昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§27 秦氏の出自。

 地震に大雨、そして争い。ある日突然住み慣れた土地を離れなければならなくなる時があります。古代においても現代においても世界のどこかの一角で常に起こっている悲しい歴史の繰り返しでもあります。歴史は、我々に何を教えようとしているのだろう。
 古代は、その幾多の悲しい繰り返しが、新しい技術や文化をこの日本に運んできたと教えています。しかし、現代は我々に何を教えようとしているのだろうか。
 自然の歴史をも左右する現代社会、知らなかったでは済まされない時代がやって来ています。せめて、社会の矛盾、歴史の矛盾に疑問を抱くぐらいのことはしなくてはならないのではないだろうか。

巴氐(はてい)と巴賨(はそう)

 前回、船氏の出自を前秦の王苻堅の宰相王猛の後裔としました。これを直接証明する手掛かりは今のところありませ。しかし、秦氏の出自を前秦とする手掛かりが実はあるのです。無論、私論ではあります。なお、前秦という国号はなく、正式には単に秦とのみ記す国号です。また、前秦を建てたのは五胡の一つである氐(てい)族、通説ではチベット系の民族と言われています。
 氐族は五胡十六国時代(304~439年)に、成漢、前秦後涼などの国を建てています。秦氏のルーツとして先ず浮かび上がってくるのが成漢(304~347年)を建国した氐族です。この氐族は巴氐あるいは巴賨とも呼ばれています。巴氐の巴(は)は巴蜀の地の巴で、蜀と共に秦嶺山脈より南の漢中盆地と四川盆地一帯を指す呼び名です。巴賨の賨(そう)も同じ四川の東部の原住民を指す呼び名です。ただ、この呼び名には同時に原住民(南の異民族)の貢物、主として布を指す意味もあるとされています。
 ここで、ちょっと次の文、新人物往来社発行・京都文化博物館偏『古代豪族と朝鮮』の中の森浩一執筆「考古学から見た渡来文化・灌漑技術と秦氏の出自の関係」を参考にしておきましょう。

最近言われているのは、秦という戦国の国は、灌漑技術が非常に発達していた。そのために水田開発で大きな安定した富を得た。その一番いい現われが、四川省成都というところ、マーボードーフの故郷でありますが、成都の郊外に残っている、始皇帝の確か二代前の昭襄王の時に作った都江堰が有名なんです。…(中略)…
基本構造は嵐山の葛野大堰と同じですね。川が山から平野にでてくるところに人工の島を作って、その島の位置が難しいんです、まんなかではないんです、その島の位置の作り方が難しい、水を分ける。そして、やはり、基本的な水は左岸へ引いている。

 戦国時代の秦が強くなったのは蜀を征服し、この地の開発を行って以降のことだと言われています。開発の主役、灌漑技術が秦のものなのか、それともこの蜀の地にあったものなのかはこれだけでは分かりませんが、四川の都江堰(とこうえん)と葛野大堰とが作りも水の引き方も同じという事に関しては一考の価値はあります。ただ、秦氏の直接の出自を都江堰(昭襄王:~BC.251)を手掛けた戦国時代の秦としたのでは、葛野大堰との間に千年もの隔たりが生じます。そして、この千年もの間、秦氏が灌漑技術を忘れることなくどのようにして日本に辿りついたのか、とにもかくにもこの千年を埋めることから始めなくてはなりません。
 幸い、森浩一氏はこれに対する答もそこに用意されてもいるようです。

なぜこの葛野大堰が、秦氏と関係しているとわかるかといいますと、そういう灌漑用の設備の維持、どこがお金を出すのかという法律論争が行われたことがある。その時に葛野大堰の先例を出して、これは要するに秦氏がやったものだけれども、管理は地域全体が負担をしているという、そういう記録の中に出てくるんですね。

 森氏が四川の都江堰を訪れたのが1980年代頃らしいのですが、二千年も前の堰が残っていたということは、当然、誰かが常に管理と補修をしていたということになります。古代でも現代でも技術というものは身についていて始めて役に立つものです。先祖が嘗て何々の技術者であったいうだけでは、何の役にも立ちません。秦氏が、秦の灌漑技術を葛野大堰に活かしたのであれば、彼らは日本に来る直前まで四川の都江堰や朝鮮半島のどこかに彼らが築いた井堰の管理と補修に携わっていたとするべきでしょう。
 さて、巴氐は "はてい" または "はたい" と読みます。音としては秦(はだ)に近いと言えます。また、秦を機織の機(はた)の意味とするのは巴賨の賨に布の意味があるからだとも言えます。秦氏を通説通りの灌漑技術を持ち布を貢ぐ民と見た場合、彼らを巴蜀の地に国を建てた氐族の後裔と見做すことにそれほどの矛盾はありません。都江堰と蜀錦、秦氏がこの二つの技術を持って日本に来たとすれば、また、蜀錦を呉(呉:くれはとり)と見做せば、応神記に載る

かれ命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師、すなわち論語十巻、千字文一巻、并はせて十一巻を、この人に付けて貢進りき。この和邇吉師は文の首等が祖なり。また手人韓鍛名は卓素、また呉服西素二人を貢上りき。またの造の祖、漢の直の祖、また酒を醸むことを知れる人、名は仁番、またの名は須須許理等、まゐ渡り来つ。
《角川文庫『新訂古事記』より》

の記事とも一致します。
 なお、『日本書紀』では、応神37年にも呉織・穴織と縫女の兄媛・弟媛が、また雄略14年にも呉織・漢織と衣縫いの兄媛・弟媛が、呉から来たとなっていて、応神の時代が最初なのか、雄略の時代が最初なのか判然とはしませんが、25章でも述べたように、「文化の渡来」が『古事記』の応神の時代にあり、その時期を漢城百済の滅亡475年以降とすれば、この時期は『日本書紀』では雄略の時代に当たることになります。したがって、これら二つの記事は同じ時期の同じ出来事を述べていると見るべきでしょう。また、この二つの記事は、呉織と穴織あるいは漢織、そして兄媛と弟媛といった具合にどちらも対として表現していることから、多分に作為的な記事とみたほうがいいかもしれません。それに、兄媛と弟媛というのは明らかに織姫を陰と陽とに分けたもののように見えます。また、織姫は織女(しょくじょ)つまり蜀女とも出来、蜀錦を織る織姫とも出来ます。ただし、呉服あるいは呉織が本当の意味での蜀錦に当たるのかは分かりません。また、穴織も漢織も呉の織物らしいのですが、漢(あや)が呉延いては蜀地域とかかわりがある呼び名だとすれば、漢の直の祖もまた秦氏と同じこれらの地域から来たことになるのかも知れません。
 ところで、秦氏の出自については通説では、百済とも、新羅とも、字の通りの秦とも言われています。秦氏自身は、後世になりますが『新撰姓氏録』では秦始皇帝の後裔としています。しかし、「記紀」にはそのような記述はありません。ただ、「記紀」の秦氏に関しての記述は非常に好意的であることから、秦氏が船氏や多氏と親密であった可能性は否めません。『新撰姓氏録』には、雄略の時代に散らばっていた秦の民を、小子部雷が大隅と阿多の隼人を率いて捜し集めたとあります。小子部は多氏の一族ですから、そういった話からも多氏と秦氏との関係がうかがえます。
 思うに雄略紀には、秦の民を集めるとか、子供を集めるとかの話が載っていますが、これらはすべて小子部の職掌、少年を組織して宮門の警備や宮中の雑務をさせていたことから生まれた話で、おそらく、少年の多くが秦氏から集められたことによるものではなかったかとも思われます。と言うのも、秦の子供とは、秦即ち呉服あるいは呉織そのものである絹の子供即ち蚕のことだからです。雄略紀では、天皇が小子部蜾蠃(すがる)に国中の蚕を集めさせたところ、蚕(こ)を子供のことと勘違いをして子供を集めたとあります。
 また、小子部蜾蠃が雷を捕らえたという話も、秦氏が鳴り鏑(矢)を用いる松尾神社(京都市西京区)を氏神としていたことによるものと言えます。『古事記』にはつぎのようにあります。

此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也。
岩波文庫古事記』より》

 鳴鏑(なりかぶら矢)とは雷鳴と電光のこと、つまり蜾蠃が捕らえた雷のことです。ところで、上記下線部を読み下すとどのようになるだろうか。私は、"鳴鏑を用いる" としました。この "用いる" は次のように "餅(を)射る" とも書けます。矢で餅を射て稲がなるという話は、これも秦氏とかかわりのある稲荷神社(京都市伏見区)の縁起の話です。稲荷神社は「記紀」には登場しませんが、『古事記』の神話は後世まで影響を与えていたように見えます。

