昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§29 竈の煙と天命。

 ねたみそねみは人の世の常ですが、「記紀」はこれを臆面もなく取り上げて、うわなりやこなみや、挙句のはてには天皇までも揶揄し、あるいは誹謗したりもしています。聖帝仁徳もこれに関しては形無しのようです。
 仁徳天皇について、太安万侶は序文に

烟を望みて黎元を撫でたまいき。今に聖帝と傳ふ。

と記しています。
 仁徳と黎元(民)の竈の煙の話は、子供の頃よく聞かされたものですが、仁徳と嫁さんの話は「記紀」を読むまでは知りませんでした。思えば、古代の天皇の中で最初に知ったのが仁徳でした。また、「記紀」を読むまでは、仁徳が一番の長寿だという風に記憶してもいたようです。なお、「記紀」を読むといっても訓読本ですから、本当の意味で読んでいるかは今もって分かりません。ただ、『古事記』を読む限りにおいては、それで善いのだと思います。しかし、『日本書紀』の場合、これは一応歴史書ということですから、『古事記』と同じ次元で扱うことはできないのかもしれません。

仁徳短命説

 思うに、仁徳が長寿であったという記憶は、仁徳の治世が長かったということに起因するのだと思いますが、仁徳の治世がなぜ長かったのか、これについてはそれほど深く考えたことはないように思います。これは、おそらく聖帝ならばそのくらいは当然、いやそうでなければならないと当時の国定教科書の解答を持たされていたせいだと思います。
 ところで、『日本書紀』では仁徳の治世を87年と掲げていますが、『古事記』では仁徳の寿命をその治世よりも短い83歳としています。これは何故なのか。無論、こうしたことにも興味を抱くのは素人だからこそですが、普通には『古事記』と『日本書紀』を同次元で扱ったりはしないとは思います。しかし、『日本書紀』が『古事記』をベースに成り立っているとする立場に立てば、やはり無視のできないものだと言うほかはないのです。
 素人から見た場合、仁徳紀と仁徳記との一番の相違は、天皇と皇后磐之媛との夫婦仲の描き方にあります。仁徳記では仁徳の浮気を皇后が許していますが、仁徳紀では許していません。仁徳記をベースにしているはずの仁徳紀がこれを否定しているのです。思うに、これは仁徳記の方が間違っているのではないかと。そして、同時に我々が仁徳記を読み間違えているのではないかと。これも素人の勘ぐりではありますが。

ここに大山津見の神、石長比売を返したまへるに因りて、いたく恥ぢて、白し送りて言さく、「我が女二人並べたてまつれり由は、石長比売を使わしては、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如く、常盤に堅盤に動きなくましまさむ。また木の花の佐久夜比売を使わしては、木の花の栄ゆるがごと栄えまさむと、誓ひて貢進りき。ここに石長此売を返さしめて、木の花の佐久夜比売をひとり留めたまひつれば、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみましまさむとす」とまをしき。かれここを以て今に至るまで、天皇たちの御命長くまさざるなり。
《角川文庫『新訂古事記』》

 以上は記神話が、天皇の寿命が長くならなかった原因のいわれを述べている件の一節ですが、実は『古事記』での仁徳の寿命は決して長いとはいえないのです。

神武 孝昭 孝安 孝霊 崇神 垂仁 景行 神功 応神 成務 雄略 仁徳
137 93 123 106 168 153 137 100 130 95 124 83

 上は、『古事記』に載る天皇の寿命を表にしたものです。これからも分かるように、仁徳は必ずしも長寿とは言えないのです。このことは同時に仁徳記でも仁徳は皇后と仲直りをしていなかったことを示しています。それもそのはず、仁徳天皇の皇后の名前は仁徳記では "石の比売"、つまり神話の "石長比売"のことだからです。思うに、孝徳天皇と間人皇后が夫婦別れをしたように、難波天皇というのは当時の人からすれば正しく夫婦別れをする天皇の代名詞みたいなものだったのです。なにせ、難波天皇と木の花の佐久夜比売との仲は歌にも残っているほどなのですから。

 難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
(なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな)

 この歌は「記紀」には載っていないのですが、後世とはいっても平安時代頃だと思いますが、当時の伝説では王仁仁徳天皇に奉ったとされています。後世、こうした伝説が生まれるのは、やはり難波天皇の夫婦別れの原因を木の花の佐久夜比売とする伝承に因るものでしょうか。そして、このことは同時に仁徳の寿命が短かったことをも暗示しているのです。

雄略と竈の煙

 石長比売と佐久夜比売との神話に従えば、仁徳の寿命は短かったと言うほかはありません。しかし、仁徳の治世の長さは、孝安の102年、垂仁の99年に次いで3番目と決して短くはないのです。一見矛盾しているように思いますが、何らかの理由はあるはずですが…
 ところで、『古事記』での雄略天皇の寿命、意外とも言えるほどに長いとは思いませんか。そもそも『古事記』は、引田部の赤猪子(女性の名)の話を載せているように、雄略を長寿の天皇として捉えているのです。しかも、面白いことには、この長寿の答えが『古事記』にではなくて『日本書紀』にあるのです。なお、引田部名の赤猪子の話というのは、普通に歳をとり老いてしまった赤猪子が若い頃に雄略と交わした約束の履行を雄略に迫るというものなのですが、この時の雄略が全く歳をとっていないという、ある種の浦島伝説にも似た内容となっています。ただ、この状態での両者の対面を描いていますので、雄略記特有の滑稽談となってもいます。
 さてその長寿の答えですが、雄略紀の最後の段に載る天皇の遺詔の中にあります。

方今區宇一家 烟火萬里 百姓艾安 四夷賓服 此又天意欲寧區夏
《今、天下は一つにして、竈の煙は万里に上り、万民は治まり安く、四夷もよく従ってい る。これは、天意が国を安らかにしようとしているのである》

 ここには、仁徳紀と同じ "竈の煙" が載っています。加えて "天意" という言葉もあります。これは竈の煙が天に上って、国が善く治まりますようにと天意を催させたということです。そして、その結果雄略の寿命が長くなったということなのです。実は、こうしたことをする神に竈神がいます。ただし、今日に残っている竈神のことではありません。道教の研究書を残した葛洪(かつ こう:283~343)の『抱朴子』に次のようなことが載っています。

天地に過を司るの神あり。人の犯す所の軽重に随って、以ってその算を奪ふ。算減ずれば則ち人は貧耗疾病し、屢しば憂患に逢う。算尽くれば則ち人死す。諸もろの応に算を奪うもの、数百事有り、具には論ずべからず。また言ふ、身中に三尸有り。三尸の物為る、形無しと雖も、実は魂霊鬼神の属なり。人をして早く死せしめんと欲す。この尸はまさに鬼と作ることを得、自づら放縦遊行して、人の祭酹を享くべし。是を以って庚申の日に到る毎に、輒ち天に上りて司命に白し、人のなす所の過失を道ふ。また月晦の夜には、竈の神も亦天に上りて人の罪状を白す。
《中国古典新書『抱朴子』明徳出版》

 以上の多くは今日の庚申信仰の基となるようなことが書かれていますが、要は人の寿命はその人が犯した罪過によって決まるという発想です。そして、その罪過を天上の司命に告げるのが三尸(さんし)や竈神の役目とされているのです。これは、道教におけるガマの油売りの前口上のようなもので、道教ではガマの油の代わりに丹(仙薬)を売ることになります。要するに、丹を買って飲めば体から三尸が居なくなって長寿が保てるという道教製薬の宣伝広告の一種なのです。したがって、三尸とか司命とかは道教の誂えであって、これらから寿命を連想したとしても寄生虫程度のものしか思い浮かばないはずです。
 しかし、竈神、と言うよりも竈の煙からはいろいろの連想が浮かびます。先ず食事が浮かびます。食は命の糧ですから当然寿命とかかわります。また、古代では善政ともかかわります。善政は平和につながり、人は争いで命を失うことなく天寿を全うできます。思うに、竈の煙は為政者の善政を喜ぶ民の声とも聞こえます。その民の声の結果、竈の煙の多い為政者の寿命は長くなり、竈の煙の少ない為政者の寿命は短くなるということです。しかし、それならば雄略は善政を敷いたというのだろうか。

