§21 古墳の分岐点。
『隋書』や『日本書紀』等が歴史の入れ物なら、墳墓は何の入れ物なのだろう。死者の歴史か、それとも単なる過去か。最近、年を取ったせいか過去のいやな記憶は思い出さなくなり、都合の好い記憶だけを選ぶようになりました。思うに、人の脳も何らかの入れ物なのかもしれません。ただ、都合の好い記憶だけを選ぶと、記憶間に時間の齟齬が生じてもいるようです。無論、これは間違いなく私の事を言っているのですが、同時に素人の目から見た今日の古代史の事をも言っているのです。
継体紀に、時間の齟齬を述べた編纂者の言葉があります。そして、編纂者はここではっきりと『百済本紀』を選んだとしています。しかし、今日の歴史家はなぜかこの内容を無視しています。この箇所は継体紀の一番の最後に当たり、最も新しい情報です。これは例えてみれば、HTML文書でのCSSの優先順序にも等しいものです。CSSでは後に組み込まれた宣言が優先されます。つまり『百済本紀』の内容はそれ以前の継体紀の内容よりも優先されるものなのです。
埼玉古墳群と百舌鳥古墳群
600年頃に大化の薄葬令のような厳しい制度があったとも思われませんが、古墳の埋葬様式に大きな変化のあったことは事実です。当時の古墳のほとんどが竪穴式から横穴式へと変化を遂げているのです。背景にあるのは、横穴式は追葬が可能という考えからのようにも見えますが、竪穴式でも墳丘への追葬は可能です、したがって、正確には追葬が易しいと言うべきでしょう。また、横穴式の場合、石室内の追葬ばかりでなく石棺内への追葬も可能となります。九州や出雲地方には横口式家形石棺と呼ばれている追葬に特化したような石棺があるそうです。
思うに、追葬に特化した横穴式や横口式の墳墓は、言ってみれば老い衰えた老人の記憶のように新旧が入り乱れて混在します。神経質な死者や、ましてや上祖の意富比垝以下8代の名前を連綿と書き綴った乎獲居臣にとって、この埋葬方式は耐え難いものだったのではないだろうか。金錯銘鉄剣の埋葬は副葬品の関係から6世紀前半を遡ることはないと言います。仮にその頃の埋葬だとすれば、前章でも述べたように県内最大の二子山古墳への埋葬が最適となります。しかし、そうとはならなかったのは、あるいは以上のような理由によるものなのかもしれません。また、そうだとすれば、被葬者は乎獲居臣本人ということになり、同時に辛亥年も471年から531年以降に引き下げなければならなくなります。
埼玉古墳群の中の大仙陵。
埼玉古墳群は、北に稲荷山古墳が5世紀後半に築かれたのを皮切りに、7世紀初頭築造 の中の山古墳まで大型古墳だけでも9基を数えています。このうち墳丘長が100mを越す
名称 | 墳丘長 | 埋葬施設 | 造営時期 |
---|---|---|---|
稲荷山古墳 | 120m | 竪穴式 | 5世紀後半 |
二子山古墳 | 138m | 竪穴式? | 6世紀前半 |
鉄砲山古墳 | 109m | ? | 6世紀後半 |
将軍山古墳 | 90m | 横穴式 | 6世紀末 |
中の山古墳 | 79m | 横穴式? | 7世紀初頭 |
瓦塚古墳 | 73m | ? | 6世紀前半 |
奥の山古墳 | 66m | ? | 6世紀中頃 |
愛宕山古墳 | 53m | ? | 6世紀中頃 |
丸墓山古墳 | 105m | ?(円墳) | 6世紀前半 |
ものが稲荷山、二子山、鉄砲山の三つの古墳で、北から南へ年代順にきれいに並んでいます。思うに、この三つは後で述べることになりますが、埼玉古墳群内では特別なもののようです。
次に、古墳群中の埋葬施設についてですが、種類の分かっているのは稲荷山古墳と将軍山古墳の二つだけと聞きます。その他は推測するしかないのですが、稲荷山古墳が竪穴式で将軍山古墳は横穴式ですから、少なくともそれらに直近の二子山古墳と中の山古墳の二つだけはそれぞれ竪穴式と横穴式とに推定できそうです。
鉄砲山古墳は竪穴式のグループと横穴式のグループとの丁度中間に位置しどちらとも言えないのですが、墳丘長100mを越す古墳で、しかも稲荷山古墳や二子山古墳とは墳形が同じとされています。また、この三つの古墳は、一説では百舌鳥古墳群の大仙陵古墳をモデルとした縮小版とも言われています。そういう意味では、鉄砲山古墳は竪穴式と言えなくもないのですが、横穴式の可能性もあります。それは、稲荷山から二子山にかけて墳丘は拡大していますが、二子山から鉄砲山にかけては縮小をしているのです。これはオリジナル版とされる大仙陵古墳についても言えることです。大仙陵は日本最大です、つまり本墳を境に日本の古墳は縮小に転じているのです。
縮小に向かう古墳。
大仙陵古墳は5世紀前半から半ばに築造されたとされています。二子山古墳は6世紀前半とされていますから、この二つは時期的には合わないようにも見えます。しかし、大仙陵には5世紀後半という説もありますし、複数の埋葬施設があることもまた確かです。そ こで、大仙陵をⒶⒷ二人の大王の陵墓とし、Ⓐ大王の死後Ⓑ大王が築造をするという慣例を想定した場合、次の陵墓はⒹ大王が築造することになり、ⒸⒹ二人の大王が眠ることになります。また、Ⓑ大王を葬るのはⒸ大王ですからこの時期が5世紀後半であったとすれば、大仙陵5世紀後半説もありうるものとなります。
思うに、拡大を続けていた古墳が縮小に転じる場合、もし前方後円墳が全国的な制度の下で造営されていたなら、当然その縮小に転じる時期は全国同時であったと考えるべきでしょう。図ではⒹ大王の時この取り決めが出来、その最初の陵墓として河内大塚山古墳を挙げていますが、以下これについて話していくことになります。
先ず、大仙陵古墳に続く王墓を探してみなくてはならないのですが、探すに先立ってどの程度の規模に縮小されているのか、埼玉古墳群の例を参考にしてある程度の目安をつけておきましょう。二子山古墳が138mで鉄砲山古墳が109mですから、およそ80%ほどに縮小されていることになります。そうすると、大仙陵が486mありますから、その80%というと、およそ380mほどになります。百舌鳥古墳群の中で380m近くの古墳を探すと履中天皇陵とされている上石津ミサンザイ古墳360mが見つかります。しかし、これは大仙陵よりも古いとされているため、除外するほかありません。
次に目につくのが、全長290mの土師ニサンザイ古墳です。築造時期も5世紀後半となかなか好いのですが、これには三つほど問題点があります。先ず、大きさが60%を切ることです。次に、古墳の向きが大仙陵グループとは違っていることです。最後に、墳形プランも大仙陵とは少し違っていることです。大仙陵は全長486m、後円部径245m、一桁めを切り捨てても繰り上げてもその比は2対1となります。本墳は後円部径が150mですので、その比は 1.93対1ほどになります。しかし、これは或はむしろ好い方なのかもしれません。
墳形のプラン。
百舌鳥古墳群の大型墳のなかで、全長と後円部径との比が 1.9対1ほどになるものが他に二つほどあります。反正天皇陵とされている田出井山古墳148m/76m(1.95:1)と御廟山古墳186m/95m(1.96:1)です。これらは土師ニサンザイ古墳同様、大仙陵よりは新しいとされている墳墓です。そこで、同じか古いとされているものの比を取って比べてみますと、上石津ミサンザイ古墳360m/205mでは、1.76対1。大塚山古墳168m/96mでは 1.75対1。乳岡古墳150m/94mでは1.6対1。イタスケ古墳146m/90mでは 1.62対1となります。
以上のように、百舌鳥古墳群の大型墳は、大仙陵の後とそれ以前とでは全長と後円部径との比がかなり違っています。今日、墳形のプランとして、大仙陵タイプと誉田陵タイプの二つが知られています。誉田陵タイプというのは、応神天皇陵とされている誉田御廟山古墳から得られた全長と後円部径との比、1.67対1の前後の墳形のものを指します。
思うに、今日我々が前方後円墳を当たり障りもなく前方後円墳と呼べるのは、前方後円墳を前方後円墳たらしめる共通の墳形プランがあるからに他ありません。左はその理想とされるものです。ただし古代での事、このプランを正確に地面の上にかき写せたかどうかは疑問です。したがって、墳丘長等のデータはあくまで参考値とするべきものです。
ところで、同じ前方後円墳でもその大きさには無段階とも言えるほどの違いがあるようです。通説では身分による墳丘長の制限があったとされています。しかし、薄葬令に於いても王・上臣・下臣・仁冠・礼冠の5段階しかなく、冠位十二階以前では墳丘を築ける身分は金・銀・銅の三階級ほどだけであったようにも思われます。また、「魏志倭人伝」には邪馬台国には4官があったとされていますが、身分差を表わす記事には大人と下戸しか見えず、基本的には君・臣・民よりなる社会構造としか読み取れません。それになにより、古墳にそうした身分に基づいた制限規則を設けなくても、墳丘の大きさには自然と違いが生じる社会環境が当時既に整っていたようにも見受けられます。