記紀」について

 「記紀」からの引用がだいぶ増えてきたようですので、またそれらの記事に対しての連想あるいは妄想が多くなっているようにも見えますので、遅れ馳せではありますが、ここで少し「記紀」への私見を述べておきましょう。
 「記紀」を語呂合わせや判じ物の論で語るつもりはありませんが、『日本書紀』の完成が養老4年(720)だということを考えた場合、自然とそういった論に傾いてしまうこともまた確かです。と言うのも、その7年ほど前の和銅5年(712)に、先ず『古事記』が献上され、さらに、その一年後の和銅6年に『風土記』編纂の命が下されているからです。言ってみれば、『日本書紀』は『古事記』や『風土記』をベースにして出来ているとも言えます。ただ、『風土記』に関して言えば、今日残っているのは五つほどの地域とその外の少しの地域の逸文でしかなく、しかも和銅年間のものかどうかも分からないものです。しかし、何々天皇の世とする部分を無視すれば、その故事来歴の多くは歴史的と言うよりも説話や語呂合わせに終始しているようにも見えます。また、『古事記』にしても帝紀旧辞よりなるとは言いますが、最も大事と思われる系譜にしても『日本書紀』には取り入れられていないものも多く、そしてなにより『日本書紀』自身がその系譜に疑問を投げ掛けるような書き方をしてもいるのです。
 無論、『古事記』に関しては『続日本紀』には撰録の記載がなく、『日本書紀』とは何の関わりもない、とする見解もあります。しかし、応神と仁徳が重なり、仁徳と雄略が重なり、そして、ここでは雄略と応神が重なるという構図があります。応神と仁徳が重なるという構図は既に7章でも述べていますように「記紀」が持つ共通の表現、巨大古墳を大みささぎと呼べることに拠るものです。また、仁徳と雄略が重なるのは、現実の墳墓の乱れと「記紀」の墳墓破壊の物語との整合性よるもので、22章以降何度か述べていると思いますが、こうした重なりは言ってみれば一種の矛盾であります。そして、「記紀」共にそうした矛盾を共有することは、一方が他方をベースにしている証と見るべきものと言えます。また、通説にもあるように、両者は同一の資料を利用したのであって、両者の間には直接の関係はないとしてみたとしても、こうした重なりが生まれる背景にどういった資料の想定が出来るかと言えば、これはかなりまとまっている資料でなくてはそういった共通の矛盾は生まれません。つまりは、『古事記』のようなものでなくてはならないわけです。
 私は一素人ですから、「記紀」を読んで理解できないことを無理に理解する必要のある身ではありません。また、素人ですから、ホンのちょっとした共通点や類似点から連想や妄想を育んだり膨らませたりもします。しかし、これを間違ったやり方だという風には思っていません。むしろ、こうしたことが可能だということは、「記紀」そのものが連想や妄想の産物であるためだとさえ思っているほどです。しかし、そうだからと言って「記紀」の記事を否定するつもりもありません。記事を否定してしまっては、連想や妄想の行き着く先を失ってしまいます。
 「記紀」個々の記事についてどうのこうのと批評を加えるだけの力量は私にはありませんが、「記紀」を読み比べて思うことは、『古事記』を元に『日本書紀』を書こうとは思っても、『日本書紀』を元に『古事記』を書こうとは思はないことです。そして、さらに次のようにも妄想します。自分もそう思うのだから古代人もまたそう思うのではないだろうかと。現代から古代を推し測ることは適切とはいえませんが、現代の素人が古代の素人を推し測ることに何ら不都合は生じないはずです。
 ところで、素人がなぜ古代史に顔を突っ込むのだろうか。それは専門家にも解けない謎があるからです。専門化にも解けない謎を素人が解こうとする。滑稽といえば滑稽な話ではありますが、必ずしも道理から離れているという訳ではありません。例えば、専門家をAと置き、素人をその否定形の-Aとし、謎の答えをXとした場合、専門家に解けない謎は次のような式で表わせます。

A=-X

このままでは謎は解けませんから、専門家のAに素人の-Aを代入します。すると

-A=-X ⇒ A=X

となって、この謎は解けることになります。つまり、謎に対しては素人が専門家になるという構図です。あるいは、これこそが妄想なのかも…

§26 船氏と大化。

 史部の設置は雄略の時代に遡ります。雄略紀には何人かの史の名が載ってはいますが、史の任命記事はありません。史の任命記事の初出は欽明紀にあります。欽明14年、王辰爾が船史の姓を賜ったとあります。また、同30年、王辰爾の甥の膽津が白猪史の姓を賜ったとあります。そして、敏達紀では今度は王辰爾の弟の牛が津史の姓を賜っています。思うに、史の最初は王辰爾の一族で占められていたのではないだろうか。それがために、史の共通の祖先としての王仁の名が創り出されたのではないだろうか。
 無論、そうしたことは、『日本書紀』にかかわりのある船氏の身贔屓と言えなくもないわけではないのですが…

船氏と高麗

 欽明紀によれば、王辰爾が船史に任命されたのは樟勾宮に天皇行幸した時でのことになります。樟勾宮が何処にあるのかは分かりませんが、王辰爾や弟の牛が船史や津史に任命されていることから、おそらく近くに津をひかえた高床式倉庫群の一角にでもあったのではないかと思われます。そして、この兄弟もまた津近くに居を構え、船や津に関係する職務に携わっていたものと思われます。
 当時と比べるにしても、あるいは古すぎるかもしれませんが、「魏志倭人伝」に次のような記事があります。

王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、及び郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を傳送して女王に詣しめ、差錯することを得ず。
岩波文庫魏志倭人伝…』より》

 以上下線部の記事は「倭人伝」が一大率と記す官人の職務の一部です。文書や荷物の仕分けは文字を読める者にしかできないことです。あるいは船氏は先祖代々そうしたことに携わってきた一族なのかもしれません。それに当時といえど、下線部の職務は卑弥呼時代からそれほどの変化はなかったと思われます。ただ、時代と共に扱う物資の量が大幅に増えた、これは歴史の流れとしては当然の成り行きでしょう。そして、彼らの職務も単なる仕分けから文字による記帳管理へと変わって行ったということなのでしょう。
 欽明紀には、王辰爾は船の税の記録をさせられたとあり、また、甥の膽津が白猪の屯倉の戸籍を作らされたとあります。このことから、欽明以降の史の主要な業務が租税の記帳管理であったことが分かります。そして、この時期から史の数も増え彼らの活躍も活発になって行くのだと思います。
 ところで、王後墓誌の当人、墓誌によれば舒明天皇の代に大仁を賜り活躍をしているはずなのですが、肝心の舒明紀には彼の名前どころか船史さえも載ってはいません。ただ、先代の推古天皇の17年に船史龍が、肥後国葦北の港に暴風に遭って漂着した百済の船へ遣わされたとする記事があります。このことから敏達の時代、船史が漂着した高麗との対応にも当たっていたと想定できます。敏達紀によれば相楽(京都府相楽群)に高麗人用の館があったとされていますから、船史はそこで高麗人と応対していたことになります。
 当時、ただし敏達の時代ではなく舒明以前の時代に置き換えるのですが、高句麗新羅百済に出兵していた時期があります。その場合、高句麗は直接日本海を渡って日本に来るわけですが、はたして彼らが日本海を渡って帰還できたのか疑問が残ります。欽明紀では彼等のためにわざわざ相楽に館を作らせていることから、彼らが長期にわたって相楽に滞在していた可能性があります。いや、そればかりか彼らがそこに住み着いた可能性さえあるのです。
 高句麗が日朝交流のメインルート対馬経由で日本と往き来できるようになったのは、百済高句麗が手を結んだ642年以降のことです。しかし、その642年に高句麗では淵蓋蘇文によるクーデターが引き起こされています。淵蓋蘇文の手によって殺されたのは栄留王以下重臣貴族180数名といわれています。この年まで、高句麗日本海経由で何度来日していたのかは分かりませんが、多くの高麗人が帰国できなくなった可能性は大と言わねばなりません。そして、船史と彼らとの交流はさらに延びていったものと思われます。
 日本と高句麗との交流がいつ頃より始まったかは推測する他はないのですが、好太王碑が示すように基本的には日本と高句麗とは敵対関係にあったと見るべきでしょう。また、日本から見ても高句麗は対中国外交行路よりも離れており、対高句麗外交のメリットはなかったものと思われます。したがって、交流の発端は高句麗側の一方的な事情によるものとするべきでしょう。つまり、高句麗が日本との交流にメリットがあると感じ始めたということです。そして、その時期を高句麗と隋との関係、さらには百済新羅との関係も険悪さを増した612年前後と見てもそれほどの大差はないでしょう。
 思うに、高句麗の外交使節団は非常に豪勢であったと考えられます。欽明紀には高句麗の献上物が横領されたという記事があるほどです。なお、推古13年(605)に高麗国の大興王が飛鳥寺の大仏のための黄金三百両をたてまつったという記事がありますが、この記事の前には新羅遠征の記事があることを考慮すれば、この記事は唐と新羅が同盟を結んだ648年以降とした方がより史実に近くなります。と言うのも『日本書紀』には大化3年(647)に新羅の金春秋が来日したともあるのです。そしてなにより、『隋書』は607年以前の倭について"兵ありと雖も征戦なし"としていますし、また新羅百済が倭を大国として敬仰し、常に通使・往来をしているともしています。そもそも推古紀には阿毎多利思比孤が入るのですから、推古13年の記事は割り引いて読まなければなりません。しかも、この記事の行方によっては、飛鳥大仏は648年前後に作られた可能性が浮かび上がってもくるのです。そして当然のことですが、飛鳥大仏の像造年が変われば、飛鳥寺の創建年も変わります。