竈の煙と革命

 雄略に関しては「記・紀」共に聖帝と呼べるような記事は一切載せていません。それどころか、その正反対とも呼べるような記事が多々見受けられます。しかし、それにもかかわらず『万葉集』や『日本霊異記』は雄略をその巻頭に据えていますし、『古事記』は雄略のの寿命を124歳の長寿としています。どうやらここにも素人好みの謎があるようです。  さて、天命と言う言葉があります。これには大きく二つの意味があります。先ず天から与えられた寿命、そして天から与えられた使命です。思うに、命は天が人に与えたものです。したがって、天はこれを如何様にも変えることが出来ます。変えることによって人の寿命は短くなり、為政者は倒れます。この天命を左右するのが竈の煙です。竈の神は革命の神でもあるのです。
 顕宗前記、志自牟の新室楽(しじむのにいむろうたげ)の段に次のようにあります。

かれ火焼の少子二口、竈の傍に居たる、その少子どもに舞はしむ。…(略)… ここに遂に兄舞ひ訖りて、次に弟舞はむとする時に、詠したまひつらく、物の部の、…(略)… 伊耶本和気の天皇の御子、市の辺の押歯の王の、奴、末。とのりたまいつ。ここにすなはち小楯の連聞き驚きて、床より堕ち転びて、…(略)… ここにその姨飯豊の王、聞き歓ばして、宮に上らしめたまひき。
《角川文庫『新訂古事記』》

 この段は、普通履中天皇の孫が見つかる契機や清寧天皇以降の王朝の断絶を免れた物語としてしか解釈をされていないようですが、竈神と革命という観点からすれば天皇の孫あるいは現王朝の血筋ということを抜きにしても成り立つ話です。つまり、この段の主旨は竈の神が伝える天命によって顕宗と仁賢が皇位に就いたということなのです。
 なお、顕宗と仁賢の物語を、貴種流離譚や、応神5世の孫という遠縁の継体の即位を無理のないものにするために「記紀」に取り入れられたとする説もあるようですが、そういうことであれば、むしろ貧しい一介の火焚き小僧が天命によって天位に就いたとする方が良いように私には思われます。また、継体即位の下準備として顕宗・仁賢の物語があるのではなく、顕宗・仁賢の真の物語を打ち消すために継体の物語があるとした方が大仙陵古墳の破壊を説明する上で都合がいいようにも思われます。
 思うに、竈の煙が立ち上って天に届く。古代人には竈と天とはつながっているように見えていたのではないだろうか。そうした場合、竈の声は天の声であり、天の声に最も近いのが竈の世話をする火焚き小僧ということになります。あるいは、竈の傍で話す火焚き小僧の言葉もまた天の声ということなのかもしれません。『日本書紀』もこの物語の舞台を竈の傍と記しています。

欽明長寿説

 ところで、『日本書紀』が載せる歴代の天皇の中で、と申しましても可能な限り実在とされる天皇についてですが、その中で最も治世が長く、しかも長寿な天皇は誰なのかということなのですが…
 私が思うには、実在の可能性の薄い推古天皇を除けば、それは欽明天皇ではないかと。ただ、『日本書紀』は欽明は(御)年若干で亡くなったとしています。若干ですから長寿ではないとも受け取れます。また、欽明は年若干で即位したとされていますから、天皇としては最も長い32年の治世があったとしても必ずしも長寿とは言えないのかも知れません。しかし、仮にそうだとしても、欽明が亡くなった時も即位した時も "時年若干" と書き表す『日本書紀』の意図は何処にあるのだろうか。
 ところで、『日本書紀』は欽明即位前紀で夢の中に一人の男が現れて欽明に次のように語ったとしています。

天皇秦大津父者寵愛、壮大及、必天下有。
欽明が秦大津父という人を寵愛すれば、男盛りになった時、必ず天下を知らしめると。

 壮大とは男盛りのことですから、欽明は若干で即位したわけではないことになります。それに、石棺の関係から欽明と宣化は同母の兄弟のはずです。したがって、仮に宣化の治世が短かったとしても、欽明の即位時の年齢はもはや若干とは呼べないほどになっているはずです。『日本書紀』は矛盾しているのだろうか。実は、年齢に関しての矛盾は『古事記』にもあるのです。ただ、『古事記』の場合は多少の齟齬は仕方が無いとは言えますが。
 雄略記に引田部名の赤猪子が年を取るのに雄略が年を取らないという滑稽談のあることを話したと思いますが、実は年を取らない天皇がもう二人ほど居るのです。それは、顕宗と任賢です。雄略の死後、この二人が見つかった時彼らは未だ火焼少子(ひたきのわらは)と呼ばれていたのです。『日本書紀』には引田部の赤猪子も火焼少子も登場しませんが、ただ、顕宗と任賢が丹波小子(たにはのわらは)と名を変えて縮見屯倉首(しじみのみやけ)に仕えたとはあります。ところで、この丹波小子の丹波ですが、かつては但馬と丹後をも含んでいたとされています。
 雄略紀22年に、丹波国与謝郡の水江浦島子が蓬莱山に行ったという話が載っています。これは後世の浦島太郎の物語の基となったとされているもので、かつての丹波国であった但馬や丹後地方にはこうした神仙思想の影響で生まれた不老不死の話が少なからずあったようです。たとえば、垂仁天皇常世の国へ遣わした田道間守(たじまもり)の話もこの一つです。この話は橘の木の伝承譚でもあり、天の日矛の伝説や延いては神功や応神の系譜にも繋がるもので、あるいはここに「記紀」の現代史とも呼べる何かがあるようにも思えます。…以下次回へ。

§28 雄略と宋。

 専門家に解けない謎は素人にも解けない。それが一般的な常識というものなのでしょうが、素人からすれば、専門家に解けない謎は素人でなければ解けない、というのが常識なのです。
 私事で恐縮ですが、私はかつて友人と一人の女性を張り合ったことがあります。その時に思ったことなのですが、彼女が友人になびかなければ自分になびくと。しかし、結果はどちらも振られてしまいました。思うに、素人の常識よりも厳しいのが現実でございました。世の中は必ずしも二者択一で成り立っているわけではないようです。
 しかし、陰陽思想は、陰か陽かの世界を問う思想です、陰で解けなければ陽で解けるという思想です。そういうわけで、常識にもめげず、現実にも屈せず、宮沢賢治のようにと思っている今日この頃でもあります。

 さて、船尽くしの観は否めませんが、船氏は王後墓誌を始め、野中寺の弥勒造像銘、さらには宇治橋碑銘とかかわりがある一族です。今少し連想を進めるのも素人の役目なのかもしれません。

船氏8代

 王後墓誌によれば、王後より船氏の中祖王智仁まで3代を遡ります。1代を20年ほどとすると、3代で60年ほどになります。王後が死亡したのが641年ですから、これより60年ほど遡れば580年前後となり、これが計算上の王智仁の死亡年となります。また、彼の活動した期間を20~30年間と見積もれば、その開始年は550年頃となります。王辰爾が船史となったのが欽明14年(553)年ですから王智仁と王辰爾は重なります。通説では、王智仁は王辰爾のことだともされています。おそらくは、そうなのでしょう。智仁は "ちに" と発音するのかも知れません。
 ところで、墓誌が作られた代より数えると王智仁は4代目に当たります。王智仁は中祖ということですから、計算上これからさらに4代を遡れば上祖ということになります。無論、王智仁の場合、中祖とはいっても歴代の真ん中というよりも中興の祖という意味合いの方が強いかもしれません。なにせ既に述べているように、史が彼の名前にあやかって彼らの祖の名前に利用した可能性もあるのですから。しかし、仮にそうだとしても4代遡っての中祖です、上祖まで8代くらいはあったとするべきでしょう。そうすると、550年から80年遡った頃が上祖の活動を始めた時期になります。その時期は470年頃に当たり、倭王武の兄の興の時代となります。また、漢城時代の百済の滅亡の年475年にも近い時期ともなります。
 雄略紀には、20年(476)冬、高麗王が大軍をもって百済を滅ぼしたとあります。文献の上では1年の誤差になりますが、分注には「蓋鹵王乙卯年(475)、狛大軍来」とあり、前年の事をもまとめて記事にしたものと思われます。ただ問題なのは、倭王武を雄略と見做した場合の『宋書』との齟齬です。倭王武は477年から500年代初頭頃までの治世があったと『宋書』から推測できます。しかし、雄略紀では雄略は457年から479年までの治世となっています。『日本書紀』編纂者が『宋書』を参考にしなかったとも言えますが、雄略紀には呉との交渉の記事が頻繁に見られます。
 呉、記事では "くれ" と読ませていますが、これは中国の南朝のことで、当時南朝といえば宋(420年~479年)しかなく、雄略が交渉していたのは倭王武朝貢していた宋ということになります。思うに、宋の末年と雄略の末年が同じであることから、『日本書紀』は雄略を武ではなく単に宋に合わせたのではないのかとも見えます。と言うのも、雄略の即位年(457)が宋の世祖孝武帝の年号大明元年(457)にも当たるからです。それに、この孝武帝とその兄との行状は雄略とその兄安康の行状によく似ているようでもあります。あるいは、『日本書紀』は『宋書』を参考にしなかったのではなく、むしろ参考にし過ぎたのかも知れません。それはともかく、雄略の時代、呉との交渉に当たっていたのが史部の身狭村主青(むさのすぐりあお)と桧隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)なのです。
 ところで、雄略紀にはこの二人の史に関して次のような記事があります。