墳丘の大きさを決める最大の要因は、その役夫の動員数にあります。薄葬令の5段階は実にこの役夫の動員数の5段階の制度なのです。『隋書』に、倭には貴人の死に臨んでは3年間外で殯りをする慣習があるとあります。3年の殯りの慣習がいつの頃よりあるのかはわかりませんが、倭王武の上表文に "諒闇" という言葉があります。諒闇というのは正に殯りのことで、倭王武の頃にはそうした慣習が既に出来上がっていたと思われます。殯りの期間は後世になればなるほど短くなるようですが、古墳時代には少なくとも3年以上の殯り、つまり古墳造営の期間はあったはずです。そうすると、一日に何人の役夫を動かせるかが墳丘の大きさを決める唯一の要因となるわけですから、何も豪族間に無駄なストレスを引き起こすかもしれない幾段階にも分かれる墓制制度を無理に制定する必要はないわけです。思うに、通説の言うような墓制制度の無かったことが、大仙陵プランや誉田陵プランの存在につながっているようにも見えます。
国家が定めた陵墓の指定、専門家のみならず多くの人がこれを疑っています。しかし、大仙陵と誉田陵を疑う者は一人もいないと思います。さて、この二つの大王墓、体積は同じだとも言われています。ところが、誰もが大仙陵を日本一大きな古墳だと言います。これはある意味では不本意な結果とも見えます。既に述べているように古墳の大きさを決めるのは役夫の動員数であり、その仕事総量つまりは運んだ土砂の総量によるものです。したがって、計算上この二つの大王墓は同等なのです。
大山古墳 | 誉田山古墳 | |
---|---|---|
墳丘の長さ | 475~486m | 415~430m |
後円部の径 | 245m | 267m |
後円部の高さ | 34m | 36m |
前方部の高さ | 34m | 35m |
表面積 | 104,130㎡ | 111,850㎡ |
総容量 | 145,866㎥ | 143,396㎥ |
左は、昭和56年有斐閣選書『探訪 日本の古墳 西日本編』森浩一編よりのデータの引き写しです。
この数値からも分かるように、大仙陵は誉田陵より2.5%ほどの上積みがあります。しかし、両者の間には少なくとも10年以上の時間差があります。2.5%という数は当時のインフレ率にも満たないものかもしれません。また従来通りの墳形プランでは、2.5%の上積みを地面の上にも図面の上にも生かすことは出来ないでしょう。
ところで、いつも感じることですが、古墳の馬鹿でかさには本当にあきれます。何故こんなにも大きくするのか理解に苦しみます。しかし、古代人がとにもかくにも古墳を大きく見せようとしていることだけは良く分かります。例えば古墳のはしり、山陰から北陸にかけて見られる四隅突出墳丘墓、さらには岡山県倉敷市の楯築墳丘墓、これらは墳丘の形を大きく変えることの分かっている作業道を残したままの状態を墳形としています。このことは、古代人が墳丘の形にではなく大きさにこだわっていることを示しています。要するに作業道を残せば、その分だけ墳丘は大きく見えるのですから。
前方後円墳を円墳築造過程での作業道を残したものとは言いませんが、同じ容量を用いて大きく見せる方法は作業道、つまりは前方部を引き伸ばす方法が一番のようです。柄鏡式と呼ばれている前方後円墳は正にこれの典型ではないかと。大仙陵と誉田陵は容積においてはほとんど変わりませんが、墳丘長では1割以上の開きがあります。つまり大仙陵は大きく見せるために前方部を引き伸ばしたのです。
古墳時代、古墳の大きさを決めたのは墳丘長の制限ではなく、豪族が動員できる役夫の数によって自然と決まったものなのです。さて、そこでもう一度本題に戻り、そして新たな条件を付け加えてみましょう。つまり、大仙陵タイプの80%と誉田陵タイプの80%とはほとんど同じであると。
誉田陵の墳丘長は415~430m。これの80%は332~344m。実は、大仙陵と誉田陵との中ほどに332~344mの墳丘長を持つ古墳が一つだけ存在します。河内大塚山古墳335mがそれです。
§20 歴史の分岐点。
太安万侶の道標、素人の案内でかえって道に迷ったかもしれません。実は、斯く申す私も陰陽の道に太安万侶の道標があるのか、それとも太安万侶の道標に陰陽の道があるのかが分からなくなってしまいました。しかし、それはどちらでも好いことです。歴史の道を歩く上で肝要なのは、その分岐点に来たときです。分かれ道には塞の神の力が働いています。右へ行くか左へ行くか、どちらか一つに決めなければ歴史の道を歩いたとは言い得ません。たとえ、迷うことになるとしてでもです。それに、それが素人の特権というものでもあります。この特権の行使なくしては、素人の素人としての役目は果たせません。
歴史の入れ物
古代史の分岐点の一つに推古紀があります。これを煎じ詰めると、『日本書紀』を取るか『隋書』を取るかという問題につき当たります。利口な歴史家はこれを避けて通りますが、愚かな素人はどちらかを選びます。私は『隋書』を選びました。そして、『隋書』を選んだ以上、当然法隆寺金堂の金石文について一言述べなくてはならなくなりました。なぜなら、この金石文の解釈が『隋書』によって従来のそれとは違ってくるからです。
思うに、歴史の分岐点には必ず歴史の入れ物が落ちています。『日本書紀』や『隋書』や光背、そして鉄剣等です。どうやら、一言では収まりそうにありません、
光背と鉄剣。
法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並著於床。時王后王子等、及與諸臣、深懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安住世間。若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。
以上は法隆寺金堂釈迦三尊像の光背に彫られている銘文です。
この銘文の解釈ですが、従来通りですと、鬼前太后は上宮法皇の母親となります。しかし、『隋書』を優先させれば、鬼前太后は現大王の母親、つまり上宮法皇の皇后となります。また、干食王后は現大王の前皇后となり、銘文の "時王后王子等" の王后は現大王の新しい皇后ということになります。そもそも、最後の一文 "使司馬鞍首止利佛師造" が述べているように止利佛師を使ってこれを作らせたのは現大王なのです。現大王こそがここでの主役なのです。なお、上宮法皇の上宮は上の宮の意味ではなく上祖の上に近い意味を持っていると見るべきです。
さて、銘文によればこの法皇は法興という元号を持ち、その32年2月22日に亡くなっています。この王が仏徒であることは明白で、おそらく仏徒になったその年を記念して法興という元号をつけたものと思われます。ところで、その年、つまりは法興元年ですが、実は591年辛亥の年に当たるのです。辛亥年、しかも仏教とくれば、考古学に興味のある者なら必ず稲荷山古墳(埼玉県行田市埼玉古墳群内)出土の金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)を思い浮かべるのではないだろうか。この鉄剣には次のような銘文があります。
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也…①
以上は鉄剣の両面に表わされた金錯銘文を片面ずつ二段にして示したものです。
周知のように、この銘文の辛亥年については471年が通説となっております。その他としては、一部に531年という意見があるのみです。それをここでは591年とするのですから、妄想の極みと受けとられ兼ねないことになるとは思いますが、これもまた歴史の道の分岐点、避けていたのでは先には進めません。ただし、古墳そのものの年代を引き下げるのはあるいは難しいのかもしれません。しかし、話を先に進めましょう。
銘文に "獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時" という一文があります。「獲加多支鹵」を地名とした場合、文中の「寺」は王の名前となります。また、「獲加多支鹵」を通説どおり「ワカタケル」という名前とした場合、「寺」はいわいる寺院の寺と通説の云う役所という意味を持つ寺との二通りの解釈につき当たります。ここにも歴史の道の分岐点があります。辛亥を591年とした以上ここでは寺院の寺を選ぶことになります。なお、「ワカタケル」を一般名詞とした場合、「寺」は王の名前となりますが、江田船山古墳出土の鉄刀銘の例もあり、通説どおり「ワカタケル」は王の名前とします。以下参考のため、熊本県玉名郡和水町江田船山古墳出土の鉄刀銘を加えておきます。
治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人、名无利弖、八月中、用大鉄釜、并四尺廷刀、八十練、九十振、三寸上好刊刀、服此刀者、長寿子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者、名伊太和、書者張安也…②