大化は仏教公認の年号

 飛鳥寺は『日本書紀』では、法興寺元興寺、大法興寺といった呼び名で出てきます。 元興寺という呼び方は元法興寺という意味だと思いますが、大法興寺とはどういう意味なのでしょうか。天武9年に飛鳥寺は元は大寺であったとする記事があることから、大寺としての法興寺とも受け取れなくもないのですが、普通、大寺の呼び方としては何某大寺といった寺名になると思います。あるいは、(小)法興寺に対しての大法興寺とした方が善いのかもしれません。その場合、(小)法興寺というのは法隆寺の前身である若草伽藍とするべきかもしれません。
 法興寺という呼び名は、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にある法興という元号を記念してのものと思います。本来、釈迦三尊像は若草伽藍に安置されていたもので、若草伽藍焼失後に法隆寺に安置されたものでしょう。また、若草伽藍の仏像が尺寸王身像であるのに対し、飛鳥寺の仏像は丈六像であることから寺の呼び名に大が付いたものとも言えます。また、大を付けたことから、飛鳥寺は若草伽藍よりも後に出来た寺という事にもなります。 ただ、飛鳥寺と若草伽藍とでは伽藍配置が異なっています。しかし、飛鳥寺の三金堂は中金堂と東西の2金堂とではその造りが異なっています。東西の2金堂を後の建て増しとすれば、飛鳥寺も本来は若草伽藍と同じ四天王寺式の伽藍配置であったとできます。
 崇峻即位前紀によれば、四天王寺飛鳥寺は同じ時期に同じ気運の元で出来上がったと読み取れます。敏達(舒明)の廃仏の時代から用明の崇仏の時代へと歴史が大きく変わり始め、造寺造仏への気運の高まりのなかで、その法興の原点を釈迦三尊像や若草伽藍に求めたということなのでしょう。崇峻元年には百済から来た聆照律師以下6名の僧に蘇我馬子が受戒の法を請うています。そもそも、国が正式に仏教を取り入れるということは、受戒によって僧を誕生させるということなのです。
 さて、24章では崇峻紀を孝徳紀に移動させました。崇峻元年は孝徳元年、つまり大化元年です。大化元年8月8日に次のような記事があります。

故に、沙門狛大法師福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣を以って十師と為す。別に、恵妙法師を以って百済寺寺主と為す。

 この記事から、この時点で僧であったのは寺主の旻だけであったことが分かります。また、寺主は僧でなければならなかったようにも見えます。そうなりますと、この時点より前にある寺は、もしかしたら僧旻が寺主となっている、おそらく若草伽藍(法興寺)ただ一つだけだったのではなかったろうか。そして、この時に出来始めていた寺が百済大寺だったのではないだろうか。用明紀から崇峻紀にかけて丈六の大仏造りの記事があります。おそらく、大仏、大寺、大化は当時の仏教徒が待ち望んだ機運当来を告げる合言葉だったのかも知れません。大化は道登や恵妙に取って記念すべきものだったはずです。
 思うに、宇治橋を構築したのが道登であれ道照であれ、彼ら僧の未来に橋をかけたのが用明天皇なのです。宇治橋の大化2年は、この天皇の崩年を記念してのものと見るべきでしょう。

船氏の前身

 さて、この宇治橋を西に渡り大和へ向かえばやがて木津川に突き当たります。京都府木津川市に高麗寺跡と呼ばれる寺院跡があります。創建が飛鳥時代に遡るとされる古い寺院跡で、私は相楽の高麗の館とかかわりがあるのではないかと思っています。ここは現在木津川市ですが、町村合併以前は相楽郡山城町大字上狛と呼ばれています。
f:id:heiseirokumusai:20171009222640g:plain  高麗寺跡は1938年以来本格的な発掘調査が何度か行われています。それによると、飛鳥寺と同じ軒瓦が使われてもいるし、川原寺(奈良県明日香村)と同じ軒瓦が使われてもいるそうです。普通には飛鳥寺の瓦が創建時、川原寺の瓦がその後という事になるのですが、伽藍配置はどう見ても飛鳥寺式あるいは四天王寺式よりも川原寺式に近いように見えます。ただし、正確には法起寺式になるということだそうです。
 高麗寺は、上図からも分かるように奈良街道に添って築かれた古墳列の延長線上にあるようにも見えます。あるいは、これら古墳群を築いた後裔氏族の手による寺なのかもしれません。ところで、高麗寺を一字の寺名にするとどうなるでしょうか。おそらく狛寺となるはずです。
 船氏の氏寺と目される野中寺、この寺に伝わるのが丙寅年の銘文を持つ銅造弥勒菩薩半跏思惟像です。銘文は本像台座の框(かまち)部分にあって、栢寺智識が中宮天皇のために作ったとする内容が記されています。しかし、銘文中には難解なものもあり、例えば栢寺ですが、実は未だに何処にある寺なのか分かっていないそうです。一説では橘寺(奈良県高市郡明日香村)のことだとも言われていますが、定説とはなっていません。
 私は、素人としてですが、栢寺は狛寺のことではないかと思っています。無論、犭偏と木偏とでは大きな違いがあります。しかし、漢字としての読みは同じ「はく」ですから、狛が栢に変われば善いわけです。そこで、これを変えてみましょう。

友等人数一百十八
《16章に全銘文があります。》

 上に載せたのは銘文の一節です。この一百十八の一の位置に十八を押し込むと栢という漢字になります。つまり、木は十と八より成るわけです。それとも、木を「こ」と読み、百を「も」さらには「ま」と読めば、栢寺は「こまでら」と読めます。馬鹿馬鹿しいと言われればそれまでの事ですが、栢を橘とするよりは善いと思うのですが。なお、栢は俗字で、柏が正しいとか。

丙寅年四月大旧八日癸卯開

 これも銘文の一節です。最後に「開」とありますが、これは暦注の一つ十二直の中の11番目に当たるものです。暦注というのは、その日の吉凶を暦に記したものです。内容としては、その日に何々をしてはならない、あるいは何々をすると善いといった類のものです。詳しくは省きますが、当時既に暦注が流行っていたようです。また、四月八日というのも釈迦の生まれた日を祝っての灌仏会(かんぶつえ)に当たります。思うに、この弥勒菩薩像は縁起の善い日を選んで造られたようです。狛を栢としたのは、寅年の卯の日は五行では "木" となりますから、これに合わせたということなのかもしれません。
 船史は文字に長けた人たちであり、また当時の大陸の最先端の文化に直に接していた人たちでもあります。暦や暦注や灌仏会を日常に取り込んでいたとしても不思議はありません。それに、彼らの先祖が漢字仮名や万葉仮名を発展させた可能性もあります。船の仲間に舶があります。狛、柏、舶、いずれも "はく" と読めます。あるいは、狛を "こま" と読ませたのは船氏なのかもしれません。
 船氏が船や津を管理していた以上、その主要区域である淀川水系に深くかかわっていたことは確かでしょう。当時の淀川水系で最も賑わっていたのが宇治の渡し場と木津の渡し場であったことは奈良街道沿いに古い古墳列のあることからも想像できます。船氏の一族がそれらの地に根を下ろしている可能性もあります。また、淀川水系を通して秦氏との接触があったことも確かでしょう。あるいは、秦や漢を "はた " 、"あや" と読ませたのも船氏なのかも知れません。
 船氏は墓誌銘や欽明紀にあるように中国系漢人の王氏であることは確かです。さて、漢人でありながら異民族の王朝の覇業に貢献した宰相に王猛(おうもう、325~375)がいます。前秦(351~394)の3代王苻堅(ふけん)はこの王猛を重用して華北統一に成功し、前秦の全盛期を築きます。この時、高句麗新羅など朝鮮半島の諸王朝は朝貢して服属したといいます。また、その時苻堅は大秦天王と称していたとも言われています。
 前秦は王猛の死後十年足らずで斜陽に向かい始めます。そして、その後十年足らずで滅亡しています。思うに、この時期に王猛の一族が朝鮮半島に向かったのではないかと。彼ら王猛の一族は、異民族の中で功を成した人たちです。彼らが異民族のそのまた異民族に身を投じることはありうることです。仮に彼らが朝鮮半島に達したのが400年前後だとすれば、倭が半島で活動していた時期に当たります。もし、彼ら王猛の一族の消息が半島では得られないのだとすれば、彼らが直接日本に来た可能性もあります。また、渡来したのが王猛の一族だけではなく前秦の民も一緒だったとすれば、彼らこそが秦の民ということにもなります。