天皇、み心を以って師と為し。誤ちて人を殺すこと衆し。天下誹謗して言わく。太悪天皇也。唯寵愛する所は、史部の身狹村青と檜隈民使博徳等也。

 身狭と桧隈は大和にありますから、史部としては東漢系ということになりますが、この場合は単に東史とした方が話としては分かりやすいかもしれません。25章で東西の史について少し述べたと思います。船史や田辺史はいわゆる西史に含まれますが、上の記事は、彼ら西史の雄略の東史への贔屓を非難してのものとも見えます。しかし、雄略がなぜ東史を贔屓にしたのか、また、なぜ西史の目にはそのように映ったのか、取るに足りない素人の勘ぐりには違いありませんが、少しばかり時間を費やしてみましょう。

雄略と欽明

 冒頭でも述べていますように、史部の設置は雄略が最初です。また、雄略紀に西史系の田辺史伯孫が登場していることから、史部は最初から東西に設置されていたという事になります。このことは、雄略が東史だけではなく西史をも必要としていたことを教えています。そうなると、雄略がなぜ東史の二人だけを偏重したのか。やはり、少し考えてみる必要があるようです。
 雄略の宮は泊瀬朝倉宮(奈良県桜井市)で、同じ大和とはいっても身狭や桧隈とはかなりの距離があり、雄略の膝下とは言い得ません。また、雄略の陵墓は丹比高鷲(大阪府羽曳野市)で、これは西史の本拠地ですから、雄略と東史の関係は地理的からのものではないことが分かります。では、何にその起因を求めれば善いのか。雄略紀をどう読み返しても、天皇と二人との関係は、二人が史であることと二人が天皇に寵愛されたという記事以外にはなにもありません。このことは、二人というよりも身狭村主青と桧隈民使博徳は最初から雄略に付随していたと解釈する他はないようです。ただ、付随という言葉がこの場合適切か如何か。そこで、付随を次のように解釈します。
 最初から雄略に付随していたものは、雄略の死後も付随すると。こう解釈した場合、身狭村主青と桧隈民使博徳は、雄略の死後も付随して、その陵墓の地である丹比高鷲に付いて行ったということになります。そうすると、この二人の史は当然西史となり、名前も高鷲村主青と丹比民使博徳となります。これを逆に考えてみましょう。雄略は河内から史を連れて大和に入った。結果、河内と大和の二箇所に史の本拠地が出来た。そして、雄略が連れて来た高鷲村主青と丹比民使博徳は身狭村主青と桧隈民使博徳へと変わった。
 思うに、史の先祖はすべて応神朝にその基礎を置きます。言い方を変えれば、史はすべて応神に付随します。もう少し変えると、史は応神天皇陵の近くに居住した。そして、その一部が大和に入り東史となった。応神紀によれば、阿直岐史の先祖は軽の坂の上辺りに住んだといいます。身狭村主青と桧隈民使博徳も、その呼び名からして、やはりその近くに住んでいたことになります。実は、この地には見瀬丸山古墳があるのです。見瀬は身狭のことです。つまり、見瀬丸山古墳の主が高鷲村主青と丹比民使博徳を連れて大和の見瀬あるいは桧隈の地に入ったということです。
 見瀬丸山古墳を雄略の墓と主張するつもりは毛頭ありません。本墳には宣化と欽明が眠ると24章では主張しているのですから。さて、宣化の和風諡号小広国押盾です。したがって、その弟である欽明の和風諡号若武なにがしと呼ばれる可能性があります。
 ワカタケルといえば雄略。雄略といえば倭王武。普通に「記紀」を読んでいれば誰もがそうなります。しかし、果たしてそうなのだろうか。『日本書紀』は雄略を倭王武にではなく宋に合わせています。それに、若、幼あるいは稚は、普通親や兄の名前の上につけてその親の子であること、あるいはその兄の弟であることを示すためのものと言えるのです。無論、これは今日的な考えで、当時はそうではなかったとも言えます。しかし、若、幼、稚は当時からそういった意味で使われていたからこそ今日そういった意味で残ったと見るべきでしょう。そう見た場合、次のようなことが言えるようになります。
 先ず、幼武と呼ばれる雄略ですが、どうしたことか彼には武という名前のつく親兄弟が一人もいません。逆に欽明には、武と呼べる兄が宣化の他にもう一人いるのです。安閑がそれで、彼の名は広国押金日とされています。なお、雄略の子の清寧の名が白髪広国押稚日本根子で、雄略よりも欽明の兄弟の名に似ています。また、稚日本根子とあることから、清寧の父あるいは兄の名が日本根子である可能性もあります。
 次に、稚郎子(わきいらつこ)や稚子宿禰(わくごのすくね)といった呼び名ですが、これだけでは特定の個人を指すことは出来ません。そこで、菟道稚郎子としたり雄朝津間稚子宿禰とすることにより、前者が応神の皇太子であることが分かり、後者は允恭の和風諡号であることが分かるようになります。雄略は、正確には大泊瀬幼武ですから、あるいは幼武だけでは特定の個人を指せないのかも知れません。そうなると、欽明も志帰嶋若武としなくてはならないのかも知れません。それとも、泊瀬若武とする方が善いのだろうか。欽明紀には、その31年に天皇が 「泊瀬柴籬宮に幸す」 という記事もあるのですから。
 どうやら話が思わぬ方向に向かって行っているようです。無論、この向かう先も本稿にとっては大事ではあります。しかし、ここでは見瀬丸山古墳が "ワカタケル" という名で東史につながっているという結論、ただし私論ですが、これを基に話を進めています。
 稚拙な例えかもしれませんが、明治維新によって京都が東京に移ります。無論、京都が移動をしたというわけではありません。移動したのは象徴としての都と幾ばかりかの人です。ほとんどの人は残されました。思うに、見瀬丸山古墳の前代は河内大塚山古墳です。この関係は河内から大和への遷都とも呼べます。取り残された者の言い分が、あるいは身狭村主青と桧隈民使博徳への非難だったのかも知れません。
 雄略は、「記紀」を読む限り、君主とは言い得ません。しかし、『万葉集』も『日本霊異記』もその巻頭を飾るのは雄略でありその時代です。雄略の宮は泊瀬朝倉宮ですが、『日本霊異記』には磐余宮(いわれのみや)にも居たともしています。奈良県桜井市脇本に5世紀後半代の柱穴群を含む脇本遺跡があります。一説ではそれが雄略の泊瀬朝倉宮だともしています。ただ、脇本遺跡には6世紀後半から7世紀にかけてのて大型建物跡なども出土しており、これを欽明天皇の宮殿と推測する人もいます。
 思うに、雄略と欽明はいろいろな意味で近しい関係にあるようです。『万葉集』や『日本霊異記』は雄略をその巻頭に据えてはいますが、その巻頭以後には顕宗も仁賢もそして継体さえも顔を出してはいません。『万葉集』では雄略の次に顔を出すのが舒明、『日本霊異記』では欽明となっています。雄略を欽明、正確には阿毎多利思比孤とした方が『万葉集』にも『日本霊異記』にも負担がかからないように見えます。
 さて、雄略紀の時代は宋の後半代に当たります。しかし、雄略を倭王武にあてはめても 『宋書』とは整合しません。しかし、『日本書紀』の編纂者が宋を知らなかったとは考えられません。なぜなら、『日本書紀』の暦日干支の半分は元嘉暦によるものだからです。元嘉暦はその名が示す通り宋の元嘉22年(445)より始まる暦なのです。
 既に述べたと思いますが、雄略紀は雄略を宋の年譜に合わせています。特に安康から始めれば孝武帝との整合もよくなります。安康の即位年が453年。孝武帝も同じく453年即位なのです。さて、宋は孝武帝の兄以降、その身内に対してあるいはその身内から、さらにはその臣下に対してあるいはその臣下から血なまぐさい抗争の歴史を繰り返す道を歩み歩まされもしています。実際、この年より宋末の479年までに臣下によって殺害された廃帝が二人も出ています。穿った見方をすれば、安康と雄略紀の血なまぐさい記事はこれに合わせたものとも言えます。
 ただ、仮にそうだとしても『日本書紀』の編纂者が自分たちの天皇にそうした話を無条件で押し付けて平然としているというのも不思議な気がします。あるいは、彼らは虚構を前提として『日本書紀』を編纂していたのかも知れません。たとえば、孝武帝は興武帝ともできます。これは倭王興倭王武の両者をまとめて表わす名前ともいえるのです。そうした観点から『日本書紀』を見た場合、血なまぐさい話を持つ、雄略、武烈、崇峻の三天皇の和風諡号に "泊瀬" が付くことの意味は大きいと考えねばなりません。
 泊瀬は初瀬とも書きます。初瀬の意味は瀬の始まる発瀬でもあり、大和川の出発地点でもあるのです。そして、この地から大和の国は排し開け始まるのです。大和の枕詞を冠する敷島天皇(欽明)を天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわ)と呼ぶのもその故です。そして、そうでありながら、そこに、断絶や血なまぐさい話を持ち込む『日本書紀』は、明らかに大和を否定しています。
 思うに、『万葉集』には近江遷都や平城遷都の時多くの人々が飛鳥を懐かしんで詠んだ歌が残されています。それと同じように、河内から大和への遷都の時、西史達が河内を懐かしんだことは想像に難くはありません。彼らは、仁徳を聖帝と仰ぎ、難波長柄豊碕宮を「其の宮殿之状は不可殫論(たとえようがない)」と賞賛し、他方では大和を誹謗してもいるのです。また、河内飛鳥を近飛鳥(ちかつあすか)と呼び、大和飛鳥を遠飛鳥(とおつあすか)と呼ぶのもその故です。
 天武14年6月20日、大倭連(おおやまとのむらじ)以下東漢を含む11氏が忌寸(いみき)の姓を賜ります。しかし、何故かそのなかには船氏も田辺史も入ってはいません。