なお、金石文字の判読は専門家にも難しいそうです。また、文の解釈にしても専門家間に相違が見られます。したがって、素人が口出しを出来る範囲は極めて限られています。しかし、それでも口を出したがるのが素人です。もうしばらくお付き合いの程を。
稲荷山鉄剣の主は乎獲居臣。読み方は「ヲワケ」と読むのだそうです。彼は自らを臣と名乗っていますが、ここでの臣というのは、君(きみ)、臣(おみ)、民(たみ)といった一般名詞のうちの一つにすぎず、後世の階級的な違いを表わすようなものではなかったと私は見ています。と言うのも、同じ臣姓ありながら明らかな階級差が認められるからです。
各田卩臣□□□□□大利□…③
上は、島根県松江市大草町岡田山1号墳出土の鉄刀の銘文のうちの判読可能な部分とされたものです。「各田卩臣」の読みは額田部臣(ぬかたべのおみ)だそうです。この額田部臣がこの鉄刀の所有者だとすれば、乎獲居臣との間に明確な格差が存在します。実は、額田部臣の鉄剣の銘文は銀象嵌によるものであるのに対し、乎獲居臣の鉄剣の銘文は金象嵌によるものなのです。つまり、同じ臣でありながら金と銀の違いがあるのです。
推古紀19年の記事に、菟田野の薬猟の時、大徳と小徳は冠の飾りに金を用い、大仁と小仁は豹の尾を用い、大礼以下は鳥の尾を用いたとあります。また、推古紀31年の記事によれば、小徳は将軍、特に副将軍の冠位となっています。あるいは、杖刀人首である乎獲居臣は大徳クラスということになるのかも知れません。また、江田船山鉄刀の場合は銀象嵌ですから、この持ち主の典曹人の无利弖は小徳よりも低いクラスの官人ということになります。察するに、この无利弖の上には典曹人首がいることになります。つまり、首が付くか付かないかで金象嵌になるならないの違いが生じたことになります。首とは将軍以上、大臣クラスの長官ということなのでしょう。
さて、金と銀が出ました。オリンピックではありませんが最後に銅が出なくては話は終わりません。
戊辰年五(月中)…④
兵庫県養父市八鹿町小山箕谷2号墳から待望の銅象嵌による銘文を持つ鉄刀が出土しています。上がその銘文のすべてです。なお、養父は(やぶ)、八鹿は(ようか)、箕谷は(みいだに)と読むそうです。銘文は、稲荷山鉄剣と同じように作刀年の干支紀年を持ちますが、刀身の柄寄りの部分に「戊辰年五(月中)」としかありません。思うに、単に戊辰年を記念してのものなのかと興味の引くところです。そこで、法興の年号内での戊辰年を探してみますと、608年がそれに当たることになります。なお、()内は推定文字です。
墓制の分岐点、前方後円墳の消滅。
『隋書』に、「大業三年(607)、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す」 とあります。また、「明年(608)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使せしむ」 ともあります。そう、戊辰年は卑弥呼以来数百年の年月を隔てての中国の使者の訪れた年なのです。多利思比孤は仏法を興した年を記念して法興という年号を作り、隋の使者の訪れたことを記念して戊辰年銘大刀を作った。そして、戊辰年銘大刀は使者の来訪に功績のあった大礼以下の官人に与えられたもの、とも思えます。そして、そう思えば、辛亥年銘鉄剣の主乎獲居臣は、大王が仏法を興し斯鬼宮に寺を建てたのを記念してこの剣を作ったということになります。
古墳の考古学的年代にこだわらなければ、銘文を持つこれら四つの剣あるいは刀が、素人の稚拙な物語で法興の年号内に収まります。なお、法興という年号は『隋書』には記載がなく、公の年号ではなかったものと思われます。このことは、仏教そのものが公のものではなかったことを意味しています。それは、『隋書』のなかに寺院についての王との会話や報告の記載がないことにも現れています。おそらく、裴清の来日した608年の時点では堂塔の揃った寺院は未だなかったのではないだろうか。そのせいか、辛亥年銘鉄剣は、大王の寺は斯鬼宮に在るとしています。
さて、年代にこだわらなければ、とはしましたが、こればかりは避けては通れそうもありません。先ず辛亥年銘鉄剣の稲荷山古墳ですが、この造営時期は5世紀後半とされています。ただし、この鉄剣が出た礫槨の場所は後円部の中心を外れた前方部寄りの所にあるため、この礫槨に埋葬された主は本墳の真の造墓者ではないとされています。また、礫槨出土副葬品の編年から鉄剣の主は6世紀前半頃に追葬されたと考えられています。
要するに、通説の471年というのは、6世紀前半に礫槨に埋葬されてたのは鉄剣を引き継いだ乎獲居臣の子供の誰かというもので、雄略(ワカタケル)天皇の治世に合わせての471年と推察できます。ここにも歴史の入れ物、そして分岐点があったようです。慎重な専門家と雖も、ワカタケルの誘惑には抗しきれなかったようです。
思うに、古墳の編年や副葬品の編年はその指標となる基準年が変わればすべてが遡ったり降ったりします。ただし、その相対的な年代は変わりません。ここでの場合だと、5世紀後半と6世紀前半との差の半世紀、つまり50年という差です。この差に注目した場合、天下を佐治した乎獲居臣の子孫が50年ほどの間に、しかも古墳時代真っ只中の6世紀前半になぜ新しい前方後円墳が造営出来なくなったのかという疑問が浮かんでまいります。
稲荷山古墳は埼玉古墳群内中最も古い古墳とされています。大きさは二子山古墳に次いで2番目を誇ります。乎獲居臣の子孫がこの古墳に強いてこだわったとも考えられますが、実は二子山古墳は6世紀前半の造営とされているのです。つまり、乎獲居臣の子孫が築いたとすればこの古墳が最適なのです。しかし、通説にこだわる限り、そうとはなりません。通説にこだわれば、彼らは没落したことになる。しかも、それだけでは済まなくなります。そう、鉄剣ばかりでなく、副葬品そのものが先代のものである可能性が出てきます。つまり、この礫槨の年代を決めた副葬品そのものが二次的なものとなってしまうのです。
ところで、前方後円墳消滅の時期について考えたことはないだろうか。1990年発行というから随分と昔ですが、人物往来社から『前方後円墳の消滅』という本が出版されています。本の内容は、関東地方の前方後円墳は600年を境として消滅したらしいというものです。600年はともかく、前方後円墳と同時に巨大古墳が何時の時期か消滅したことは事実です。畿内では、見瀬丸山古墳を最後に前方後円墳と巨大古墳は姿を消しています。その理由を素人なりに探ってみますと、冠位12階にたどりつきます。
察するに、この冠位の出来た時期は、おそらく遣隋使を派遣する前年の599年ではないかと。『旧唐書』によれば、日本は貞観22年(648)を最後に長安3年(703)までの間遣唐使の派遣を中止しています。派遣を再開したのは、『続紀』によれば律令制定の翌年大宝2年となっています。思うに、国家の体裁を整えた上で中国に使者を派遣する、あり得ることではないだろうか。そうだとすれば、600年の遣隋使の派遣は、その前年に国家の体制を整える何らかの制度が完成したことを受けてのものだったということになりはすまいか。そして、その制度の中には冠位12階を含む諸々の制度、当然墓制等もあったのではないのかと。
多利思比孤の墓制によって、600年を境として墓のあり方が変わってゆく。乎獲居臣はこの過渡期の最中に死亡したのではないのか。そして彼は、その永眠の地を最も大きな二子山古墳ではなく最も古くて由緒のある稲荷山古墳としたのではないだろうか。無論、彼の死を600年前後としたのでは、副葬品の編年との整合が壊れます。しかし、副葬品の中には6世紀末から7世紀初頭築造の古墳からの出土品と同型あるいは同類の物もあるのだそうです。
墳墓は、生前から築く寿陵の外はその主の死後築かれます。その時、もし大化の薄葬令のようなものが突然出されたとしたらどのようなことになるだろうか。乎獲居臣は大徳のクラスです、薄葬令によれば使役できる人員は500、期間は5日間だけです。さて、これでどれほどの墳墓が築けるのだろうか。ちなみに、仁徳天皇陵は完成までに15年と8ヶ月、総員数680.7万人を要すると大林組が算出しています。
600年当初に思いをめぐらしてみると、先ず目に入ってくるのが横穴式石室です。さきたま古墳群内で、横穴式と確認されているのは将軍山古墳のみです。さて、どうするべきか。
§19 陰陽という入れ物。