§25 船氏の道標。太安万侶の道標、その25。

 古墳は巨大なモニュメントである。しかし、古墳が我々に語りかけることはなく、大きな沈黙のままに横たわっている。我々に語りかけるのは、決まって歴史家であり考古学者でありそして政治家である。しかし、誰の墓かと尋ねれば、政治家以外は決まって沈黙を保つ。今日の古墳の多くは、政府役人が立てた政治的神話の立て札の前で口を閉ざさざるを得なくなっている。
 それにひきかえ、歴史神話を掲げる「記紀」は饒舌である。しかし、同じ饒舌でも『古事記』と『日本書紀』とではかなりの違いがあります。『古事記』は必要以外には寡黙であるが、『日本書紀』は必要以上に饒舌なのです。
 1979年(昭和54年)1月23日、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓と墓誌が発見されています。その墓誌には、

左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之養老七年十二月十五日乙巳

とあるのみで必要以上のことは記されていません。
 太安万侶が、『古事記』だけではなく、『日本書紀』の編纂にも携わったとする「弘仁私記序」を信じているわけではありませんが、「記紀」は誰かが書き残したものであることに違いはありません。私は、その誰かを太安万侶としました。たとえそれが間違っていたとしても、歴史が覆るわけでも「記紀」が反古になるわけでもありません。
 考古資料が発見されるたびに歴史が塗り変えられている今日の歴史界。しかし、それによってこれまでの研究成果が反古になったわけではないはずです。なぜなら、そうした資料の発見は全くの偶然にもよるものもあるでしょうが、やはり何らかの見当があっての成果だと思います。発掘や調査には多大の資金と時間が費やされます。何の見当もなくそれを行うことは出来ないはずです。つまり、そうした見当をつけることが出来るのは、これまでの研究によるところが大きいのではないだろうか。
 幸いなことに『日本書紀』に関しては、先人先学の御蔭で、船氏や上毛野が編纂に携わっていることがおおよそ定説となっています。船氏は王後墓誌の子孫、上毛野は稲荷山鉄剣の主の乎獲居臣とかかわりのある氏族。どちらもその銘文が示すごとく先祖や家系を重んじる人達です。『日本書紀』の饒舌の中に彼らの真意が埋もれていると見当をつけたとしても、強ち悪い結果になるとは思えません。

船氏と毛野氏

 渡来系の船氏の本拠地は河内国丹比郡野中郷(大阪府羽曳野市)とされています。この地は、西に河内大塚山古墳、中央に誉田御廟山古墳を有する、いわゆる河内王朝発祥の地であると共に終焉の地でもあります。また、この地はかって西史(河内の史)と呼ばれた渡来人の本拠地でもあります。船氏も史(ふひと)ですから、普通なら西史となると思うのですが、敏達紀では東西の史と船史とを区別して扱っています。それは、誰も読み解けなかった高麗の国書を王辰爾(船史祖先)が読み解いた時、天皇と大臣が共に東西の史全員よりも船史王辰爾一人の方が優れていると賞賛したとする記事からもうかがえます。ただし、船氏も王辰爾が船史つまり船氏となる以前は単なる西史であったのかもしれません。なお、東西の史とは西史と東史(大和の史)のことで、「記紀」は百済からの渡来人としています。
 史のほとんどは渡来系ですが、その前身についてはよく分かっていないようです。船氏についても同様で、王後墓誌が唯一の、ただし手掛かりでしかありません。「記紀」によると、応神天皇の時代、百済国から先ず阿直史(阿直岐史)の祖の阿知吉師(阿直岐)が馬を2匹連れて来朝し、その後から文首(書首)の祖の和邇吉師(王仁)が論語十卷と千字文一卷を持って来朝したとあります。しかし、彼らが後世のどの史に当たるのかは「記紀」の記事からは判断できません。あるいは継体を応神に結びつけたように史もまた応神に結びつく先祖を創りあげたのかもしれません。と言うのも、王後墓誌(16章に記載)には船氏の中祖である王智仁首の名があります。そして、この王智仁から阿知も王仁も作ることができるのです。思うに、王智仁の一族が渡来系史の最初の出世頭であり、しかも尚且つそれによって史の地位を向上させることになったしたら、史の共通の先祖としてのこうした話が出来上がったのではないかと… なお、()内は『日本書紀』の表記です。
 ところで、『日本書紀』には、王仁来朝に際し、上毛野の先祖を百済まで迎えに遣らせたとあります。思うに、倭の五王の時代、毛野の関東地域は租税の代わりに兵士を朝鮮半島に送り込んでいたのではないだろうか。安閑紀の屯倉の記事のほとんどが関東地域で占められているのは、半島での兵士の活躍の場を失った倭王が兵士の挑発から本来の租税の徴収へと政策を変更したことに由るものではないだろうか。
 後世、とはいっても奈良時代ですが、『万葉集』には防人歌と呼ばれているものがあるといいます。防人(さきもり)のために徴用された兵や、その家族が詠んだ歌で、関東地方など東国の言葉が使われているものが多くあるそうです。これも嘗て東国から朝鮮半島向けの兵士を徴用していたことの余波と考えられます。また、装飾古墳と呼ばれている一群の古墳を鑑みた場合、それらのほとんどは中北部九州を中心として分布しているのだそうですが、なぜか畿内地域を通り越して関東地域にもう一つの分布の中心地があるとのことです。分布域は、九州では福岡県南部から熊本県北部に、関東では茨城や福島といった北関東地域に集中しているのだそうです。実は、これら二つの地域も朝鮮半島向けの挑発兵の関係で結びつくのです。

毛野と磐井

 継体21年、近江毛野臣が兵6万を率いて任那に向かおうとした時、筑紫国造磐井が反乱を起こします。実は、この磐井の勢力範囲と装飾古墳との地域が重なり合うのです。そこで、近江毛野臣を単に毛野臣とし彼が率いた兵を毛野地域、つまり北関東からの徴発とすれば、装飾古墳の分布の関係から、当時半島で活躍していた倭兵のほとんどが九州の福岡県南部から熊本県北部にかけての徴発兵と北関東からの徴発兵とであった可能性が浮かび上がってくるのです。
 想像力を逞しくすれば、東に杖刀人首がいて、西には典曹人首がいたということです。杖刀人首は乎獲居臣あるいは近江毛野臣、典曹人首は筑紫国造磐井となります。この構図は竜虎相打つの形で、物語では磐井が近江毛野に 「昔は仲間として共に釜の飯を食った仲ではないか、なぜ命令するか」 と詰問していることから、嘗ては彼ら二人は共に天下を佐治していた仲なのかもしれません。
 私は、磐井の乱については武蔵国の争いの物語と同じ趣旨によるものと観ています。どちらも煎じ詰めれば屯倉の献上につながります。そして、この話は安閑紀以降にこそ相応しいのではないのかと。つまり、九州地区に於いても半島への兵の挑発よりも従来の租税への切り替えが起こったということです。また、天下を左治した杖刀人首を稲荷山古墳のある武蔵国に固定する必要はなく、磐井が北部九州一円を取り仕切ったように乎獲居臣も関東一円を取り仕切っていたと見るべきでしょう。と言うのも、景行紀には彦狭島王を東山道15国の都督にしたとありますし、景行記には東の国造といった表現もあるからです。
 継体紀に特定の個人に広範囲の国を任せるという記事があります。継体天皇が磐井討伐に向かう物部麁鹿火に対し「筑紫より西はお前が好きなように統治しても好い」という記事です。思うに、これは本来磐井が持っていた権限だったのではないだろうか。首は大臣クラスです。首ならその程度の裁量は任されたと思います。磐井が典曹人首であった可能性は大きいと言わねばなりません。なお、東山道15国を任された彦狭島王は、崇神紀に載る上毛野と下毛野の祖である豊城入彦命の孫です。
 近江毛野臣については、継体紀以外には何の情報もありません。また、彼を近江の臣とするか毛野の臣とするかという問題もあります。継体紀での用例は、先ず近江の毛野臣とし、それ以降は毛野臣だけの使用となっていて近江臣という用例はありません。しかし、彼は病死後、淀川を遡って近江へと運ばれています。近江が彼の本拠地であることは確かです。しかも近江は東山道の始発点でもあります。東山道は、近江、三野、科野、毛野、陸奥へと順次延びているのです。つまり近江と毛野は東山道を介して繋がっているとも言えます。崇峻紀には、その2年に近江臣満を東山道に遣わして蝦夷との国境を観させたとする記事があります。近江臣が毛野とかかわりのある立場にいることだけは確かと見えます。ただ、しかし、この記事を最後に近江臣は歴史から消えています。
 ところで、推古紀に小徳近江脚身臣飯蓋なる人物の名前があります。読みは、近江の脚身(あなむ)の臣飯蓋(いいふた)となるのですが、彼を近江臣とするのが善いのか、それとも脚身臣とするのが善いのか迷うところです。ただ、この人物もここに名前を載せただけで以降のことは不明です。思うに、近江は後に壬申の乱の舞台となる所です。あるいはそれによって滅んだのかも知れません。また、近江は畿内とはいっても、嘗ては倭王武の言う毛人と接していた可能性のある所です。言ってみれば、近江の隣が毛野ということになりかねません。近江に毛野臣が居てもおかしくはないのかも知れません。しかし、毛野に関してはおかしなことがあります。