§27 秦氏の出自。

 地震に大雨、そして争い。ある日突然住み慣れた土地を離れなければならなくなる時があります。古代においても現代においても世界のどこかの一角で常に起こっている悲しい歴史の繰り返しでもあります。歴史は、我々に何を教えようとしているのだろう。
 古代は、その幾多の悲しい繰り返しが、新しい技術や文化をこの日本に運んできたと教えています。しかし、現代は我々に何を教えようとしているのだろうか。
 自然の歴史をも左右する現代社会、知らなかったでは済まされない時代がやって来ています。せめて、社会の矛盾、歴史の矛盾に疑問を抱くぐらいのことはしなくてはならないのではないだろうか。

巴氐(はてい)と巴賨(はそう)

 前回、船氏の出自を前秦の王苻堅の宰相王猛の後裔としました。これを直接証明する手掛かりは今のところありませ。しかし、秦氏の出自を前秦とする手掛かりが実はあるのです。無論、私論ではあります。なお、前秦という国号はなく、正式には単に秦とのみ記す国号です。また、前秦を建てたのは五胡の一つである氐(てい)族、通説ではチベット系の民族と言われています。
 氐族は五胡十六国時代(304~439年)に、成漢、前秦後涼などの国を建てています。秦氏のルーツとして先ず浮かび上がってくるのが成漢(304~347年)を建国した氐族です。この氐族は巴氐あるいは巴賨とも呼ばれています。巴氐の巴(は)は巴蜀の地の巴で、蜀と共に秦嶺山脈より南の漢中盆地と四川盆地一帯を指す呼び名です。巴賨の賨(そう)も同じ四川の東部の原住民を指す呼び名です。ただ、この呼び名には同時に原住民(南の異民族)の貢物、主として布を指す意味もあるとされています。
 ここで、ちょっと次の文、新人物往来社発行・京都文化博物館偏『古代豪族と朝鮮』の中の森浩一執筆「考古学から見た渡来文化・灌漑技術と秦氏の出自の関係」を参考にしておきましょう。

最近言われているのは、秦という戦国の国は、灌漑技術が非常に発達していた。そのために水田開発で大きな安定した富を得た。その一番いい現われが、四川省成都というところ、マーボードーフの故郷でありますが、成都の郊外に残っている、始皇帝の確か二代前の昭襄王の時に作った都江堰が有名なんです。…(中略)…
基本構造は嵐山の葛野大堰と同じですね。川が山から平野にでてくるところに人工の島を作って、その島の位置が難しいんです、まんなかではないんです、その島の位置の作り方が難しい、水を分ける。そして、やはり、基本的な水は左岸へ引いている。

 戦国時代の秦が強くなったのは蜀を征服し、この地の開発を行って以降のことだと言われています。開発の主役、灌漑技術が秦のものなのか、それともこの蜀の地にあったものなのかはこれだけでは分かりませんが、四川の都江堰(とこうえん)と葛野大堰とが作りも水の引き方も同じという事に関しては一考の価値はあります。ただ、秦氏の直接の出自を都江堰(昭襄王:~BC.251)を手掛けた戦国時代の秦としたのでは、葛野大堰との間に千年もの隔たりが生じます。そして、この千年もの間、秦氏が灌漑技術を忘れることなくどのようにして日本に辿りついたのか、とにもかくにもこの千年を埋めることから始めなくてはなりません。
 幸い、森浩一氏はこれに対する答もそこに用意されてもいるようです。

なぜこの葛野大堰が、秦氏と関係しているとわかるかといいますと、そういう灌漑用の設備の維持、どこがお金を出すのかという法律論争が行われたことがある。その時に葛野大堰の先例を出して、これは要するに秦氏がやったものだけれども、管理は地域全体が負担をしているという、そういう記録の中に出てくるんですね。

 森氏が四川の都江堰を訪れたのが1980年代頃らしいのですが、二千年も前の堰が残っていたということは、当然、誰かが常に管理と補修をしていたということになります。古代でも現代でも技術というものは身についていて始めて役に立つものです。先祖が嘗て何々の技術者であったいうだけでは、何の役にも立ちません。秦氏が、秦の灌漑技術を葛野大堰に活かしたのであれば、彼らは日本に来る直前まで四川の都江堰や朝鮮半島のどこかに彼らが築いた井堰の管理と補修に携わっていたとするべきでしょう。
 さて、巴氐は "はてい" または "はたい" と読みます。音としては秦(はだ)に近いと言えます。また、秦を機織の機(はた)の意味とするのは巴賨の賨に布の意味があるからだとも言えます。秦氏を通説通りの灌漑技術を持ち布を貢ぐ民と見た場合、彼らを巴蜀の地に国を建てた氐族の後裔と見做すことにそれほどの矛盾はありません。都江堰と蜀錦、秦氏がこの二つの技術を持って日本に来たとすれば、また、蜀錦を呉(呉:くれはとり)と見做せば、応神記に載る

かれ命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師、すなわち論語十巻、千字文一巻、并はせて十一巻を、この人に付けて貢進りき。この和邇吉師は文の首等が祖なり。また手人韓鍛名は卓素、また呉服西素二人を貢上りき。またの造の祖、漢の直の祖、また酒を醸むことを知れる人、名は仁番、またの名は須須許理等、まゐ渡り来つ。
《角川文庫『新訂古事記』より》

の記事とも一致します。
 なお、『日本書紀』では、応神37年にも呉織・穴織と縫女の兄媛・弟媛が、また雄略14年にも呉織・漢織と衣縫いの兄媛・弟媛が、呉から来たとなっていて、応神の時代が最初なのか、雄略の時代が最初なのか判然とはしませんが、25章でも述べたように、「文化の渡来」が『古事記』の応神の時代にあり、その時期を漢城百済の滅亡475年以降とすれば、この時期は『日本書紀』では雄略の時代に当たることになります。したがって、これら二つの記事は同じ時期の同じ出来事を述べていると見るべきでしょう。また、この二つの記事は、呉織と穴織あるいは漢織、そして兄媛と弟媛といった具合にどちらも対として表現していることから、多分に作為的な記事とみたほうがいいかもしれません。それに、兄媛と弟媛というのは明らかに織姫を陰と陽とに分けたもののように見えます。また、織姫は織女(しょくじょ)つまり蜀女とも出来、蜀錦を織る織姫とも出来ます。ただし、呉服あるいは呉織が本当の意味での蜀錦に当たるのかは分かりません。また、穴織も漢織も呉の織物らしいのですが、漢(あや)が呉延いては蜀地域とかかわりがある呼び名だとすれば、漢の直の祖もまた秦氏と同じこれらの地域から来たことになるのかも知れません。
 ところで、秦氏の出自については通説では、百済とも、新羅とも、字の通りの秦とも言われています。秦氏自身は、後世になりますが『新撰姓氏録』では秦始皇帝の後裔としています。しかし、「記紀」にはそのような記述はありません。ただ、「記紀」の秦氏に関しての記述は非常に好意的であることから、秦氏が船氏や多氏と親密であった可能性は否めません。『新撰姓氏録』には、雄略の時代に散らばっていた秦の民を、小子部雷が大隅と阿多の隼人を率いて捜し集めたとあります。小子部は多氏の一族ですから、そういった話からも多氏と秦氏との関係がうかがえます。
 思うに雄略紀には、秦の民を集めるとか、子供を集めるとかの話が載っていますが、これらはすべて小子部の職掌、少年を組織して宮門の警備や宮中の雑務をさせていたことから生まれた話で、おそらく、少年の多くが秦氏から集められたことによるものではなかったかとも思われます。と言うのも、秦の子供とは、秦即ち呉服あるいは呉織そのものである絹の子供即ち蚕のことだからです。雄略紀では、天皇が小子部蜾蠃(すがる)に国中の蚕を集めさせたところ、蚕(こ)を子供のことと勘違いをして子供を集めたとあります。
 また、小子部蜾蠃が雷を捕らえたという話も、秦氏が鳴り鏑(矢)を用いる松尾神社(京都市西京区)を氏神としていたことによるものと言えます。『古事記』にはつぎのようにあります。