古代人はすべてのものを陰と陽とに分けました。転じれば、すべてのものが陰と陽とに分かれるとなります。前章では太陽を陰と陽とに分けて、八咫烏と金鵄をそれぞれ太陽と月とにしました。それなら、月を陰と陽とに分ければどうなるのか。あるいは、そう皮肉られるかもしれません。実際、これも太陽と月とになります。何とはなく可笑しいようにも思えますが、これは一種の代数です。実際の代数はもっと可笑しなものです。代数方程式は、すべての方程式には解つまり答えがあるとしてこれを解いてゆきます。そのために本来は答えではないものが答えとして出てきます。それは虚数と呼ばれています。虚数と実数、それは陰と陽との関係よりも不可解なものです。しかし、これには複素数としての使い道があります。
入れ物を運ぶ者。
入れ物としての陰陽。
さて、太一(北極星)を陰と陽とに分けるとどうなるか。無論、これも陰と陽とになります。しかし、月と太陽とになるわけではありません。おそらく、天皇大帝と紫微大帝とになるとおもいます。なぜなら、天皇大帝は兄で紫微大帝はその弟だからです。周知のように、日本は昔より甲子を "きのえね" つまり "木の兄子"と呼び、乙丑を "きのとうし" つまり "木の弟丑" と呼んできました。干支を "えと(兄弟)" と呼ぶのはそのためなのです。ここには、兄が陽で弟が陰だとする考え方があるのです。
えと(兄弟)は、十干を陰陽五行に割り振った結果生まれたものです。しかし、転ずれば五行を陰と陽とに分けたとも言えます。つまり、X=YをY=Xとして解くわけです。ちなみに木行を陰と陽とに分ければ、"木の兄" と "木の弟" になります。これは代数式の解き方ですが、こうした方法を用いれば善も陰と陽とに分けることが出来るようになります。善の場合は、"善の兄" と "善の弟" ということになります。代数式が古代になかったことは確かですが、しかし、そうした考え方あるいはやり方はあります。
神武紀に、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)と兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)という二組の兄弟が、それぞれの土地の支配者として神武の前に現れたとあります。実は、これがそのやり方なのです。前者は宇陀の支配者を陰陽に分けたもの。後者は磯城の支配者を陰陽に分けたものなのです。その証拠に、どちらの兄も神武と対立し滅ぼされていますが、どちらの弟も神武に従ってその地域の支配者として認められています。弟が神武に従ったのは陰という性情からです。陰には柔順さらには従順という性情があります。逆に、陽にあるのは剛健さらには強健なのです。
また、祟りすなわち神、神すなわち祟りという考え方もあります。神功紀では、皇后は夫に祟った神の名を探して斎宮にこもっています。何処の何という神かと分かれば、祭り方もまた分かるということでしょう。そのため、何度も神の名を探しています。なお、神功を卑弥呼とするわけではありませんが、あるいは卑弥呼は自然の中から神々の名を探し出し、そして誰もが納得する方法でこれを祭る。もしかしたら、彼女はそうしたことに長けていたために女王に擁立されたのではないだろうか。それはともかく、古来より人は答えが最初からあるとする代数的考え "X=Y⇔Y=X" のXとYという入れ物にありとあらゆる物を放り込んできているようにも見えます。
八角墳と刳り抜き型石槨。
古代、人は八角形の中に、神や仏や生者や死者を何の躊躇もなく放り込んでいます。八角形は易の形であり、蓮弁の形であります。古代人は、八角形の中に浄化や昇華の世界を垣間見ていたのかも知れません。
大阪府の寝屋川市に、石宝殿古墳という刳り抜きタイプの横口式石槨を持つ古墳があります。このタイプの石槨は、飛鳥の石造物の一つ、鬼の爼・鬼の雪隠等を含め、今のところ全国で四例ほどが確認されているだけという大変珍しいものです。しかも、当古墳は八角墳の可能性があるともされています。もしそうだとすれば、牽牛子塚古墳の八角とのかかわりを考えてみる必要があります。無論、八角墳は必ずしも特別なものではないとも言われてはいます。しかし、このタイプの石槨との組み合わせは非常に珍しいと言う他はないでしょう。八角墳は、天武系あるいは斉明系天皇の陵墓の形とも言われています。その原型が、この石宝殿古墳ではないのだろうか。
斉明の墓との呼び声が益々高まる牽牛子塚古墳、本墳には四例ほどしかない刳りぬきタイプの横口式石槨の中ではとりわけて巨大な石槨が用いられています。合葬を目的としているため一つの巨大な石槨に二つの石室が刳り抜かれています。それがために非常に巨大なものとなったようです。基本的には石宝殿の石槨と同じタイプに属しますが、石宝殿等の石槨が上下組み合わせ方式であるのに対し、牽牛子塚古墳は巨大な一つの岩を刳りぬいて造ってあるという違いはあります。そういった点では進歩したとも言えますが、あるいは単に天皇版というだけのものなのかもしれません。と申しますのも、先ほども述べたことですが、これらの刳り抜き型横口式石槨の古墳は例が少なく、石宝殿より始まって牽牛子塚で終わったと言えなくもないからです。
そこで、このことを地図上に示して述べますと、寝屋川市の東端、打上元町の石宝殿古墳より始まり、斑鳩町の龍田神社の裏山、御坊山三号墳を経て、明日香村野口の鬼の俎、同村平田の鬼の雪隠に至り、同村大字越の牽牛子塚古墳で終わる、となります。おそらく、時間にして一世代もかからなかったのではないだろうか。
思うに、石宝殿古墳を築いた集団が、牽牛子塚古墳を築いた。同時に八角墳形のプランが適用された。さらに、想像力をたくましくすれば、飛鳥の巨大石造物のすべては、これらの集団の手によるものではないのかと。
次いでというわけではありませんが、勝手なことをもう一つ付け加えれば、このタイプの石槨プランは生駒山地の西麓を通る、高野街道あるいはその前身道伝いに竜田道を経て飛鳥に伝わったと思われます。ⓐ高野街道→ⓑ竜田道→ⓒ太子道→ⓓ下ツ道→飛鳥。この道順が飛鳥への最短距離となります。ただ、当時これらの道がすべて完備していたかどうかは分かりませ。しかし、牽牛子塚古墳の造営までには、ⓔの横大路を含めすべて揃っていたと思われます。というのも、二上山より切り出された牽牛子塚古墳の巨大石槨はそうした道路があって初めて運搬が可能となるからです。それはさておき、この地域の古墳で飛鳥地域に影響を及ぼしたと思われるものがもう一例存在します。
茨田の地の西を流れる淀川の対岸、摂津北部の三島平野の中央部に6世紀前半に築造されたとされる前方後円墳があります。今城塚古墳と呼ばれているのがそれです。この古墳は陵墓参考地にも入っていませんが、学会では継体天皇陵としての呼び名が高く、しかも埴輪祭祀区の規模が日本最大のものとしても有名です。しかし、何よりもこの古墳を特徴付けているのは、その前方部の中央が突出する剣菱形と呼ばれるその形にあります。
この特異な形の前方部を持つ古墳は、畿内では河内大塚山古墳と大和見瀬丸山古墳の二つが知られています。河内大塚山古墳は大阪府の羽曳野市と松原市との境界に位置し、府道堺大和高田線(長尾街道)のすぐ南にあります。墳丘規模は全国第5位を誇り、後期古墳で横穴式石室を持つと言われています。また、埴輪がないため、今城塚よりも新しく、見瀬丸山古墳よりは古いとされています。なお、本墳には大正の終わり頃まで墳丘内には人が住み、村もあったそうです。現在は陵墓参考地となっています。
見瀬丸山古墳は、名前だけは何度も出したと思います。また、巨大石室等の写真でも人に良く知られている古墳だとも思います。しかし、この古墳の扱われ方を見てみますと、共に巨大古墳と呼べる先ほど述べた河内大塚山古墳と良く似た状況におかれていたようです。本墳の場合は、江戸時代の末になって漸く天武・持統陵とされたのですが、明治の初めの中頃には即陵墓指定から外され、しかも後円部の墳丘の一部だけが陵墓参考地となるという不手際な扱をされています。とは言っても、そもそも本墳はその名前が示すように前方後円墳としてではなく円墳として長い間扱われてきたのですから、それも無理からぬことなのかもしれません。それにしても、全国で5位と6位を誇る大塚山古墳と丸山古墳が長い年月にわたって陵墓とされていないのは不思議というほかはありません。
不思議と言えば、実はこの丸山古墳を以って巨大古墳と今城塚から続く剣菱形古墳とが終焉を迎えています。そして、その丸山古墳から1,500mほど南西よりの距離に本題の牽牛子塚古墳はあります。両古墳の時間の隔たりは半世紀から一世紀までの間。時間や距離の隔たりはありますが、石宝殿古墳から続く刳りぬき式石槨がこの牽牛子塚古墳でやはり終焉を迎えています。左岸と右岸の違いはありますが、共に淀川中流域から発した古墳の文化が大和の飛鳥の地域に運び込まれて終焉を迎えているのです。それにしても、いったい誰がこの文化を運んだというのだろうか。
秦という入れ物。
寝屋川市の東の端を通る大阪府道枚方富田林泉佐野線、かっての高野街道を踏襲しているともいわれていますが、この道路を挟んで南に石宝殿古墳、北に寝屋古墳があります。 また、道路の北西、淀川に向かう一帯はいわゆる太秦地区です。この地区には太秦高塚古墳や高宮廃寺、さらには秦の河勝墓もあります。どうやら、最後の最後までも秦氏とかかわらなくてはならないようです。それでは、秦氏に関しての私論を少し述べてこの章の終わりとしましょう。