毛野と田辺史

 おかしなことに、「記紀」には国としての毛野の用例がありません。あるのは上毛野と下毛野です。また、氏族としても上毛野と下毛野がありますが毛野氏はありません。通説では、嘗ては毛野国や毛野氏があったが何時の時代かに上下に分かれ、分かれてからのことのみが記されているのだとしています。しかし、嘗て無かったかもしれない神武や欠史八代が記されていて、嘗てあったかもしれない毛野が記されていないというのは素人にはどうしても合点がいきません。それに、『日本書紀』では上毛野が毛野を代表するように描かれているのも奇異な気がします。
 「記紀」編纂の時点で、上毛野が下毛野よりも勝っていたのは歴史的事実でしょう。国としても上毛野は大国、下毛野は上国でしかありません。しかし、そうだからといって先祖の出る度に上毛野の祖とするのは少し度を越しているようにも見えます。これでは上毛野から下毛野が分かれたようにも見えます。思うに、『日本書紀』編纂の折、その下準備をしたのが史であった可能性があります。上毛野の一族に田辺史がいます。田辺史は藤原不比等とかかわりがあるとされる史の一族です。雄略紀にはこの田辺史の物語が載ってもいます。上毛野の出自に関しては疑う必要があります。ただしかし、雄略紀の物語には田辺史の道標もまたあるようです。
 物語によると、田辺史伯孫は応神天皇の馬、ここでは埴輪の馬ですが、それと自分が乗っていた馬とを取り替えたということなのですが、このことは田辺史が乗馬に長けていたこと、そして応神とかかわりのあることを教えています。応神と史と馬、これは応神期に百済から来たという阿直岐の関係と同じです。阿直岐古事記では阿知吉師ですが、彼は大和の軽の坂の上の厩で馬を飼ったとされ、通説では倭漢直の祖である阿知使主と同一視されています。『日本書紀』では、阿直岐と阿知使主を別人として載せていますが、これは東西の史、東西の漢直とその文直のそれぞれの先祖を区別するためのもので、そもそもこれらは前述したように作為的な先祖名の可能性があるのです。また、田辺史伯孫の伯孫にしても、これは馬の良否を見分ける名人伯楽の名を借りたものと見えます。
 そうした観点から上毛野を見てみると、上毛野の系譜は崇神紀に始めて載るのですが、次の垂仁紀には早くも先祖の活躍が載っています。これは、大彦の系譜が孝元紀が初出でその活躍記事が崇神紀、また、武内宿禰の系譜がやはり孝元紀が初出で活躍記事が景行紀というのと比べると、上毛野がいかに贔屓されているかが分かります。
 思うに、継体紀以降の半島の記事は、日本が如何にして半島からの撤退を余儀なくされ たか、そして、その責任が誰にあるかということのみに終始しているように見えます。ここでは近江毛野がその責任を背負わされている模様です。しかし、6万もの大軍を率いていながらその前身も後身も不明という事は、あるいは単なるスケープゴートなのかもしれません。
 『日本書紀』関与の痕跡を残す田辺史。天武朝で帝紀と上古の諸事の校訂に携わっていた上毛野。彼らの系譜や出自は当然疑うべきものです。また、彼らが系譜上同族となる前の最初の出会いが応神朝にあったことも、あるいは疑わなければならないことなのかもしれません。
 これは私論ではありますが、私は応神は倭王武ではないかと思っています。『新訂 古事記』(角川文庫発行 武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説)は、応神記の渡来人の記事の小見出しに「文化の渡来」を掲げています。正にその通りだと思います。そこで半島、特に百済からの渡来人が最も多く来たと思われる時期を探してみますと、高句麗百済の王都の漢城を攻め落とし蓋鹵王を殺害した475年にたどり着きます。そしてその3年後の478年に倭王武が宋に宛てて上表文を出しているのです。その文面には句驪無道といった表現があり、高句麗百済を滅ぼし尚且つ宋への朝貢の道を塞いでいるとの非難を述べています。
 武が上表した478年は、百済が南の熊津(ゆうしん)に国を再興して間もない頃で、文周王(475~477)、三斤王(477~479)共に2年そこそこの治世で終わるという、国家としては非常に不安定な時期といえます。この時期に倭王武が『宋書』に残るほどの上表文を提出し得たのは、やはり半島からの文化の渡来があったからではないだろうか。
 さて、史の中で半島以来の姓を持つ者は『日本書紀』では船氏だけのように見えます。壬申年将軍で始まる墓誌を残した文忌寸の祢麻呂にも半島以来の姓はありません。このことは、史や漢直のほとんどは無姓のまま日本に来たことになります。彼らが技術を持っていたことは確かと思われますが、文字を自由に操れるほどの文化人であったかどうかは疑問です。そうした彼らに、応神朝に彼らの先祖の阿知岐や王仁が来たなどとする伝承が実際あったのか如何か、これもまた疑問という他はないでしょう。
 本題からは随分と逸れてしまいましたが、続きは次にいたしましょう。

§24 大王の系譜を篩う。

 すべての物事を陰陽的に捉える。これは決して好ましい態度ではありません。しかし、小さな砂粒にさえ影があるように、物事は意外なほど陰陽的に出来ています。
 さて、陰陽は捉えかたによっては相反するものが同時に存在して一見矛盾しているように見えます。継体を陰陽に分けたのも、継体紀がその名とは裏腹に、分注の内容から断絶しているようにも読めたからです。もし、継体紀をその名通りの継体紀にしたいなら、継体紀を継体紀の後に持ってこなくてはなりません。そうすると、継体紀は辛亥年(531)を境として、前半分が断絶紀に、後半分が継体紀となります。これを時系列の表として示すと次のようになります。

  亥年  
断絶紀 継体紀
雄略紀 清寧紀 安閑紀 宣化紀 欽明紀
  武烈紀 顕宗紀 仁賢紀  
大仙陵古墳 大塚山古墳

 少し説明を加えますと、継体紀を継体紀の後ろに持ってきたわけですから当然安閑紀と重なります。また、顕宗・仁賢は断絶王朝を引き継いだいわゆる継体王朝の始祖ですから、これも此処に重なります。次に、継体王朝の前に位置するのは断絶王朝ということになりますから、此処には断絶した王朝が重なることになります。清寧や武烈は断絶した王朝ですから当然此処に重なります。そして、これを表として書き示したのが上の表です。ただし、重ねたままでは書き表わせません。そこで、これを並列に改めて書き表し、上の表としました。
 さて、この表から何が言えるのかというよりも何が言いたいのかということになるのですが、実は「記紀」には設計図があるということです。ここでの場合は『日本書紀』となりますが。例えば、前回は継体が陰陽に分かれ、今回は継体紀が陰陽に分かれました。そして531年を境として断絶王朝とそれを引き継ぐ王朝、ここでは継体王朝と呼んでいますが、それらが上の表のように整理が出来るという事実です。22章では、継体紀の最後の分注を安万呂の道標と呼びましたが、実はこの道標は「記紀」の設計図、私が安万呂の遺産と呼んでいるものへと導くためのものなのです。
 本来、「太安万侶の道標」は拙稿「太安万侶の遺産 記紀の設計図」の補助編として書き始めたものです。拙稿もいずれこのブログで披露することになります。それで、ここでは「記紀」の設計図についての説明は省きますが、上の表のようなことが他でも起こるということを示しておきましょう。そこで、上の表については一度伏せてください。