此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也。
岩波文庫古事記』より》

 鳴鏑(なりかぶら矢)とは雷鳴と電光のこと、つまり蜾蠃が捕らえた雷のことです。ところで、上記下線部を読み下すとどのようになるだろうか。私は、"鳴鏑を用いる" としました。この "用いる" は次のように "餅(を)射る" とも書けます。矢で餅を射て稲がなるという話は、これも秦氏とかかわりのある稲荷神社(京都市伏見区)の縁起の話です。稲荷神社は「記紀」には登場しませんが、『古事記』の神話は後世まで影響を与えていたように見えます。

記紀」について

 「記紀」からの引用がだいぶ増えてきたようですので、またそれらの記事に対しての連想あるいは妄想が多くなっているようにも見えますので、遅れ馳せではありますが、ここで少し「記紀」への私見を述べておきましょう。
 「記紀」を語呂合わせや判じ物の論で語るつもりはありませんが、『日本書紀』の完成が養老4年(720)だということを考えた場合、自然とそういった論に傾いてしまうこともまた確かです。と言うのも、その7年ほど前の和銅5年(712)に、先ず『古事記』が献上され、さらに、その一年後の和銅6年に『風土記』編纂の命が下されているからです。言ってみれば、『日本書紀』は『古事記』や『風土記』をベースにして出来ているとも言えます。ただ、『風土記』に関して言えば、今日残っているのは五つほどの地域とその外の少しの地域の逸文でしかなく、しかも和銅年間のものかどうかも分からないものです。しかし、何々天皇の世とする部分を無視すれば、その故事来歴の多くは歴史的と言うよりも説話や語呂合わせに終始しているようにも見えます。また、『古事記』にしても帝紀旧辞よりなるとは言いますが、最も大事と思われる系譜にしても『日本書紀』には取り入れられていないものも多く、そしてなにより『日本書紀』自身がその系譜に疑問を投げ掛けるような書き方をしてもいるのです。
 無論、『古事記』に関しては『続日本紀』には撰録の記載がなく、『日本書紀』とは何の関わりもない、とする見解もあります。しかし、応神と仁徳が重なり、仁徳と雄略が重なり、そして、ここでは雄略と応神が重なるという構図があります。応神と仁徳が重なるという構図は既に7章でも述べていますように「記紀」が持つ共通の表現、巨大古墳を大みささぎと呼べることに拠るものです。また、仁徳と雄略が重なるのは、現実の墳墓の乱れと「記紀」の墳墓破壊の物語との整合性よるもので、22章以降何度か述べていると思いますが、こうした重なりは言ってみれば一種の矛盾であります。そして、「記紀」共にそうした矛盾を共有することは、一方が他方をベースにしている証と見るべきものと言えます。また、通説にもあるように、両者は同一の資料を利用したのであって、両者の間には直接の関係はないとしてみたとしても、こうした重なりが生まれる背景にどういった資料の想定が出来るかと言えば、これはかなりまとまっている資料でなくてはそういった共通の矛盾は生まれません。つまりは、『古事記』のようなものでなくてはならないわけです。
 私は一素人ですから、「記紀」を読んで理解できないことを無理に理解する必要のある身ではありません。また、素人ですから、ホンのちょっとした共通点や類似点から連想や妄想を育んだり膨らませたりもします。しかし、これを間違ったやり方だという風には思っていません。むしろ、こうしたことが可能だということは、「記紀」そのものが連想や妄想の産物であるためだとさえ思っているほどです。しかし、そうだからと言って「記紀」の記事を否定するつもりもありません。記事を否定してしまっては、連想や妄想の行き着く先を失ってしまいます。
 「記紀」個々の記事についてどうのこうのと批評を加えるだけの力量は私にはありませんが、「記紀」を読み比べて思うことは、『古事記』を元に『日本書紀』を書こうとは思っても、『日本書紀』を元に『古事記』を書こうとは思はないことです。そして、さらに次のようにも妄想します。自分もそう思うのだから古代人もまたそう思うのではないだろうかと。現代から古代を推し測ることは適切とはいえませんが、現代の素人が古代の素人を推し測ることに何ら不都合は生じないはずです。
 ところで、素人がなぜ古代史に顔を突っ込むのだろうか。それは専門家にも解けない謎があるからです。専門化にも解けない謎を素人が解こうとする。滑稽といえば滑稽な話ではありますが、必ずしも道理から離れているという訳ではありません。例えば、専門家をAと置き、素人をその否定形の-Aとし、謎の答えをXとした場合、専門家に解けない謎は次のような式で表わせます。

A=-X

このままでは謎は解けませんから、専門家のAに素人の-Aを代入します。すると

-A=-X ⇒ A=X

となって、この謎は解けることになります。つまり、謎に対しては素人が専門家になるという構図です。あるいは、これこそが妄想なのかも…

§26 船氏と大化。

 史部の設置は雄略の時代に遡ります。雄略紀には何人かの史の名が載ってはいますが、史の任命記事はありません。史の任命記事の初出は欽明紀にあります。欽明14年、王辰爾が船史の姓を賜ったとあります。また、同30年、王辰爾の甥の膽津が白猪史の姓を賜ったとあります。そして、敏達紀では今度は王辰爾の弟の牛が津史の姓を賜っています。思うに、史の最初は王辰爾の一族で占められていたのではないだろうか。それがために、史の共通の祖先としての王仁の名が創り出されたのではないだろうか。
 無論、そうしたことは、『日本書紀』にかかわりのある船氏の身贔屓と言えなくもないわけではないのですが…

船氏と高麗

 欽明紀によれば、王辰爾が船史に任命されたのは樟勾宮に天皇行幸した時でのことになります。樟勾宮が何処にあるのかは分かりませんが、王辰爾や弟の牛が船史や津史に任命されていることから、おそらく近くに津をひかえた高床式倉庫群の一角にでもあったのではないかと思われます。そして、この兄弟もまた津近くに居を構え、船や津に関係する職務に携わっていたものと思われます。
 当時と比べるにしても、あるいは古すぎるかもしれませんが、「魏志倭人伝」に次のような記事があります。

王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、及び郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を傳送して女王に詣しめ、差錯することを得ず。
岩波文庫魏志倭人伝…』より》