斉明天皇と秦氏とのかかわりについては少しではありますが既に話したと思います。また、丸山古墳と秦氏とのかかわりは太秦の地形で少し述べたと思います。そして、この古墳を大陵命(おおみささぎのみこと)の墓とし、仁徳(おおさざきのみこと)の時代を秦河勝の時代にまで引き下げたと思います。
『記』によれば、秦の先祖の渡来は応神天皇の時代。一方『紀』には、秦の表記はありませんが、後世秦の先祖とされる弓月君が百済より120県の人民を引き連れてきたとする記事がやはり応神紀にあります。ところで、この中の120県の120という数は、十干と十二支を掛け合わせた数で多分に作為的な数と見えます。ただ、『隋書』の多利思比孤の120軍尼制や『宋書』の倭王武の倭地の属国数121といった数にも近く、あるいはそうではないのかも知れません。
思うに、120という作為的な数を用いたのは多利思比孤が最初かもしれません。と言うのも、武の属国の121は486年の頃の事、一方多利思比孤の120の軍尼制は600年の頃の事、つまり486年から600年までの114年間、日本は全くと言っていいくらい変わらなかったことになります。これは多利思比孤が、先ほどの作為的な数にこだわって120軍尼制を敷いた為と思えます。そもそもこの王は、冠位を12階と定めてもいるのですから、軍尼制を120とするのは当然といえば当然の事ではあります。しかし、それなら弓月君の120県の人民は事実というのだろうか。
雄略紀15年に、秦の民を分散させて臣連に好きなように使わせたとあります。当時の臣連、特に臣は地域名(国名)プラス臣で呼ばれている者がほとんどで、この記事はある意味では秦の民を日本全国に散らばせたとも受け止められる内容です。そして、なぜか雄略は今度はこの民をわざわざ集めて秦酒君に与えているのです。この記事は、太秦のいわれを説く物語として雄略紀に収められているものですが、15年の条にまとめて書かれており時間的経過の把握が難しいあやふやな感じのする内容となっています。それになにより、神を神とも思わぬ雄略、人を人とも思わぬ雄略、その雄略が臣連のために秦の民を貸し与えたとも思われません。
思うに雄略は強権を発動した天皇です。彼は、逆に臣連から職能部民を取り上げたのではないだろうか。しかし、それが雄略の時代に行われたというわけではありません。あくまで強権の発動できる天皇の時代にということです。そもそも、雄略の時代は古墳造りの絶頂期、たとえ雄略といえどそれは出来なかったでしょう。そう考えれば、この時代に最も相応しいのは多利思比孤の時代、あるいはこの王の前の王の時代ということになるかもしれません。しかし、文献の都合上この王の時とするべきかもしれません。
『隋書』によれば、この王は80戸に1伊尼翼を置き、10伊尼翼で以って1軍尼とし、全国で120軍尼があるとしています。この制度は明らかに中央集権的国家のあり方を示すもので、この制度の施行に於いては土地あるいは戸とは関係のない地方豪族の職能部民の扱いが当然問題となったはずです。そして、これを解決したのが秦氏の先祖ではないかと。
弓月君は湯調君とも書けます。湯は湯沐令(皇族の領地の管理者)、調は租庸調という当時の税制の三本柱の一つ。湯に関しては私のこじつけですが、調に関しては間違いないと思います。雄略紀には、秦酒君はその部民を使って租税としての絹や縑を作らせたとあります。後世の律令制下では、調は繊維製品となっています。雄略紀15年には秦の民によって庸調が上がるようになったとありますが、これは雄略の時代ではなく欽明の時代とすべきでしょう。
欽明紀では、冒頭の天皇の出自記事のすぐ後に秦大津父の名が出てきます。そこには、欽明と大津父(おおつち)との因縁が物語られており、欽明が皇位につけたのは大津父によるものとする内容となっています。思うに、欽明の時代は、河内大塚山古墳や見瀬丸山古墳の築かれた時期に近く、7章でも述べたように大王一人に権力の集中した可能性のある時代でもあります。あるいは、大津父が地方豪族の在地の部民から調を取ることを欽明に進言したのではないだろうか。そして、このときの部民を秦の民としたのではないだろうか。時代が大きく錯誤しているようですが、『紀』の中で秦氏が蔵とかかわりがありとする記事の最初がこの欽明紀なのです。
ところで斉明天皇は、母方をたどっても父方をたどっても、実は欽明につながります。 あるいは、秦もまたそうなのかも知れません。皇極紀は茨田の池の水の様子を何かの前兆として四度にもわたって繰り返し記載をしています。この天皇には秦氏だけではなく茨田とのつながりもあるのかも知れません。思うに、茨田は万田とも出来、秦は八田とも出来ます。万も八も古代から大きな数を表わす数詞として扱われてきました。あるいは、万田とは八田のことかも知れません。その万田あるいは、八田あるいは八多という入れ物にあらゆる職能集団の民を放り込んだ結果が秦あるいは太秦なのかも知れません。
§18 朝廷を形作る数。
十や百には、充分あるいは一杯という意味での言葉、十分や百足るがありました。8はどうでしょう。今風には、腹八分目に医者要らずでしょうか。8には、丁度好いという意味もあるのかも知れません。なにせ八卦占いは丁度好いのに限りますから。相撲の "ハッケヨイ" もそういった意味だと聞いています。
『紀』、欽明天皇15年(556)2月の記事に易博士(やくのはかせ)が百済より来たとあります。『紀』が易をわざわざ "やく" と読ませているのは易が益(やく)につながるからかも知れません。日本は易の中に益を見たのかも知れません。なお、『紀』には、易経を含む儒家が重んじる五経を教える百済の五経博士が継体天皇7年(513)より交代で日本に来ていると記しています。あるいは日本と易との関係はこの時より始まるのかも知れません。
思うに古代人は、数を単に数詞だけとしてではなく、いろいろの意味内容を含ませて用いているようです。とりわけ8は、八という字形に加えて八卦すなわち太極・両儀・四象・八卦・六十四卦と末に広がっていく形や、さらには四方をさらに極めた八方という全方位を表わす形として古代人の文化の中に浸透していったように見受けられます。
朝廷を構成するもの、大極殿、朝堂院。
「隋書俀国伝」に次のような記事があります。
倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停め、云うわが弟に委ねんと。
これについては、日本の古代からの慣わし "日嗣" のことを述べたものであるとするのが大方の意見のように見えます。おそらくそうだと思います。しかし、 "日嗣" は兄弟間だけで常に終始するものではありません。また、仮にこの王の時がそうであったとしても、天を兄とし日を弟とするその理由の背景が今一つはっきりしません。あるいは、兄は既に死して天にいるというのだろうか。それなら、生きてると思われる弟がなぜ日となって天空にあるのだろう…。それとも彼も既に死しているというのだろうか。
そこで、これを数字に置き換えてみましょう。すると、兄は長男の一に、自身は二男の二に、弟は三男の三になり、三兄弟が1・2・3という三つの数に置き換わります。
さて、1と云えば太一。2と云えば…、分かりませんが、3と云えば違うことなく太陽です。太陽には三本足のカラスが住み、中国では古来よりり太陽を表す数が3とされてきています。そうなりますと、2は月を表わすことになります。なぜなら、太一は北極星のことで太極でもあります。太極とくれば、太極・両儀・四象・八卦とくるのが当時の習いでしょう。両儀は陰陽、月と太陽のことでもあります。しかし、倭王は自らを月としているわけではありません。なぜなら倭王は大極殿(正確には大内裏)に居しているからです。
「隋書俀国伝」の時代、大極殿が存在していたかはともかく、冒頭でも少し述べたように、八卦(易経)は既に伝わっていたと思われます。例えばこの王が制定した冠位十二階、この十二階に三兄弟の3を加えると15となります。これは太極・両儀・四象・八卦を数に置き換え、これを加え合わせた数と同じなのです。そして八卦が伝わっていたとすれば、太極を理解する上での道教神話もまた伝わっていたはずです。道教神話によれば、紫微宮(大内裏に当る)には北極星を神格化した天皇大帝と紫微大帝の他合わせて4柱の神が居るとされています。また、天皇大帝が長男、紫微大帝が次男とも言われています。もしかしたら、次男を称する倭王は自らをこの紫微大帝に擬しているのかもしれません。と言うのも、紫微大帝は雨や風や日月星辰を司る天帝とされているからです。しかも、倭王の名の阿毎多利思比孤は、雨垂し彦とも出来るのです。なお、大内裏という呼称は12世紀以降に登場します。
朝堂院と数