大王の篩、大王墓と日本書紀

 前章と前々章とで大仙陵古墳の次に来る大王墓を河内大塚山古墳とし、さらにその次を見瀬丸山古墳としました。また、大仙陵と大塚山古墳の被葬者として、前者には清寧と雄略を、後者には顕宗と仁賢を挙げました。丸山古墳の被葬者については未だですので、ここでおおよその目鼻を付けておきましょう。
 これまでの流れ(継体を清寧に宛がったと思います)から、先ず思いつくのが安閑と宣化でしょうか。誰もが知るように、丸山古墳の石室には二つの石棺が安置されています。また、この二つの石棺については、奥にあるほうが新しく、羨道口にあるほうが古いということが分かっています。横穴式石室の場合、単純に考えれば、奥の新しい石棺に眠っているのが弟で出口近くの古い石棺に眠っているのが兄ということになります。そういう意味では安閑と宣化は最適となります。しかし、この墳墳は安万呂の道標では常に上宮法皇の陵墓となっています。ただ、この古墳の地は檜隈と呼ばれていることから、被葬者の一方を檜隈天皇つまり宣化とすることは可能かもしれません。
 残念ながらこれ以上は煮詰め切れませんので、とりあえずこれまでのことを少しまとめて表にしてみましょう。下のようになります。なお、丸山古墳には宣化と上宮法皇ということなのですが、『日本書紀』では宣化の次は欽明ですので欽明とします。また、上宮法皇の治世は推古朝の途中までということでもあり、推古朝は残しています。

大仙陵 大塚山古墳 丸山古墳
雄略 清寧 顕宗 仁賢 武烈 継体 安閑 宣化 欽明 敏達 用明 崇峻 推古
雄略・清寧朝 顕宗・仁賢朝 宣化・欽明朝

 上の表を見ていますと、と言うよりも大王墓の数を限ってしまったのですから、大王の方が余ってしまうのは当然と言えば当然なのですが、とにもかくにも大王も篩い落とさなくてはならないようです。篩い落とすのはaとbの箇所の6名です。先ず、答えの出せそうなbから始めてみましょう。
 なお、答えが出せそうというのは、16章でも述べたことですが、用明天皇のために作られた法隆寺金堂薬師如来像の光背の銘文中の造像紀年干支丁卯年を667年とする考えに立つことでこれが解決できるからです。さて、今日、この像が実際に作られた時期は、彫刻様式や銘文の書風等から7世紀後半以降と考えられています。つまり、この銘文は事実を告げているということです。そもそも丁卯の歳をを607年とすることの方が間違いなのです。607年は『隋書』の阿毎多利思比孤の世であって、推古の御世ではありません。
 思うに、『日本書紀』の最大の欠陥は、神武東征譚や欠史八代等の有ることではなく、『宋書』や『隋書』から大きく逸脱していることにあります。神武東征や欠史八代は歴史や考古学には何の影響も与えません。しかし、『宋書』以降の『日本書紀』の編年は考古学遺物の編年にも影響を与えるもので、その不正確さは古墳や寺院の編年の致命傷となりかねません。例えば、法隆寺の再建か非再建かをめぐって歴史界を二分する論争を巻き起こしたのは、天智9年(670)に法隆寺は一屋余すところなく焼失したという記事が『日本書紀』に載っていたためです。
 現在、焼失したのは現法隆寺ではなくその前身伽藍、いわゆる「若草伽藍」であることが発掘調査に拠り判明しています。しかし、この記事がなぜ天智紀に載っているかについては誰も問題とはしていません。素人目にすれば、この記事に対しての結論は一つしかありません。それは、焼失したのが法隆寺の前身伽藍だとすれば、天智紀が指しているのはこの伽藍ということになります。したがって、この記事は我々に、天智紀をその時期に移動させるかさもなくば天智紀を抹消するかのいずれかを迫っているのだということです。そして、いずれを選んだにせよこの箇所には天智紀ではなく、別の何かが入ることになる他はないのです。つまり、この箇所には、法隆寺金堂薬師如来像光背銘が入るのです。
 そうなると、薬師如来像光背銘にある用明天皇の崩年干支と思われる丙午年は646年となり、少なくとも用明の兄弟、敏達以下の三代は干支を一巡引き下げることが可能となってきます。三代の行き先は、敏達が舒明へ、用明は皇極へ、崇峻は孝徳へとそれぞれが移ることになります。そして、推古の後半は船氏王後の墓誌に載る等由羅宮治天下天皇の御世となり、同墓誌に載る乎沙陁宮治天下天皇は上宮法皇かつ阿毎多利思比孤かつ欽明ということになります。これらを表に纏めてみますと次のようになります。なお、背景色のある呼び名は金石文からのものです。

宣化 欽明 推古(豊浦) 舒明 皇極 孝徳 推古(小治田)



檜隈天皇
阿毎多利思比孤
志帰嶋天皇
乎沙陁天皇
上宮法皇


等由羅天皇


阿須迦天皇



池邊天皇
崇峻天皇
天智天皇




小治田天皇
~585? ~622 ~628 ~641 ~646 ~662 ~671

 上の表を、この場で直ちに是とする決め手も力量も私にはありませんが、これから述べることからある程度の賛同はいただけるのではないかと思います。
 舒明紀に敏達紀を宛がった場合、船氏王後墓誌の記事と敏達紀の船氏の逸話とが整合します。また、法隆寺金堂釈迦三尊像(623)以降、野中寺弥勒像(666)までの半世紀近く天皇のための造仏が行われていません。これも舒明を廃仏派の敏達と見做せば、整合が取れます。なお、孝徳に崇峻ばかりでなく天智も宛がわれていますが、孝徳紀は大化の改新の主役である天智と鎌足が拓いたというのが『紀』の主張と見ればこれもありうることだと思います。ただし、ここでは大化は孝徳の年号ではなく池辺天皇の年号となります。
 思うに、法興が上宮法皇の仏教帰依を記念しての年号であったように、大化は用明天皇の仏教帰依を記念しての年号と捉えた方がより自然ではないだろうか。また、用明が仏教帰依を記念して大化という年号を定めたのは、舒明朝が廃仏を行っていたこととかかわりがあるというのが私の考えで、以下これについて少し述べることにします。

船氏の道標

 京都府宇治市宇治東内の放生院、通称橋寺にある宇治橋断碑に次のような碑文が刻まれているます。

浼浼横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿
世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家 大化二年 丙午之歳 搆立此橋 済度人畜
即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁

以下続けて、学生社発行『古代日本 金石文の謎』 堀池春峰 宇治橋断碑よりの引用。

浼浼たる横流 その疾きこと箭の如し 修々たる征人 騎を停めて市を成す 重深に赴かんと欲して人馬命を亡なう 古より今に至るまで 航竿を知ることなし
世に釈子有り 名を道登と曰う 山尻慧満の家より出ず 大化二年 丙午の歳 この橋を搆立し 人畜を済度す
即ち微善に因り ここに大願を発し 因をこの橋に結び 果を彼岸に成す 法界衆生 あまねくこの願いを同じくし 夢裏空中 その昔縁を導かん

