適用されます。新嘗祭を始めたのが天照即ち女神とする当時の見解の基となるのは、やはりこれを始めたのが女帝だったからではないだろうか。

 新嘗祭の始まりは、通説では用明天皇の代に始まったとも言われています。この説は、伊勢斎宮が用明の代に始まったとする説も加わるだけに一考の価値のあるものと言えそうです。
 また、他には皇極天皇の時代に始まったとする説も有ります。この説は女帝であるだけに有力ではありますが、ただ彼女の場合は、皇極の時も後の斉明の時もその即位の儀式には神話的要素が揃っていません。実は、天武の即位においてさえ揃ってはいないのです。それらが揃うのは持統の即位の時だけです。おそらく、持統の即位の儀式が神話に反映されたものと見えます。
 持統紀によればこの儀式は、物部の朝臣が大盾をたて、中臣の朝臣が天つ神の壽詞を読み、それが終わると忌部の宿禰が神璽の劒鏡を奉上したとあります。おそらくは、この儀式をもとに記紀神話天孫降臨の場面が描かれたものと思います。この場面には、物部の朝臣以外はすべて揃っているのです。
 つまり、新嘗祭を始めたのは、高天原廣野姫(たかまのはらひろのひめ)つまり持統天皇のなのです。無論、私論ですが。

 それはさて置き、新嘗祭は、新穀を神に供える祭りで、古くから民間にもあったいわゆる収穫祭です。そして、これを天皇が行うようになってからは大嘗祭と呼ばれるようになり、さらにこれを天皇の世毎(代の初め毎)にも用いるようになったため、これと区別するために再び新嘗祭と呼ばれるようになったと、普通言われています。したがって、どちらも新穀を神に供える祭りであるということに変わりはありません。また、これらの祭りで神に供える新穀は、占いによって斎忌(ゆき)と次(すき)に選ばれた国が奉げるという決まりも同じです。なお、新嘗祭は天武紀では天武の5年と6年とにだけ現れて、それ以降は持統紀にも現れていません。

表1
  大嘗祭 新嘗祭 新嘗祭
天武 2年11月?日 播磨・丹波 5年11月1日 尾張丹波 6年11月21日 ?・?
持統 5年11月1日 播磨・因幡

 上の表は、天武と持統の大嘗祭新嘗祭の斎忌と次の国を示したものです。なお、?は記載の無いもの、✕は記事そのものが無いものです。
 さて、この表からどのようなことが推理できるでしょうか。私は、次のように推理をしました。その結果が表2です。どのように推理したかと申しますと、足りないところに余っているものを加え、且つ2で割ったということです。つまり、?の箇所に持統紀のそれぞれを代入し、さらに天武にも持統を代入したということです。

表2
  新嘗祭 大嘗祭 新嘗祭
持統 4年11月1日 播磨・丹波 5年11月1日 尾張丹波 6年11月1日 播磨・因幡

 なお、表2は、大嘗祭の初めは持統という前提でのものです。なお、この前提に関しては次章で取り上げることになります。したがって、表2の説明はここでは省きます。

天武紀の隙間を覗く

 天武と持統の時代、大嘗祭新嘗祭がどの程度の評価を得ていたのか、それは分かりません。しかし、仮にどの程度のものだとしても大嘗祭の日付けを抜かしたり、褒章に与る斎忌と次の国を書き落とすなど史書としてはおおよそあり得ないことです。そう考えた場合、天武紀の不自然さや杜撰さが一際目立ったとしても不思議はありません。つまり、天武紀にはこれらの記事は最初から無かったのだと、そしてその代わりとして持統紀の4年と5年と6年の記事を利用したのだと。
 普通、天武紀は『日本書紀』のなかでは、非常に信憑性が高いとよく言われています。しかし、よく見ると必ずしもそうとはいえない記事が多々目につきます。大嘗祭新嘗祭もそうですが、いわゆる中途半端な記事があります。そして、それらは何故か持統紀以降にまわした方が良いようにも見えるのです。例えば、龍田と広瀬の祀り、これもそうした方がより良いように見えます。