 以上下線部の記事は「倭人伝」が一大率と記す官人の職務の一部です。文書や荷物の仕分けは文字を読める者にしかできないことです。あるいは船氏は先祖代々そうしたことに携わってきた一族なのかもしれません。それに当時といえど、下線部の職務は卑弥呼時代からそれほどの変化はなかったと思われます。ただ、時代と共に扱う物資の量が大幅に増えた、これは歴史の流れとしては当然の成り行きでしょう。そして、彼らの職務も単なる仕分けから文字による記帳管理へと変わって行ったということなのでしょう。
 欽明紀には、王辰爾は船の税の記録をさせられたとあり、また、甥の膽津が白猪の屯倉の戸籍を作らされたとあります。このことから、欽明以降の史の主要な業務が租税の記帳管理であったことが分かります。そして、この時期から史の数も増え彼らの活躍も活発になって行くのだと思います。
 ところで、王後墓誌の当人、墓誌によれば舒明天皇の代に大仁を賜り活躍をしているはずなのですが、肝心の舒明紀には彼の名前どころか船史さえも載ってはいません。ただ、先代の推古天皇の17年に船史龍が、肥後国葦北の港に暴風に遭って漂着した百済の船へ遣わされたとする記事があります。このことから敏達の時代、船史が漂着した高麗との対応にも当たっていたと想定できます。敏達紀によれば相楽(京都府相楽群)に高麗人用の館があったとされていますから、船史はそこで高麗人と応対していたことになります。
 当時、ただし敏達の時代ではなく舒明以前の時代に置き換えるのですが、高句麗新羅百済に出兵していた時期があります。その場合、高句麗は直接日本海を渡って日本に来るわけですが、はたして彼らが日本海を渡って帰還できたのか疑問が残ります。欽明紀では彼等のためにわざわざ相楽に館を作らせていることから、彼らが長期にわたって相楽に滞在していた可能性があります。いや、そればかりか彼らがそこに住み着いた可能性さえあるのです。
 高句麗が日朝交流のメインルート対馬経由で日本と往き来できるようになったのは、百済高句麗が手を結んだ642年以降のことです。しかし、その642年に高句麗では淵蓋蘇文によるクーデターが引き起こされています。淵蓋蘇文の手によって殺されたのは栄留王以下重臣貴族180数名といわれています。この年まで、高句麗日本海経由で何度来日していたのかは分かりませんが、多くの高麗人が帰国できなくなった可能性は大と言わねばなりません。そして、船史と彼らとの交流はさらに延びていったものと思われます。
 日本と高句麗との交流がいつ頃より始まったかは推測する他はないのですが、好太王碑が示すように基本的には日本と高句麗とは敵対関係にあったと見るべきでしょう。また、日本から見ても高句麗は対中国外交行路よりも離れており、対高句麗外交のメリットはなかったものと思われます。したがって、交流の発端は高句麗側の一方的な事情によるものとするべきでしょう。つまり、高句麗が日本との交流にメリットがあると感じ始めたということです。そして、その時期を高句麗と隋との関係、さらには百済新羅との関係も険悪さを増した612年前後と見てもそれほどの大差はないでしょう。
 思うに、高句麗の外交使節団は非常に豪勢であったと考えられます。欽明紀には高句麗の献上物が横領されたという記事があるほどです。なお、推古13年(605)に高麗国の大興王が飛鳥寺の大仏のための黄金三百両をたてまつったという記事がありますが、この記事の前には新羅遠征の記事があることを考慮すれば、この記事は唐と新羅が同盟を結んだ648年以降とした方がより史実に近くなります。と言うのも『日本書紀』には大化3年(647)に新羅の金春秋が来日したともあるのです。そしてなにより、『隋書』は607年以前の倭について"兵ありと雖も征戦なし"としていますし、また新羅百済が倭を大国として敬仰し、常に通使・往来をしているともしています。そもそも推古紀には阿毎多利思比孤が入るのですから、推古13年の記事は割り引いて読まなければなりません。しかも、この記事の行方によっては、飛鳥大仏は648年前後に作られた可能性が浮かび上がってもくるのです。そして当然のことですが、飛鳥大仏の像造年が変われば、飛鳥寺の創建年も変わります。

大化は仏教公認の年号

 飛鳥寺は『日本書紀』では、法興寺元興寺、大法興寺といった呼び名で出てきます。 元興寺という呼び方は元法興寺という意味だと思いますが、大法興寺とはどういう意味なのでしょうか。天武9年に飛鳥寺は元は大寺であったとする記事があることから、大寺としての法興寺とも受け取れなくもないのですが、普通、大寺の呼び方としては何某大寺といった寺名になると思います。あるいは、(小)法興寺に対しての大法興寺とした方が善いのかもしれません。その場合、(小)法興寺というのは法隆寺の前身である若草伽藍とするべきかもしれません。
 法興寺という呼び名は、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にある法興という元号を記念してのものと思います。本来、釈迦三尊像は若草伽藍に安置されていたもので、若草伽藍焼失後に法隆寺に安置されたものでしょう。また、若草伽藍の仏像が尺寸王身像であるのに対し、飛鳥寺の仏像は丈六像であることから寺の呼び名に大が付いたものとも言えます。また、大を付けたことから、飛鳥寺は若草伽藍よりも後に出来た寺という事にもなります。 ただ、飛鳥寺と若草伽藍とでは伽藍配置が異なっています。しかし、飛鳥寺の三金堂は中金堂と東西の2金堂とではその造りが異なっています。東西の2金堂を後の建て増しとすれば、飛鳥寺も本来は若草伽藍と同じ四天王寺式の伽藍配置であったとできます。
 崇峻即位前紀によれば、四天王寺飛鳥寺は同じ時期に同じ気運の元で出来上がったと読み取れます。敏達(舒明)の廃仏の時代から用明の崇仏の時代へと歴史が大きく変わり始め、造寺造仏への気運の高まりのなかで、その法興の原点を釈迦三尊像や若草伽藍に求めたということなのでしょう。崇峻元年には百済から来た聆照律師以下6名の僧に蘇我馬子が受戒の法を請うています。そもそも、国が正式に仏教を取り入れるということは、受戒によって僧を誕生させるということなのです。
 さて、24章では崇峻紀を孝徳紀に移動させました。崇峻元年は孝徳元年、つまり大化元年です。大化元年8月8日に次のような記事があります。

故に、沙門狛大法師福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣を以って十師と為す。別に、恵妙法師を以って百済寺寺主と為す。

 この記事から、この時点で僧であったのは寺主の旻だけであったことが分かります。また、寺主は僧でなければならなかったようにも見えます。そうなりますと、この時点より前にある寺は、もしかしたら僧旻が寺主となっている、おそらく若草伽藍(法興寺)ただ一つだけだったのではなかったろうか。そして、この時に出来始めていた寺が百済大寺だったのではないだろうか。用明紀から崇峻紀にかけて丈六の大仏造りの記事があります。おそらく、大仏、大寺、大化は当時の仏教徒が待ち望んだ機運当来を告げる合言葉だったのかも知れません。大化は道登や恵妙に取って記念すべきものだったはずです。
 思うに、宇治橋を構築したのが道登であれ道照であれ、彼ら僧の未来に橋をかけたのが用明天皇なのです。宇治橋の大化2年は、この天皇の崩年を記念してのものと見るべきでしょう。

船氏の前身

 さて、この宇治橋を西に渡り大和へ向かえばやがて木津川に突き当たります。京都府木津川市に高麗寺跡と呼ばれる寺院跡があります。創建が飛鳥時代に遡るとされる古い寺院跡で、私は相楽の高麗の館とかかわりがあるのではないかと思っています。ここは現在木津川市ですが、町村合併以前は相楽郡山城町大字上狛と呼ばれています。
f:id:heiseirokumusai:20171009222640g:plain  高麗寺跡は1938年以来本格的な発掘調査が何度か行われています。それによると、飛鳥寺と同じ軒瓦が使われてもいるし、川原寺(奈良県明日香村)と同じ軒瓦が使われてもいるそうです。普通には飛鳥寺の瓦が創建時、川原寺の瓦がその後という事になるのですが、伽藍配置はどう見ても飛鳥寺式あるいは四天王寺式よりも川原寺式に近いように見えます。ただし、正確には法起寺式になるということだそうです。
 高麗寺は、上図からも分かるように奈良街道に添って築かれた古墳列の延長線上にあるようにも見えます。あるいは、これら古墳群を築いた後裔氏族の手による寺なのかもしれません。ところで、高麗寺を一字の寺名にするとどうなるでしょうか。おそらく狛寺となるはずです。
 船氏の氏寺と目される野中寺、この寺に伝わるのが丙寅年の銘文を持つ銅造弥勒菩薩半跏思惟像です。銘文は本像台座の框(かまち)部分にあって、栢寺智識が中宮天皇のために作ったとする内容が記されています。しかし、銘文中には難解なものもあり、例えば栢寺ですが、実は未だに何処にある寺なのか分かっていないそうです。一説では橘寺(奈良県高市郡明日香村)のことだとも言われていますが、定説とはなっていません。
 私は、素人としてですが、栢寺は狛寺のことではないかと思っています。無論、犭偏と木偏とでは大きな違いがあります。しかし、漢字としての読みは同じ「はく」ですから、狛が栢に変われば善いわけです。そこで、これを変えてみましょう。

友等人数一百十八
《16章に全銘文があります。》

 上に載せたのは銘文の一節です。この一百十八の一の位置に十八を押し込むと栢という漢字になります。つまり、木は十と八より成るわけです。それとも、木を「こ」と読み、百を「も」さらには「ま」と読めば、栢寺は「こまでら」と読めます。馬鹿馬鹿しいと言われればそれまでの事ですが、栢を橘とするよりは善いと思うのですが。なお、栢は俗字で、柏が正しいとか。