阿毎多利思比孤は、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘によれば622年に死亡しています。光背銘はその翌年623年に刻まれていますが、この中に "法興" と "法皇" の文字が見えます。この王が隋の煬帝を "海西の菩薩天子" と呼んでいることから、自身を海東の菩薩天子になぞらえていることは確かで、法興と法皇の "法"は 明らかに仏法の法と読み取れます。また、法皇の皇は道教神からのものでしょう。天皇号の起源をこの天皇大帝に求める説がありますが、おそらくそうでありましょう。思うに、仏教に深く帰依し、八卦を操り、道教の神とも親しむ、これが当時の有識者のあり方なのやも知れません。
ところで、海西の菩薩天子さらには海東の菩薩天子、これらは具体的に何を指しているのだろう。法隆寺金堂には三体の本尊があります。西の間から、阿弥陀如来像、釈迦三尊像、薬師如来像の順で安置されています。これはそのままで既に三尊形式になりますが、本来は個々それぞれが三尊形式だったとされています。今日、三尊像として残っているのは中の間の上宮法皇の尺寸王身釋像だけです。この尊像の両脇侍は銘文から鬼前太后と干食王后とに読み取れます。しかし、そうではあるが、あるいは日光菩薩と月光菩薩に擬しているのかもしれません。
思うに、仏教では西方が阿弥陀如来、東方が薬師如来とされています。すると、海西の菩薩天子とは阿弥陀如来になるべく修行を積んでいる菩薩ということになり、海東の菩薩天子とは薬師如来になるべく修行を積んでいる菩薩ということになります。上宮法皇は尺寸王身釋像の姿になっていますから、既に薬師如来ということなのでしょうか。
薬師如来は、東方浄瑠璃世界の教主で、日光菩薩と月光菩薩を脇侍とし、十二神将を眷属とする、衆生にとっては病と苦しみを癒し救ってくれる多分に現世利益的な仏でもあります。現世利益的といえば、八卦占いや道教もまたそうであります。あるいは、冠位十二階を十二神将に置き換えても好いのかも知れません。また、十二神将を眷属すなわち親族と見做せば、天武の制定した諸王用の位階、明位と浄位が合わせて十二階であることにもつながります。天武もまた儒仏道を修めた天皇なのです。儒教、仏教、道教、これらが錯綜する世界が古代にはあったのです。
王は紫微宮(天の中心)に居して、日月を司る、あるいは従える。道教的神殿に北極星として座し、しかも仏徒として日月を脇侍として天下を治める。これが隋に "日出ずる處の天子" と名乗った倭王阿毎多利思比孤の理想の姿なのです。そして、この理想の姿あるいは形が後の宮殿造りに現れてきます。先ず、藤原宮から見てみましょう。
左は八卦生成の木構造(14章の図14c)を、藤原宮の大極殿から朝堂院にかけて順次宛がっていった図です。太極を大極殿に宛がうことは誰もが先ず考えることだと思います。そして、実際、藤原宮と整合しました。
周知のように、「記紀」成立以前の宮殿で、大極殿と朝堂院とが揃っていたとされるのは前期難波宮と藤原宮だけです。ただ、近江大津の宮が、あるいは前期難波宮の縮小版であるかもしれません。しかし、それはさておき、前期難波宮は藤原宮を先行する宮殿であります。普通に考えるならば、藤原宮は前期難波宮に似ていなくてはなりません。しかし、必ずしもそうとはなっていないようです。
難波宮朝堂院
左は、普通に見かける前期難波宮の復元図です。藤原宮の場合と同じように太極以下を宛がってみました。
図からも分かるように、太極と両儀とは宮殿建物と関連表示することが出来ましたが、四象と八卦とはそれが出来ませんでした。と云うのも、前期難波宮の朝堂院は藤原宮のような東西6棟ずつの12棟の並びではなく、東西7棟ずつの14棟の並びとなっているからです。『紀』によれば、難波宮の造営計画は、孝徳天皇が大化元年(645年)の12月に行った遷都宣言以降と思われますので、上宮法皇の死(622)より23年後、藤原宮造営計画(天武13年とすれば684)の39年前ということになります。そこで、もし仮に近江大津宮が東西7棟ずつの14の朝堂院を有していたとしたら、半世紀近くの間14朝堂院の思想が息衝いていたことになります。
14朝堂院の思想は、倭王阿毎多利思比孤の①の言葉の中にあります。阿毎多利思比孤の時代、大極殿も朝堂院も無かったと思われる時代ですが、仮にこの王がそれらを造ったとすればどうなるかを少し考えてみましょう。
先ず、天を兄とし、日を弟とする倭王の立場ですが、左図のⒶのようになります。
①は太一であり紫微宮でもあります。ここでは、倭王は次男の紫微大帝に当たり、北斗七星を従え恵みの雨を北斗の柄杓より降らせます。と、このように述べれば、この王の宮殿はⒸのように東西日月の下にそれぞれ7つの朝堂院を持つ前期難波宮と同じ14の朝堂院を有する宮殿となるやもしれません。
しかし、それならば冠位を6種12階とはせず、7種13階あるいは14階としているはずです。実際、難波宮の創設者孝徳天皇は7種13階の冠位を制定しているのです。思うに、この王が12階の冠位にこだわったのは、やはり自らを薬師如来を目指す海東の菩薩天子だとする自負があるからでしょう。また、この王に従うのは十二神将をおいて他にはないということなのかもしれません。そしてなにより、四象八卦にも合えば十二支にも合うということでもあります。
しかし、ここでの肝心なことは実際の朝堂院の初めは孝徳朝の14朝堂だということでありながら、それがなぜ12朝堂となったかということなのです。
A | 推古11年(603) | 6種12階 |
B | 大化3年(647) | 7種13階 |
C | 大化5年(649) | 7種19階 |
D | 天智3年(664) | 7種26階 |
E | 天武14年(685) | 8種60階 |
F | 大宝元年(701) | 9種30階 |
左は文献に見える冠位あるいは位階の制度を年代ごとに示したものです。この表から時代を追って冠位の種や位階が増えているのが読み取れます。そういう意味では、AからBへの冠位増加の変化は14朝堂院に合わせてのものと見えます。しかし、Eへの変化をどう見るべきか。実は、Eは普通6種48階と呼ばれているものなのです。8種のうちの明と浄の12階は諸王位用であって一般のものではありません。加えて、この制度は藤原宮にも引き継がれ12朝堂院とも調和しています。つまり、Eへの変化は、必ずしも全面的に増えているとは言い得ないのです。
思うに、政府が大きくなれば位階も増える。単純にはそうだと思います。しかし、二階から目薬とも言います。縦型社会は引き伸ばせば引き伸ばすほど効率が落ち、加えて齟齬も出ます。それに比べて、八卦はわずか三つの爻しかありません。その八卦二つよりなる易は、六つの爻で百般の事象を表わす働きをします。そもそも政府朝廷の要大極殿は易経の太極より出た呼び名です。易が6爻で百般の働きをするなら、朝廷は6種の冠位あるいは位階で百般の働きをさせる。そう云うものではないだろうか。
思うに、孝徳や天智は北極星にこだわり過ぎ、北斗七星こそが百般の働きをすると思い込んだのかも知れません。なお、Fの制度ですが、9種30階で一見12朝堂にはそぐわないようにも見えますが、
E | 2種12階 | 6種48階 |
F | 3種6階 | 6種24階 |
実はEと同じことがFについても言えのです。Fの9種のうち正一位から従三位までの3種6階は、正四位以下にはある上と下の位階がなく特別のものと見ることが出来ます。したがって、Fは実質6種24階となりEの位階を半分に縮めたものとみなすことが出来ますし、そもそも、この制度は藤原宮12朝堂院で出来たものなのです。
八卦と云えば8。しかし、3でもあり6でもあるということです。天武の時代、易の思想は深く根付いてきているようです。最後に、前期難波宮の八角殿についての私論を述べて、この章の終わりといたしましょう。
既にお気付きのこととは思いますが、この建物には日と月を象徴するものが納められていると云うのが私の主張です。孝徳紀によれば、この天皇は仏法を尊んで神道を軽んじたとされています。そういう仏教的な見地に立てば、それらは日光菩薩と月光菩薩ということになります。ただ『紀』には、この天皇の即位の際に大伴の連と犬上の君の二人が金の靫(矢入れ)をつけて壇(たかみくら)の左右に立ったともあります。
これは何とはなく『記』の天孫降臨の一場面を思い浮かべるような内容です。天孫降臨では、大伴の祖の天の忍日の命と天つ久米の命の二人が天の靫・弓・矢を身につけて天孫を導いたとあります。あるいは、金の靫の中にあるのは天の矢かもしれません。矢には、丹塗り矢が稲妻を表わすように光の意味もあります。天の矢とは天からの光で、正に日光と月光のことでしょう。しかし、神話には、天の波波矢(ははや)と天の真鹿児矢(まかごや)とがあるだけです。