 断碑はその名前が示すように、上部三分の一ほど、背景色のある部分だけが残されていたものを江戸時代に下部を復元してつなぎ合わせたものです。したがって、復元された部分が原文通りであるかは分かりませんが、上部碑文に「道登」とあることから「大化二年 丙午之歳」の部分は元碑文に近いように思われます。と言うのも、道登は大化元年に沙門狛大法師等と共に十師に選ばれたと孝徳紀にあるからです。また、『日本霊異記』にも道登が大化2年の丙午に宇治橋を作ろうとしたともあります。
 碑文の内容から、この石碑は道登の宇治橋構築を記念してのものとも見えますが、宇治橋の構築は道照が最初とする説もあります。また、仏教的な見地からすれば、そもそも衆生を此岸から彼岸へと橋渡しをするのが僧尼の役割、そして、それを象徴する行為の一つが架橋であると。そう考えた場合、道登も大化も意味のないものになるのですが、碑分に記されている以上何らかの意味のあるものとする他はないようです。
 仮に、道登の追善供養のためのものとしても道登の命日の年の記載はなく、なぜ大化2年の丙午の歳だけが記されているのか。ただ、この年は法隆寺金堂薬師如来像光背銘から用明の崩年と捉えることが可能となります。それにしても、この石碑を誰がいつ建立したのか、碑文の内容から仏教とかかわりのある者が建立したことだけは確かなのですが… 私は道照が建立したのではないかと思っています。
 『続日本紀文武天皇4年の条に宇治橋は道照が作ったとあります。大化2年(646)と文武4年(700)では60年の開きがありますが、文武4年は道照が72歳で死亡した年ですから、道照が架橋したのはこれよりかは何十年も前のことでしょう。道照と道登の関係は分かりませんが、一つだけ共通点があります。それは高句麗です。敏達紀で高句麗の国書を読み解き褒賞された船史王辰爾と道照とは同じ船氏の一族なのです。一方道登は孝徳紀によれば、高句麗の故事を引いて白雉の出現が祥瑞であることを最初に進言したとあります。また『日本霊異記』には、道登は高麗の学生、つまり高句麗への留学僧だったともあります。
 高句麗が出たついでに、舒明紀と敏達紀の整合点を少し述べておきましょう。高句麗が半島経由でなく、直接日本海を渡って来日したと思われる時期があります。それは隋が高句麗遠征を始めた時期です。この時、新羅百済は隋に出兵の申し出をしていたのです。高句麗はこの事で新羅百済を憎み、隋滅亡後、新羅百済に報復の出兵をしています。この対立は高句麗百済が手を結ぶことになる642年まで続き、その間高句麗は日本との国交に日本海を直接渡るという方法を取っていたと思われます。高句麗の使者が越の海岸に漂着したという記事が欽明紀の末から敏達紀の初頭にかけて載っていますが、この記事は舒明紀に置き換えたほうが半島と日本の史実により近くなります。
 さて、道登の出た山尻(山城)には高句麗関係の地名が今日でも残っているように、この地は高句麗の使者が越の海岸に着いた後、近江を経て大和へ向かう道筋に当たり、しかも丁度大和の入り口にも当たる場所です。欽明紀ではここに高麗の館を建てたとあります。 高麗の館が何処にあったかは分かりませんが、おそらく木津川を渡る道筋近くにあったと思われます。そして、そこは当然船着場でもありますから、船氏の管轄場所でもあったはずです。道登が船氏である可能性は高いと言わねばなりません。また、船氏が作りあげた可能性もあります。一説では、船氏が『日本書紀』の編纂にかかわっているともされています。それは、皇極紀4年条に船史恵尺が蘇我蝦夷等が焼こうとした国記をいち早く取り出して、中大兄皇子に献るという記事があることからもうかがい知れます。船氏もまた道標を残しているのです。
 思うに、孝徳軽天皇と道登、文武軽天皇と道照。加えて大化と大宝。先帝の功を後帝が見習うことはよくあることですが、後帝の功を先帝が見習うということは普通あり得ないことであり不可能なことでもあります。しかし、大化の改新の詔は後の大宝律令を焼き鈍したものと見たほうが理解しやすく、ひいては孝徳紀そのものが文武紀の焼き鈍しとさえ言えなくもありません。そもそも、舒明紀に敏達紀を重ね合わせようなどと思ったのも孝徳紀と文武紀にそうした印象を抱いたからです。
 しかし、それならば大化は大宝の焼き鈍し、道登は道照の焼き鈍し、いやいっそ孝徳紀を文武紀の焼き鈍しとしてしまった方がいいのかも知れません。そもそも文武紀の位置には天智紀が入っていたはずなのですから。

§23 王朝の入れ物、大王墓。

 道標は迷うことなく目的地に着くためのものです。そのためには先ず目的地をはっきりと決める必要があります。私の当面の目的地は見瀬丸山古墳です。そのためには、とにもかくにも河内大塚山古墳にたどり着く必要があります。そして、そのためには大仙陵から河内大塚山古墳までに存在する大王墓を篩い落とさなくてはなりません。

三つの古墳群

 発掘考古学というのは、掘り起こした泥を篩いにかける作業から始まるのだそうです。できれば私も『日本書紀』を篩いにかけてみたいのですが、素人の身そうも参りません。そこで、せめて古墳だけでも篩ってみることにしまた。
 前章では篩いの目に墳丘長300mを用いました。無論、これには賛同はいただけないかもしれません。なにせ、『日本書紀』に載る天皇は40を数え、その陵墓の数もまたそれに準じるのですから。しかし、それなら200mにすれば善いのかと言えば、実はこれでも未だ足りないのです。そもそも、全国で墳丘長200m以上の大規模古墳と呼ばれているものは34基ほどしかありません。すべての天皇に大規模古墳をあてがうのは所詮最初から無理な話ということなのです。
 では、どうするべきか。小規模な古墳をあてがうべきか。思うに、古墳時代の大王に小さな古墳をあてがって良しとするのは、古墳時代を遠ざかった者の賢しらではないだろうか。古代人が古墳をどのように捉えていたか、古墳の形の謂われさえ明らかにし得ない者に理解はできません。しかし、古代人が古墳造りにかけた多大の労力と情熱だけは、巨大古墳の前に立つ誰もが感じ取ることだとは思います。
 下の表は、全国の大規模古墳の中から、墳丘長300mを基準に上下を同数だけ揃えたものです。丁度、一位から14位までがそれに当たり、これをAとBとに書き分けました。

大仙古墳
誉田御廟山古墳
上石津ミサンザイ
造山古墳
河内大塚山古墳
見瀬丸山古墳
渋谷向山古墳
486
425
365
360
335
318
302






土師ニサンザイ
仲津山古墳
作山古墳
箸墓古墳
五社神古墳
ウワナベ古墳
市庭古墳
288
286
286
276
276
265
250

 Aは墳丘長300m以上のクラスに、Bは200m後半代のクラスになっています。なお、前にも述べたことですが、古墳の墳丘長は過去の造営の時点においても、今日の計測の時点に於いても必ずしも理想的な正確さのものとはなっておりません。しかし、そのことは古墳間に潜むであろう何らかの傾向を読み取る上での障害とはなりません。実際、AB間には雰囲気の違う何らかの傾向が読み取れます。
 AとBを比べた場合、Aは墳丘の長さの最上位と最下位との差が180m以上もありますが、Bでは50mにも充ちません。つまり、Aからは墳丘を少しでも大きくしようとする意欲と自由が感じられますが、Bからはドングリの背比べというかAのようなそうした意欲も自由も感じられません。しかし、実は外観上そう見えることが、大王墓であるかそうでないかの違いなのです。何故なら、新たなる富は先ず大王に反映します。諸臣に回ってくるのはその後です。また反映の程度も、大王には大きく諸臣には小さく表われます。それに大王にはいくらでも大きくできる自由もあります。つまり、Bに意欲がないというわけではないのです。そもそも大王の富は諸臣が運んでいるのです。また、大王を引き立てるということも諸臣の大事な務めなのです。
 思うに、AとBの傾向の違いからこうしたことが読み取れるということは、墳丘長300m以上は大王墓、それ以下は諸臣の墳墓の可能性があることを示唆しているのではないだろうか。無論、墳墓間の時間差や、大王と諸臣の人数差があることは確かです。しかし、この差のあることがそうした傾向の違いを生み出してもいるのです。なお、この300mの篩いは倭の五王より前の大王墓については当てはまらないかもしれません。
 どうやら、大仙陵以降の王墓は河内大塚山古墳と見瀬丸山古墳の二つだけとなってしまったようです。それなら、大仙陵から丸山古墳まで何人の何という大王がいたことになるのだろうか。大王墓の数を限ってしまった以上、大王の数もまた限る外はないのですが、大塚山古墳の直前が大仙陵ということであれば仁徳から始める必要はなくなり、ある意味では歴史物語から解放されたとも言えます。