丙寅年四月大旧八日癸卯開

 これも銘文の一節です。最後に「開」とありますが、これは暦注の一つ十二直の中の11番目に当たるものです。暦注というのは、その日の吉凶を暦に記したものです。内容としては、その日に何々をしてはならない、あるいは何々をすると善いといった類のものです。詳しくは省きますが、当時既に暦注が流行っていたようです。また、四月八日というのも釈迦の生まれた日を祝っての灌仏会(かんぶつえ)に当たります。思うに、この弥勒菩薩像は縁起の善い日を選んで造られたようです。狛を栢としたのは、寅年の卯の日は五行では "木" となりますから、これに合わせたということなのかもしれません。
 船史は文字に長けた人たちであり、また当時の大陸の最先端の文化に直に接していた人たちでもあります。暦や暦注や灌仏会を日常に取り込んでいたとしても不思議はありません。それに、彼らの先祖が漢字仮名や万葉仮名を発展させた可能性もあります。船の仲間に舶があります。狛、柏、舶、いずれも "はく" と読めます。あるいは、狛を "こま" と読ませたのは船氏なのかもしれません。
 船氏が船や津を管理していた以上、その主要区域である淀川水系に深くかかわっていたことは確かでしょう。当時の淀川水系で最も賑わっていたのが宇治の渡し場と木津の渡し場であったことは奈良街道沿いに古い古墳列のあることからも想像できます。船氏の一族がそれらの地に根を下ろしている可能性もあります。また、淀川水系を通して秦氏との接触があったことも確かでしょう。あるいは、秦や漢を "はた " 、"あや" と読ませたのも船氏なのかも知れません。
 船氏は墓誌銘や欽明紀にあるように中国系漢人の王氏であることは確かです。さて、漢人でありながら異民族の王朝の覇業に貢献した宰相に王猛(おうもう、325~375)がいます。前秦(351~394)の3代王苻堅(ふけん)はこの王猛を重用して華北統一に成功し、前秦の全盛期を築きます。この時、高句麗新羅など朝鮮半島の諸王朝は朝貢して服属したといいます。また、その時苻堅は大秦天王と称していたとも言われています。
 前秦は王猛の死後十年足らずで斜陽に向かい始めます。そして、その後十年足らずで滅亡しています。思うに、この時期に王猛の一族が朝鮮半島に向かったのではないかと。彼ら王猛の一族は、異民族の中で功を成した人たちです。彼らが異民族のそのまた異民族に身を投じることはありうることです。仮に彼らが朝鮮半島に達したのが400年前後だとすれば、倭が半島で活動していた時期に当たります。もし、彼ら王猛の一族の消息が半島では得られないのだとすれば、彼らが直接日本に来た可能性もあります。また、渡来したのが王猛の一族だけではなく前秦の民も一緒だったとすれば、彼らこそが秦の民ということにもなります。

§25 船氏の道標。太安万侶の道標、その25。

 古墳は巨大なモニュメントである。しかし、古墳が我々に語りかけることはなく、大きな沈黙のままに横たわっている。我々に語りかけるのは、決まって歴史家であり考古学者でありそして政治家である。しかし、誰の墓かと尋ねれば、政治家以外は決まって沈黙を保つ。今日の古墳の多くは、政府役人が立てた政治的神話の立て札の前で口を閉ざさざるを得なくなっている。
 それにひきかえ、歴史神話を掲げる「記紀」は饒舌である。しかし、同じ饒舌でも『古事記』と『日本書紀』とではかなりの違いがあります。『古事記』は必要以外には寡黙であるが、『日本書紀』は必要以上に饒舌なのです。
 1979年(昭和54年)1月23日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓と墓誌が発見されています。その墓誌には、

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳

とあるのみで必要以上のことは記されていません。
 太安万侶が、『古事記』だけではなく、『日本書紀』の編纂にも携わったとする「弘仁私記序」を信じているわけではありませんが、「記紀」は誰かが書き残したものであることに違いはありません。私は、その誰かを太安万侶としました。たとえそれが間違っていたとしても、歴史が覆るわけでも「記紀」が反古になるわけでもありません。
 考古資料が発見されるたびに歴史が塗り変えられている今日の歴史界。しかし、それによってこれまでの研究成果が反古になったわけではないはずです。なぜなら、そうした資料の発見は全くの偶然にもよるものもあるでしょうが、やはり何らかの見当があっての成果だと思います。発掘や調査には多大の資金と時間が費やされます。何の見当もなくそれを行うことは出来ないはずです。つまり、そうした見当をつけることが出来るのは、これまでの研究によるところが大きいのではないだろうか。
 幸いなことに『日本書紀』に関しては、先人先学の御蔭で、船氏や上毛野が編纂に携わっていることがおおよそ定説となっています。船氏は王後墓誌の子孫、上毛野は稲荷山鉄剣の主の乎獲居臣とかかわりのある氏族。どちらもその銘文が示すごとく先祖や家系を重んじる人達です。『日本書紀』の饒舌の中に彼らの真意が埋もれていると見当をつけたとしても、強ち悪い結果になるとは思えません。

船氏と毛野氏

 渡来系の船氏の本拠地は河内国丹比郡野中郷(大阪府羽曳野市)とされています。この地は、西に河内大塚山古墳、中央に誉田御廟山古墳を有する、いわゆる河内王朝発祥の地であると共に終焉の地でもあります。また、この地はかって西史(河内の史)と呼ばれた渡来人の本拠地でもあります。船氏も史(ふひと)ですから、普通なら西史となると思うのですが、敏達紀では東西の史と船史とを区別して扱っています。それは、誰も読み解けなかった高麗の国書を王辰爾(船史祖先)が読み解いた時、天皇と大臣が共に東西の史全員よりも船史王辰爾一人の方が優れていると賞賛したとする記事からもうかがえます。ただし、船氏も王辰爾が船史つまり船氏となる以前は単なる西史であったのかもしれません。なお、東西の史とは西史と東史(大和の史)のことで、「記紀」は百済からの渡来人としています。
 史のほとんどは渡来系ですが、その前身についてはよく分かっていないようです。船氏についても同様で、王後墓誌が唯一の、ただし手掛かりでしかありません。「記紀」によると、応神天皇の時代、百済国から先ず阿直史(阿直岐史)の祖の阿知吉師(阿直岐)が馬を2匹連れて来朝し、その後から文首(書首)の祖の和邇吉師(王仁)が論語十卷と千字文一卷を持って来朝したとあります。しかし、彼らが後世のどの史に当たるのかは「記紀」の記事からは判断できません。あるいは継体を応神に結びつけたように史もまた応神に結びつく先祖を創りあげたのかもしれません。と言うのも、王後墓誌(16章に記載)には船氏の中祖である王智仁首の名があります。そして、この王智仁から阿知も王仁も作ることができるのです。思うに、王智仁の一族が渡来系史の最初の出世頭であり、しかも尚且つそれによって史の地位を向上させることになったしたら、史の共通の先祖としてのこうした話が出来上がったのではないかと… なお、()内は『日本書紀』の表記です。
 ところで、『日本書紀』には、王仁来朝に際し、上毛野の先祖を百済まで迎えに遣らせたとあります。思うに、倭の五王の時代、毛野の関東地域は租税の代わりに兵士を朝鮮半島に送り込んでいたのではないだろうか。安閑紀の屯倉の記事のほとんどが関東地域で占められているのは、半島での兵士の活躍の場を失った倭王が兵士の挑発から本来の租税の徴収へと政策を変更したことに由るものではないだろうか。
 後世、とはいっても奈良時代ですが、『万葉集』には防人歌と呼ばれているものがあるといいます。防人(さきもり)のために徴用された兵や、その家族が詠んだ歌で、関東地方など東国の言葉が使われているものが多くあるそうです。これも嘗て東国から朝鮮半島向けの兵士を徴用していたことの余波と考えられます。また、装飾古墳と呼ばれている一群の古墳を鑑みた場合、それらのほとんどは中北部九州を中心として分布しているのだそうですが、なぜか畿内地域を通り越して関東地域にもう一つの分布の中心地があるとのことです。分布域は、九州では福岡県南部から熊本県北部に、関東では茨城や福島といった北関東地域に集中しているのだそうです。実は、これら二つの地域も朝鮮半島向けの挑発兵の関係で結びつくのです。