ところで、天から矢の様に舞い降りるものがあります。そう、鳥です。神武紀では八咫烏と金鵄が登場し、神武の手助けをしています。この二羽を日月の象徴とすることは出来ないであろうか。無論、古典的には八咫烏も金鵄も太陽の象徴です。しかし、天皇即位の礼の日に用いる大錦旛(だいきんばん)では、八咫烏あるいは金烏を刺繍した大錦旛は日像<纛旛(とうばん)と対にされ、金鵄を刺繍した大錦旛は月像纛旛と対にされています。
思うに、太陽を陰と陽とに分ければ金烏(きんう)と金鵄(きんし)とになるのではないだろうか。金烏玉兎(きんうぎょくと)という言葉があります。金烏は太陽の異称、玉兎は月の異称です。転じて歳月を表わす言葉となるのだそうですが、金烏と金鵄をそのように並べた場合、金烏が太陽なら金鵄は太陰つまりは月となるほかはありません。
『記』には金鵄は登場しませんが、『紀』では対として登場しています。また、後世に於いても対として扱われています。対とは陰陽の対の事です。陰陽思想は、陽があれば必ず陰があるとする法則で成り立っています。そういう意味では『記』にも金鵄は登場しているのです。金鵄は、記載されてはいないが記載されている。これと良く似た扱いをされているものに三種の神器の一つ八尺瓊勾玉があります。
八尺瓊勾玉は八咫鏡と天叢雲剣とで三種の神器をなし、皇位継承の証として代々引き継がれてきたものです。しかし、その継承の記事に剣と鏡の引き継ぎは記載されてはいますが玉の記載はありません。しかし、鏡と玉を陰陽の対と見做せば、玉の記載もあったということになります。ところで、神武紀には神武の三種の神器とでも呼べるものが天から下されています。八咫烏と金鵄と熊野の住人高倉下が神武に献上した剣がそれです。これを本来の三種の神器を見比べて見ると非常によく似ています。思うに、金烏で事足りるものをわざわざ八咫烏としたのは八咫鏡に合わせるためのものと見えます。また、月の異称玉兎と八尺瓊勾玉とは何か通じ合うところがあるようです。
さて、神武の東征は、金鵄が神武の弓の先に止まることによってその最終段階を迎えます。弓は弦月の象徴、その先端に止まる金鵄もまた月の象徴。
§17 神仙、風門がつなぐもの。
とにもかくにも、8は大きな数を表わす。また、そうした意味で古代人がこれを使ってきたことは確かなことです。しかし、古代には百足る、あるいは百足らずという言葉があります。そして何よりも、十分という言葉が今日にあります。そもそも現実の場面では、8は必ずしも大きい数というわけではありません。実際、数えるために用いる人の手の指は10本あるのですから。つまり、10で全部ということになります。それとも、足の指もありますから、百なら全部と言い切れると考えるべきかもしれません。
聖徳太子の十七条憲法には、百寮とか百姓とかの言葉が出てきます。これは、大勢の官僚とか大勢の姓のある者とかという意味よりも全部の官僚あるいは全部の姓のある者という意味合いで使われています。今日で言えば、正に100%という意味です。その証拠に、百足る、あるいは百足らずは百を基準にしての言い回しなのです。
とにもかくにも、数の大きさでは8は百にも十にも劣るようです。しかし、数の形としての大きさではどうでしょうか。そもそも人は100角形を即座に捉えることが出来るだろうか。おそらく10角形でも無理と思います。個人的見解かもしれませんが、3角形や4角形や5角形、そして6角形と、おそらく誰もが8角形までは即座に捉えることが出来ます。しかし、9角形になると角や辺を数えないと確信は持てません。そういう意味では、数の形としての最大のものはやはり8角形ということになりましょうか。
さて、八角堂に八角墳、そして高御座。古代からの八角形の造形物としてはこの三つが際立っています。しかし、その出自に即座に答えられるものとしては天武朝に始まったと思われる高御座ぐらいでしょうか。それ以外は、どれがその最初であるかは俄かには答えられません。ただ、個人的見解を述べさせていただけるなら、八角墳の最初は寝屋川市にある石宝殿古墳。また、八角堂の最初は前期難波宮内裏南門の左右に建っていた八角形の建物と思います。ただ、これに関しては道教関係の建物とする見解もあるようです。
日本的神仙思想
第4章では、八角墳の野口王墓が藤原京の中軸線上にあるとしました。また、これが道教のいう朱宮だともしました。ここまでは確かと思われます。しかし、朱宮が八角形かどうかは分かりません。ただ、道教の建物としての高楼があります。これが八角形であったりすることはよくあることです。しかし、これは道教のいう仙人を呼び寄せたり、あるいは空を飛ぶ仙人を見たりする望楼でしかなく、朱宮ではありません。
そもそも道教は、本来個人の現世利益に特化した方術の宗教で、仏教のように鎮護国家や衆生済度を最初から目指していたものではありません。したがって、たとえ天皇が仙人になれたとしても、果たして人々が "やすみししわがおおきみ" などと唱和したりするものかどうか、はなはだ疑わしいと言うほかありません。それに、天皇が仙人になって如何しようというのだろう。鶴と一緒に空のかなたに飛んで行こうとでも言うのだろうか。秦の始皇帝にしても、漢の武帝にしても、彼らは神仙的仙人になりたかったわけではありません。彼らは、ただ偏に不老長寿になりたかっただけなのです。難波宮内裏南門で神である天皇が仙人を望む。あり得ない話です。
思うに、本家本元の中国でさえいったいどれ程の者が神仙となり得て名を残したというのだろうか。ましてや、道士の渡来のない日本ではなおさらに少なかったと言うほかはありません。私の知る限りでは、奈良県吉野郡吉野町にあった龍門寺に大伴仙・安曇仙・久米仙の三仙人が居たという話ぐらいです。それにしても、道教の仙人が仏教寺院に居たというのも奇妙な話ですが、あるいは神仙等の物語は僧侶が持ち込んだのかも知れません。
時代は下りますが、孫悟空や三蔵法師が出てくる『西遊記』は僧と仙人との物語です。また、『三国遺事』には新羅の慈蔵法師が唐の太和池の辺で神人と会って問答をしたとあります。当時、朝鮮、特に中国ですが、道士と法師の間に疎外感はなかったように見えます。とりわけ外来の仏教からすれば、土地神的道教を積極的に利用し布教に役立てるというのが、常套というものでしょうから。日本でも、仏教説話といわれる『日本霊異記』にさえ少なからず道教的要素が入り込んでいるようにも見えます。思うに、『霊異記』は中国文学や中国仏教説話の影響を受けて出来たものとされています。そして、それらの作品には最初から道教的要素が入り込んでいるのです。
言ってみれば、日本はシルクロード文化の最終処分場のような位置にあります。放っておいても種々の文化が切れ切れの状態で入ってきます。陰陽五行と八卦の思想、加えて天文暦法の技術や儒仏の教え、それら必要なものさえ最低限整えておけば、あとは全体は入らなくとも一部分さえ入っていれば、日本なりの道教が創れるのです。現に後世、陰陽道を創り上げています。そしてなにより、龍門寺の三仙人は既に日本的とも呼べる仙人なのです。思うに、この三仙人は「記紀」が創り出したものと言えます。
藤原宮と神仙境
さてこの三仙人、大伴仙・安曇仙・久米仙と聞いて何を思い出すだろう。それは、おそらく天孫降臨と神武東征の物語ではないだろうか。天孫降臨では、大伴連の祖天忍日命と久米直の祖天つ久米命の二神が武装して邇邇藝命を先導しています。また、神武東征では、八咫烏の案内で莵田の地に入った神武は、この地の支配者兄宇迦斯を大伴連の祖道の臣の命と久米直の祖大久米の命の二人に討たせています。なお、安曇仙は単純には安曇連の役割を受け持っていたということになります。つまり、安曇氏の職掌は皇孫や天皇の食事の世話をする膳職です。思うに、大伴、安曇、久米は常に天皇に付き従っていた伴の造であります。どうやら日本では、仙人になったところで、天皇からは離れられない不自由な身の上でしかなかったのかもしれません。
ところで、三仙人の居た龍門寺跡は竜門岳の南斜面の中腹にあるのですが、この龍門岳の北が神武大和平定の最初の舞台の宇陀なのです。また、時代は下りますが、南は天武が近江朝廷から逃れて隠棲した吉野の宮がある宮滝です。天武はこの吉野の宮から天下平定を目指したといいます。思うに、龍門岳の龍門とは登竜門の竜門のことでしょうか。天下平定を目指す天武の一行は、いわばこの登竜門を昇りきったということなのでしょう。
思うに龍門岳は、飛鳥や藤原の宮人から見れば、ちょうど東南つまりは風門に当たります。まさにこの地は、彼らにとっては神風の吹く神仙境なのです。持統天皇は天武の死後何度もこの地を訪れています。あるいは、神仙となって空を飛ぶ天武の姿を見ようとしていたのかも知れません。持統がつけたとも言われている天武の諡号天渟中原瀛真人、その中の真人は仙人のことだとも言われています。そして、その仙人の姿こそがあるいは神武なのかもしれません。