大王墓の住人

 大仙陵には二人の大王が眠っています? また、丸山古墳にも二人の大王が眠っています? そうすると大塚山古墳にも二人の大王が眠っていることになります?
 大塚山古墳は剣菱形という新王朝のシンボルを持つ墳墓です。『百済本紀』のいう辛亥年に死んだ旧王朝の天皇の墳墓ではありません。したがって、この天皇は大仙陵に葬られたとするほかはないようです。大塚山古墳の被葬者としては、安閑と宣化が考えられますが、大仙陵を損なった顕宗と仁賢が次の造墓者となりますから大塚山古墳の被葬者は顕宗と仁賢ということになります? そうすると辛亥年に死んだ天皇は清寧に宛がわれます?
 ?ばかりになってしまいましたが、先ず、二人の大王墓ということから始めることにします。10章でも少し触れたことですが、舒明天皇陵には二つの石棺があるといいます。また、野口王墓には天武と持統、二人の天皇が葬られています。そして、仁徳天皇陵とされる大仙陵にも石棺が二つあることが認められています。加えて天皇陵の可能性の高い見瀬丸山古墳にも石棺が二つあることが周知の事実となっております。このことは、大王墓一つに大王一人という「記紀」を読んでいると知らず知らず植えつけられた誰もが陥っていると思われる先入観とは随分と隔たった事実のあることを教えています。即ち、大王墓には複数の埋葬が可能であると。
 大王墓一つに大王一人という観念を捨て去れば、残る疑問はただ一つ、大王墓には大王以外の者が同時に葬れるのかということだけです。この問いの解は、現代人には難しいものがあります。現代からすれば、王の妻や子供達は善いのではないかと思ったりもしますが、それが古代にも通用するものかは… また、仮に是とした場合、はたして大王墓と呼べるのかどうかという疑問も浮かんでまいります。誰もが感じることだと思いますが、大王墓は明らかに特別なものです。当然、葬られる者もまた特別な者に限られます。王族といえど、また王族の中でも大王だけが特別の者なのです。したがって、大王墓には大王だけというのが正解と言うほかはありません。
 大王墓もそうですが、古墳には複数の埋葬があることは周知の事実です。また、それらが王族や一族の墓であることも確かなことと思われます。そして、肝要なことは一つの墳墓に埋葬されるのは同等の地位の者だけとする前提です。そう考えた場合、埋葬の形態として次のような想定が可能となります。
 先ず、一族の一番目の長が死んだとします。そうすると、この長の墓を二番目の長が作り、そして埋葬することになります。普通そうなると思います。ところで、この墓造りの最中に二番目の長が死んだ場合はどうなるか。順序としては三番目の長がこれを引き継ぐことになります。結果として、この墓には一番目と二番目の長が埋葬されることになるはずです。次いで、これを前方後円墳で再現してみましょう。
 前方後円墳は前方部と後円部の二箇所に埋葬が可能です。そして、前方後円墳の発達の経過から見て後円部が埋葬の主体部であったことも確かです。これに前述の埋葬結果を当てはめた場合、後円部には一番目と二番目の長が埋葬され、前方部にはこの墳墓を完成させた三番目の長が埋葬されます。ところで、こうした埋葬様式が前方後円墳に定着していく過程でどのようなことが起こるかと少し想像してみますと、どうも前方部がどんどん大きく立派になっていくのではないかと、ふとそんな気がいたします。
 誰でもそうだと思いますが、自分が埋葬されることになるその場所、つまり前方部を大きく立派にしたいというのが人というものではないでしょうか。

古墳の中の播磨王朝

 大塚山古墳は新王朝の墳墓です。今城塚古墳の系列に繋がりますから、人によっては継体王朝の二代目に当たる墓とも言われています。そこで、初代とされる今城塚古墳の中をちょっと覗いてみますと、ただし高槻市のホームページ "発掘調査でわかったこと" によるものですが、横穴式石室の中には石棺が三つあったらしいとのことです。そして興味深いことには、それらの石棺の産地がすべて異なっていると言うのです。産地が異なるということは材質が異なるということで、それらの産地と材質を示しますと、兵庫県高砂産の竜山石、熊本県宇土産の馬門石、大阪・奈良に跨る二上山の白石となるのだそうです。
 私は素人ですので、感じたことしか述べません。また、それ以外のことは述べたくても述べられません。さて、石棺の産地が異なるという事は、石棺の中身の産地も異なるという事になります。横穴式の場合、基本的には同母の兄弟ということになるのだと思いますが、墳墓を家、さらには王宮と見た場合、家長あるいは大王でありさえすれば誰でも善いのかもしれません。しかし、この場合は同母の兄弟でないことだけは確かと思われます。
 ところで、兵庫県高砂産の竜山石(たつやまいし)、この竜山石で出来た石棺が二つ、大塚山古墳の次に出来たとされる、やはり大王墓の公算の高い見瀬丸山古墳の石室にあります。今度の場合は同じ産地ですから、この二つの石棺は同母の兄弟と見做せそうです。しかも、播磨の竜山石で出来た石棺の兄弟です。この兄弟、石棺の出自から見れば播磨の兄弟と呼べなくもありません。出自といえば、継体の出自は「記・紀」共に越前と証言していますが、彼の石棺の出自は、今城塚古墳の証言では播磨とも肥後とも河内・大和とも、それらいずれとも受け取れるようになっております。仮に彼の石棺を播磨の竜山石で出来ていたとすれば、彼は播磨の出自となり、播磨王朝の始祖となります。
 今城塚古墳の証言からも分かるように、古代人は石棺を使い分けています。古代において石棺と死者は一対のものなのです。石棺から見れば、継体も立派な播磨の出であり、見瀬丸山古墳に至っては正に播磨王朝そのものの墳墓ということになります。そして、当然その古墳系譜の中間に位置する大塚山古墳もまた播磨王朝ということになります。
 大塚山古墳の中に何人の大王が眠っているのか、それは分かりませんが、播磨王朝と呼べる大王の石棺があることは確かと見えます。また、今城塚古墳は播磨王朝の始祖の墓であるかもしれませんが、大王の墓とするには小さ過ぎます。したがって、播磨王朝あるいは実質的継体王朝と呼べる初代の大王の墓は大塚山古墳という事になります。
 なお、播磨王朝は、歴史家の岡田英弘氏が顕宗・仁賢兄弟より始まる王朝につけた名前だそうです。岡田氏はこれ以外にも河内王朝とか越前王朝とか、「記紀」の内容に添った呼び名を用いて王朝の区分けをしています。こうした王朝のブロック化は、私のように陰陽的な視線で「記紀」を見ているものにとっては非常に便利なもので、例えば継体を陰と陽に分けた場合、陰に播磨王朝を宛がい、陽に越前王朝を宛がう、無論その逆でもかまわないのですが、ともかくそういったことが可能になるのです。もっとも、そういったことは歴史から逸脱した馬鹿げたことだと、あるいは叱責を受けるかもしれません。しかし、今日残っている史書のほとんどは今日的な歴史家の手によるものではなく全くの素人とでも呼べる文人や官吏の手によるものなのです。まあ、今しばらく辛抱のほどを。
 さて、継体が陰陽に分けられるのかということですが、実は継体は既に分けられているのです。しかし、その前に2つか3つ、別のものの陰陽分けをしておきましょう。先ず王を分けると、王兄と王弟になります。次に、男を分けると男兄と男弟になります。最後に大を分けると大兄と大弟になります。それぞれの読みの最後は、"え" 、"けい" 、"と" そして "てい" の音がきます。さて、継体の名前ですが、『日本書紀』では男大迹(をほと)とあります。これを男大弟(をほと)としても名前そのものは変わりません。しかし、意味は変わります。男大迹という名前ではなく男大の弟という意味になるわけです。男大の意味はあるいは王のことかも知れません。しかし、これについてはこれ以上の詮索は意味が無いので止めましょう。というのも『古事記』では男大迹は袁本杼(をほと)とあるからです。しかし、これも袁本弟とできます。そうなると、当然、男大兄や袁本兄が存在することになります。
 男大兄と袁本兄、この読みは "をほえ" あるいは "をほけい"となります。この音に近い名前を持つのが本題の主役である播磨王朝の顕宗・仁賢の兄弟です。顕宗は、弘計天皇、来目稚子、袁祁王、袁祁之石巣別命といった呼び名を持ちます。また、仁賢は、億計天皇、大石尊、意祁命、意富祁王、大脚、大為、嶋郎といった呼び名を持ちます。これらの呼び名と継体の男大迹あるいは袁本杼との関係から、顕宗は男兄とでき、仁賢は大兄とできます。つまり、顕宗と仁賢で男大兄ができるのです。
 ところで、顕宗紀には兄弟が播磨の縮見山の石室に隠れ住んだらしいことが載っています。加えて、この兄弟には石のつく呼び名もあります。思うに顕宗紀は、横穴式石室への石棺の埋葬手順から生まれた物語の可能性があります。大仙陵直後、大王墓は横穴式石室に移行した可能性があります。横穴式石室の場合、加えて兄弟が埋葬される場合、石棺をどのように石室に収めるか、おそらく問題になったものと思われます。見瀬丸山古墳では兄のものと思われる石棺が手前に、弟のものと思われる石棺が奥に安置されています。これは、兄が先に生まれるから出口に近い位置を選び、弟は後から生まれるから奥の位置を選んでいると考えられます。しかし、これは見ようによっては弟は墳墓の中心、つまり王墓という玉座に近い位置にいることになります。顕宗・仁賢紀の特異さは兄よりも弟が先に王位に就くという点にありますかあら、あるいは、そうしたことを述べているのかもしれません。また、顕宗紀には父親の遺骨と舎人の遺骨とを選り分ける話もあり、竪穴式という独立を保てた石室から、横穴式という独立を保つことの出来ない埋葬方式への転換点に位置していたのが、あるいは播磨王朝であり越前王朝だったのかもしれません。そして、その最初の横穴式の墳墓が大塚山古墳なのかもしれません。