毛野と磐井

 継体21年、近江毛野臣が兵6万を率いて任那に向かおうとした時、筑紫国造磐井が反乱を起こします。実は、この磐井の勢力範囲と装飾古墳との地域が重なり合うのです。そこで、近江毛野臣を単に毛野臣とし彼が率いた兵を毛野地域、つまり北関東からの徴発とすれば、装飾古墳の分布の関係から、当時半島で活躍していた倭兵のほとんどが九州の福岡県南部から熊本県北部にかけての徴発兵と北関東からの徴発兵とであった可能性が浮かび上がってくるのです。
 想像力を逞しくすれば、東に杖刀人首がいて、西には典曹人首がいたということです。杖刀人首は乎獲居臣あるいは近江毛野臣、典曹人首は筑紫国造磐井となります。この構図は竜虎相打つの形で、物語では磐井が近江毛野に 「昔は仲間として共に釜の飯を食った仲ではないか、なぜ命令するか」 と詰問していることから、嘗ては彼ら二人は共に天下を佐治していた仲なのかもしれません。
 私は、磐井の乱については武蔵国の争いの物語と同じ趣旨によるものと観ています。どちらも煎じ詰めれば屯倉の献上につながります。そして、この話は安閑紀以降にこそ相応しいのではないのかと。つまり、九州地区に於いても半島への兵の挑発よりも従来の租税への切り替えが起こったということです。また、天下を左治した杖刀人首を稲荷山古墳のある武蔵国に固定する必要はなく、磐井が北部九州一円を取り仕切ったように乎獲居臣も関東一円を取り仕切っていたと見るべきでしょう。と言うのも、景行紀には彦狭島王を東山道15国の都督にしたとありますし、景行記には東の国造といった表現もあるからです。
 継体紀に特定の個人に広範囲の国を任せるという記事があります。継体天皇が磐井討伐に向かう物部麁鹿火に対し「筑紫より西はお前が好きなように統治しても好い」という記事です。思うに、これは本来磐井が持っていた権限だったのではないだろうか。首は大臣クラスです。首ならその程度の裁量は任されたと思います。磐井が典曹人首であった可能性は大きいと言わねばなりません。なお、東山道15国を任された彦狭島王は、崇神紀に載る上毛野と下毛野の祖である豊城入彦命の孫です。
 近江毛野臣については、継体紀以外には何の情報もありません。また、彼を近江の臣とするか毛野の臣とするかという問題もあります。継体紀での用例は、先ず近江の毛野臣とし、それ以降は毛野臣だけの使用となっていて近江臣という用例はありません。しかし、彼は病死後、淀川を遡って近江へと運ばれています。近江が彼の本拠地であることは確かです。しかも近江は東山道の始発点でもあります。東山道は、近江、三野、科野、毛野、陸奥へと順次延びているのです。つまり近江と毛野は東山道を介して繋がっているとも言えます。崇峻紀には、その2年に近江臣満を東山道に遣わして蝦夷との国境を観させたとする記事があります。近江臣が毛野とかかわりのある立場にいることだけは確かと見えます。ただ、しかし、この記事を最後に近江臣は歴史から消えています。
 ところで、推古紀に小徳近江脚身臣飯蓋なる人物の名前があります。読みは、近江の脚身(あなむ)の臣飯蓋(いいふた)となるのですが、彼を近江臣とするのが善いのか、それとも脚身臣とするのが善いのか迷うところです。ただ、この人物もここに名前を載せただけで以降のことは不明です。思うに、近江は後に壬申の乱の舞台となる所です。あるいはそれによって滅んだのかも知れません。また、近江は畿内とはいっても、嘗ては倭王武の言う毛人と接していた可能性のある所です。言ってみれば、近江の隣が毛野ということになりかねません。近江に毛野臣が居てもおかしくはないのかも知れません。しかし、毛野に関してはおかしなことがあります。

毛野と田辺史

 おかしなことに、「記紀」には国としての毛野の用例がありません。あるのは上毛野と下毛野です。また、氏族としても上毛野と下毛野がありますが毛野氏はありません。通説では、嘗ては毛野国や毛野氏があったが何時の時代かに上下に分かれ、分かれてからのことのみが記されているのだとしています。しかし、嘗て無かったかもしれない神武や欠史八代が記されていて、嘗てあったかもしれない毛野が記されていないというのは素人にはどうしても合点がいきません。それに、『日本書紀』では上毛野が毛野を代表するように描かれているのも奇異な気がします。
 「記紀」編纂の時点で、上毛野が下毛野よりも勝っていたのは歴史的事実でしょう。国としても上毛野は大国、下毛野は上国でしかありません。しかし、そうだからといって先祖の出る度に上毛野の祖とするのは少し度を越しているようにも見えます。これでは上毛野から下毛野が分かれたようにも見えます。思うに、『日本書紀』編纂の折、その下準備をしたのが史であった可能性があります。上毛野の一族に田辺史がいます。田辺史は藤原不比等とかかわりがあるとされる史の一族です。雄略紀にはこの田辺史の物語が載ってもいます。上毛野の出自に関しては疑う必要があります。ただしかし、雄略紀の物語には田辺史の道標もまたあるようです。
 物語によると、田辺史伯孫は応神天皇の馬、ここでは埴輪の馬ですが、それと自分が乗っていた馬とを取り替えたということなのですが、このことは田辺史が乗馬に長けていたこと、そして応神とかかわりのあることを教えています。応神と史と馬、これは応神期に百済から来たという阿直岐の関係と同じです。阿直岐古事記では阿知吉師ですが、彼は大和の軽の坂の上の厩で馬を飼ったとされ、通説では倭漢直の祖である阿知使主と同一視されています。『日本書紀』では、阿直岐と阿知使主を別人として載せていますが、これは東西の史、東西の漢直とその文直のそれぞれの先祖を区別するためのもので、そもそもこれらは前述したように作為的な先祖名の可能性があるのです。また、田辺史伯孫の伯孫にしても、これは馬の良否を見分ける名人伯楽の名を借りたものと見えます。
 そうした観点から上毛野を見てみると、上毛野の系譜は崇神紀に始めて載るのですが、次の垂仁紀には早くも先祖の活躍が載っています。これは、大彦の系譜が孝元紀が初出でその活躍記事が崇神紀、また、武内宿禰の系譜がやはり孝元紀が初出で活躍記事が景行紀というのと比べると、上毛野がいかに贔屓されているかが分かります。
 思うに、継体紀以降の半島の記事は、日本が如何にして半島からの撤退を余儀なくされ たか、そして、その責任が誰にあるかということのみに終始しているように見えます。ここでは近江毛野がその責任を背負わされている模様です。しかし、6万もの大軍を率いていながらその前身も後身も不明という事は、あるいは単なるスケープゴートなのかもしれません。
 『日本書紀』関与の痕跡を残す田辺史。天武朝で帝紀と上古の諸事の校訂に携わっていた上毛野。彼らの系譜や出自は当然疑うべきものです。また、彼らが系譜上同族となる前の最初の出会いが応神朝にあったことも、あるいは疑わなければならないことなのかもしれません。
 これは私論ではありますが、私は応神は倭王武ではないかと思っています。『新訂 古事記』(角川文庫発行 武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説)は、応神記の渡来人の記事の小見出しに「文化の渡来」を掲げています。正にその通りだと思います。そこで半島、特に百済からの渡来人が最も多く来たと思われる時期を探してみますと、高句麗百済の王都の漢城を攻め落とし蓋鹵王を殺害した475年にたどり着きます。そしてその3年後の478年に倭王武が宋に宛てて上表文を出しているのです。その文面には句驪無道といった表現があり、高句麗百済を滅ぼし尚且つ宋への朝貢の道を塞いでいるとの非難を述べています。
 武が上表した478年は、百済が南の熊津(ゆうしん)に国を再興して間もない頃で、文周王(475~477)、三斤王(477~479)共に2年そこそこの治世で終わるという、国家としては非常に不安定な時期といえます。この時期に倭王武が『宋書』に残るほどの上表文を提出し得たのは、やはり半島からの文化の渡来があったからではないだろうか。
 さて、史の中で半島以来の姓を持つ者は『日本書紀』では船氏だけのように見えます。壬申年将軍で始まる墓誌を残した文忌寸の祢麻呂にも半島以来の姓はありません。このことは、史や漢直のほとんどは無姓のまま日本に来たことになります。彼らが技術を持っていたことは確かと思われますが、文字を自由に操れるほどの文化人であったかどうかは疑問です。そうした彼らに、応神朝に彼らの先祖の阿知岐や王仁が来たなどとする伝承が実際あったのか如何か、これもまた疑問という他はないでしょう。
 本題からは随分と逸れてしまいましたが、続きは次にいたしましょう。