第4章でも述べたことですが、綏靖と継体紀を除けば神武の名は天武紀にしか見えません。おそらく神武天皇は、天武の時代に生み出されたものなのかも知れません。『紀』によれば、神武は畝傍の東南の橿原の宮で即位し、道の臣と大久米を畝傍山の周りに住まわせたとあります。また、畝傍山の西の川辺の地に久米邑があるのはそのためだともしています。今日、畝傍の南に久米寺と久米の地名が残されていますが、当時つまり天武の時代ですが、伴の造の久米部を大伴氏が率いて常に天皇の側にいたという伝承から久米邑のあるこの地を神武の宮処とした可能性があります。また、膳職に膳の臣ではなく安曇という海部の統率者が顔を出しているのも天武の大海人という名前がかかわっているためとも言えます。三仙人の話は単に伝説にすぎませんが、伝説といえど当時の歴史的背景が生み出したものであることに違いはないと思います。
ずいぶんと横道にそれてしまいましたが、古代人が八角形にこだわるのは実は道教の影響からではなく八卦からのものなのです。また、天皇自身が八角形を利用するという行為は、おそらく仏教からのものと思われます。しかし、これらについては章を改めて述べたいと思います。そこで、最後に久米仙人の話を少し述べてこの章の終わりとしましょう。
久米仙人の話は、『今昔物語』ばかりではなく仏教関係の諸書や『徒然草』など随筆や説話などにも少なからず記述があるそうです。ただ、これらの書は奈良時代を遡ることはなく、この話が天武時代にできた可能性はほとんどありません。しかし、話の内容や久米寺の創建が白鳳時代に遡ることから、全く無いとも言い切れません。
左は、龍門岳と藤原の宮との地理的関係を図示したものです。この図からもわかるように、龍門岳は藤原の宮から単に東南に位置するというだけではなく、飛鳥や藤原の地を流れる川すべての源流域である龍門山地の主峰としての存在感の方がより強いのです。たとえば、『万葉集』の藤原宮御井歌に、"水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水" と歌われているように、これも竜門岳があってこその賛歌と言えます。思うに、水の都の藤原京にとって龍門岳は欠くことの出来ない存在なのです。
さて、久米仙人の話しですが、"天平年間に大和国吉野郡の竜門寺に籠もって、飛行の術を行っていたが、川で洗濯する若い女性の白い脛に見惚れたせいで神通力を失って墜落。結局、その女性を妻として俗界に暮らすが、後に高市遷都の折り木材を空に飛ばせて運んだ功により免田30町を賜り、それで久米寺を建立した" というものです。
単純には、これは久米寺縁起とでも呼べそうなものですが、久米寺は白鳳年間の寺で、もう一つの奥山の久米寺になるとさらに古くなり、とても天平年間の話しとは出来ないようです。物語の中に高市遷都とあることから、あるいは難波の宮もしくは大津の宮からの遷都の時の話なのかも知れません。しかし、これに付いては別の章で触れることとし、ここでは猿も木から落ちると言うか弘法も筆の誤りと言うか、なぜ仙人が墜落し、また、それがなぜ久米仙人でなくてはならなかったのか、素人の疑問に少しばかり時間を割いてみましょう。
神武記と久米仙人
『日本霊異記』に、仙人ではありませんが雷が落ちるという話しがあります。これは、雷岳の地名説話が発展したものと思われますが、この原型となるものあるいは同じ原型からできたと思われるものが雄略紀にもあるので少し比べてみますと、どちらも雷を捕らえるという話で、主人公もまた共に少子部蜾臝(スガル)となっています。ただ、『霊異記』では雷岳に落ちた雷を捕らえているのに対し、『紀』では三輪山に登って三輪山の神の化身である蛇を捕らえるという違いはあります。『霊異記』の作者が『紀』を読んでいたかどうかは分かりませんが、雷岳は一つしかありませんし配役もまた同じです。単純には、この二つの話は全く同じものであるということになります。ただ、そうなると三輪山と雷岳は同一の地点ということになります。無論、これは現実としてはあり得ないことではあります。しかし、これがもしあり得ることだとしたら如何でしょう。
何度か言ったことですが、三輪山は藤原や飛鳥からは鬼門に当たります。また、藤原や飛鳥を通り三輪山に向かう北東の線を引くと、この線上に益田岩船と丸山古墳の前方部、そして香具山が乗るということも既に述べたと思います。ところが、実はもう一つ乗るものがあったのです。それは、賽の隈です。第6章ではこれを太秦として話を進めていますが、要は塞の神の居る場所ということです。そこでは川は流れを遮られ、流れを賽のように直角方向へと追い遣られます。そして、おそらくは空を飛んでいる仙人や雷もその上では行く手を遮られ、あるいは墜落することになるのでしょう。
桜井市から橿原市にかけての地図を見ると、山田寺の西で曲がり終えたかっての阿部山田道がほぼ真っ直ぐ真西に向かって橿原市西池尻町の外れまで延びていたことをかなり正確に掴み取ることができます。また、その東と西のそれぞれに賽の隈を持つ川が流れていることも分かります。東の川は飛鳥川で、賽の隈は阿部山田道のすぐ南にあります。もし雷が落ちるとすればこのあたりで、物語の雷の落ちた雷岳は、賽の隈とは阿部山田道を挟む位置関係、山田道の北側にあります。そして、その東には奥山久米寺があります。
次に、西の川は高取川で、万葉集には "賽の隈檜隈川" と歌われています。なお、下線の部分は当て字です。この川の賽の隈は丸山古墳のすぐ西にありますが、阿部山田道からはかなり離れています。しかし、仙人が落ちるとすればこのあたりでしょう。それに、ここが三輪山に向けて北東に引かれた線上に乗るもう一つのもの、つまり本家本元の賽の隈なのです。さて、賽の隈を過ぎた高取川の流れは、やがて阿部山田道を抜け東に久米寺を望んで畝傍山の西へと流れ下ります。その畝傍山の西こそが、神武紀の記す久米邑のある川辺の地なのです。そして、この地と対を成すのが三輪山の西、狭井川の辺なのです。
「記」の天孫降臨や神武の物語から、大伴仙と久米仙が道の臣の命と大久米の命に置き換わるという意味のことは既に述べたと思います。実は、神武記には久米仙が若い女性の白い脛に見惚れて神通力を失うという話に置き換わる物語もあるのです。
物語の場所は狭井川の辺。下図の左上部に拡大図があります。①のT字型の流れを持つ正に賽の川と呼び得る川の辺です。ここで、大久米の命は高佐士野であそぶ七媛女と出会っています。そして、彼と相対したのが七媛女の先頭を歩いていた富登多多良伊須須岐比売の命なのです。
ところでこの話、何かに似ていると思いませんか。そう、天孫降臨の段、天の八街での天の宇受売の命と猨田毘古の神との対峙の場面です。この時、天の宇受売は陰(ほと)をあらわにしたと思われます。これを見て、猨田毘古は初めて口を開いたといいます。天の宇受売が猨田毘古を制したということでしょうか。
天の宇受売は天の岩戸以来 "陰(ほと)" を冠する女神です。そして、富登多多良伊須須岐比売もまた "富登(ほと)" を冠する媛女(おとめ)です。大久米の命は八街のように流れが分かれる川の辺で、七媛女の先頭に立つ "陰(ほと)" を冠する媛女を見たのです。そして、大久米の命は彼の黥ける利目の神通力を失ったということなのでしょう。連想が先走りしているかもしれませんが、他にも数の一致があります。それは、高佐士野の(たかさじの)七媛女に対し高天原の七伴緒(ななとものお)という構図です。
「記紀」には七伴緒という呼び方はありません。あるのは五伴緒という呼び方です。内訳を見てみますと、中臣連の遠祖天児屋命、忌部首の遠祖布刀玉命、猿女君の遠祖天宇受売命、作鏡連の遠祖伊斯許理度売命の五名です。これ以外にも幾柱かの神が付き従っていますが、それらの神は鏡や剣といった三種の神器と同列に語られており、また子孫をも持ちません。この段で、子孫を持ち命と呼ばれているのはこの五伴緒と大伴連の遠祖天の忍日の命と久米直の遠祖天つ久米の命の七名、つまりは七伴緒ということになります。
まとめてみますと、天宇受売命と富登多多良伊須須岐比売は七名の連れの先頭に立って相手と対峙し、これを制した。そしてその場所が、流れや道が交叉する塞の神のいる天の八街や川の八街だったということです。人は相手を見ることによって相手を制したり、逆に制せられたりします。猨田毘古と大久米の命は女性を見たことによってその神通力を制せられた。久米の仙人もまたそうでした。
思うに、久米の仙人の話は天孫降臨神話や神武東征譚がその元となっているようです。また、川辺にある久米邑と三輪山より流れる狭井川の辺は、三輪山と高取川の賽の隈とを結ぶ鬼門軸でつながっているのです。そこで、図17bを見てみましょう。 ⒶとⒷ、良く似ていると思いませんか。そう、ⒶとⒷは阿部山田道を通して東西の関係にあります。つまり、ⒶはⒷでもあるのです。どうやら雷岳と三輪山がつながったようです。つまり、三輪山とⒶとは鬼門軸でつながり、ⒶとⒷとは阿部山田道でつながる。そうなれば、『霊異記』の雷岳と「雄略紀」の三輪山とが重なり合うことになります。