 龍田と広瀬の祀りは、『日本書紀』を読む限り天武が最初です。天武はこの祀りを即位2年後の4年(675)4月に突如行っています。しかし、この年は一度だけで終えています。これを持統と比べると、持統は即位をした4年の年内に龍田と広瀬の祀りを4月と7月の二度にわたって行い、以後これを毎年のように行っています。おそらくこれに関しては、持統の4年に施行した飛鳥浄御原令あるいはその一ヶ月ほど後に行われた神祇官での談合での取り決め、つまり龍田と広瀬の祀りは4月と7月の二度にわたって行うという規定によるものとした方がより理にかなうように見えます。
 しかし、天武に言訳が立たないと言うのではありません。天武の場合は明らかにそれらの魁ということでもあります。したがって、最初はその程度のもの。また、記事にしても中途半端で終えたとしてもしかたがないのではないかと、あるいはそう言えるのかもしれないのです。
 実際、天武紀から受ける印象では、天武8年以降からこの祀りは定着しているようにも見えます。ただし、不可解な点があります。それは、この祀りを執り行うか否かはすべて天皇の裁量に委ねられているようにも見えるからです。たとえば、7年には神々への祭りはすべて取り止めとなっています。また、定着していたと思われていたこの祀りは、天武の死後から持統即位までの間一度も執り行われていません。そしてもう一つ、何故に天武はこの祀りを4年になってから突然に始めたのだろうか。思うに、天武紀の執筆者が、持統がこの祭りを始めた4年に合わせたのではないだろうか。… 我田に引水に見えるかもしれませんが、先を続けます。

 ところで、天武紀には後世のしきたりとなる行事の名前の初出があります。しかし、なぜか一度か二度の執り行いの記事を載せた後、天武紀だけでなくその後の持統紀にも名前を見せなくなっています。新嘗祭然り、相新嘗祭然りです。そして、これから述べることになる告朔(こうさく)があります。なお、相新嘗祭というのは新嘗祭に先立って行われる新穀祭とされている祭事です。したがって、記事としては新嘗祭の前に載ることになります。実際、これは5年の新嘗祭の記事の前に載ってはいます。しかし、6年の新嘗祭の前には載っておらず、5年に載るだけで他にはありません。
 さて、告朔ですが、これも新嘗祭と同じで5年と6年とだけの記事となっています。なお、これは前章では指摘していなかったものです。というのも、これは告朔が無かったという記事でもありますし、また普通にはその月の朔(1日)の記事が無ければ現れないというものでもあります。そしてなにより、告朔が定例化していたと思える時期の史書『続日本紀』にも、その月の朔に行われたという記事は見当たらないのです。それは新嘗祭に関しても同じで、『続日本紀』にはこの記事も数えるほどしかありません。それに、考えてみれば、新嘗や告朔は毎年のあるいは毎月の祭りや儀礼です。決まりきったことは敢えて載せる必要はないのかも知れません。と思いもしたのですが、しかし、それならなぜ天武の5年と6年とだけに載せたのだろうか。
 思うに、仮に天武がそれらを最初に制度化したのだとしても、新嘗の慣例は大嘗に先だつのですから大嘗のしかも4年後に改めて載せる必要はないはずです。また、告朔にしても始めた年の最初の月に行ったということを先ず最初に記載するのが道理であるのに、唐突に行わなかったという記事から載せるのは理に合いません。それにしても、この5年と6年とだけの記載の後に消えるという両者の一致、偶然とは思われません。また、先ほど述べた龍田と広瀬の祀りですが、これも持統と天武共にその4年より始めているのです。
 これらは偶然なのだろうか、それとも先ほど述べたように天武紀執筆者の故意によるものなのだろうか。
 それとも、あるいは創始者である天武に花を持たせたに過ぎないのだろうか。