§16 形としての8。
今日、いや昔から我々は8を末広がりの縁起のいい数として捉えています。しかし良く考えてみれば、これは八という漢字が大陸から伝わって以降のことであり、日本古来からの捉え方ではありません。また、「記紀」にしても8を、八十、八十万、八百万といった、とにかく数が大きいことを表わすことに用いているようですが、これとて八卦の思想が伝わって以降のことでなければ、8をそのような意味で使うことはできないはずです。
八卦の思想がいつ頃伝わったのか、それは分かりません。ただ、「隋書俀国伝」に阿毎多利思比孤の国の制度として "八十戸に一伊尼翼を置く"という記載があります。おそらく、600年代頃までには伝わっていたと思われます。そして、やがては形としての8が現れて来るようになります。
八角形と天皇の御世
形としての8は、奈良時代以前だと八角墳に、それ以降だと八角堂にその姿をとどめています。ただ、仏教建築である八角堂は、八角円堂ともいわれるように円の代用とみなすこともできます。また、八角墳にしても、これを天円地方の組み合わせである上円下方墳の変形とみなすこともできなくはありません。しかし、円墳や方墳は八角墳以前より存在しています。しかも、八角墳には単なる八角墳と上八角下方墳の二種類が存在し、素人目にも円墳と方墳の単純な組み合わせではないことだけは明らかです。
ところで、形としての8の姿をとどめているものがもう一つあります。それは天皇の玉座である高御座(たかみくら)です。高御座という呼び名がいつの頃よりあるのかはわかりませんが、『日本書紀』には "壇場" と書いてタカミクラあるいはタカトノと読ませている記事が清寧・武烈・天武の紀に見えます。また、必ず "壇場を設けて" と記載されていることから即位や儀式の場合にのみ用いていたと思われます。ただ、武烈から天武までの200年近くの間、壇場を設けたという記事は見られず、壇場の設置は天武が最初であった可能性があります。そして、その時の壇場が八角形であった可能性もあります。
治天下天皇の御世から馭宇天皇の御世へ
「記紀」に、"やすみししわがおおきみ" とほめたたえる歌謡があります。『記』の場合は漢字の音表記ですが、『紀』はすべて "八隅知" と訓で表記しています。八隅とは、八つの方位の隅のことで、八紘あるいは八荒ともでき、国や世界の隅々ひいては天下を言い表す言葉といえます。そうなりますと、"やすみししわがおおきみ" とは治天下大王の歌謡表現ということになりそうです。さて、古代での治天下という表現は、古くは江田船山古墳鉄刀の銘文にまで遡りますが、書は張安という半島系の人の手によるもので、歌謡表現の "やすみししわがおおきみ" の時代とはかなりの隔たりがあります。したがって、そういう意味でのもっとも古いものとしては船氏王後の墓誌ということになります。これが出来たのが668年で、天武の時代に非常に近くなっています。
惟 船氏故王後首者 是船氏中祖王智仁首児那沛故首之児也 生於乎沙陁宮治天下天皇之世 奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝 至於阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異 仕有功勲 勅賜官位大仁品為第 三殞亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅 故戊辰年十二月殯塟於松岳山上共婦安理故能刀自同墓 其大兄刀羅古首之墓並作墓也 即為安保万代之霊其牢固永刧之寶地也①《王後の墓誌》
なお、八紘に関しては、神武紀に "八紘をおおいて宇とせんこと、亦よからざらむや" とあります。また、「古事記序文」には "天統を得て八荒を包む" ともあります。古代、天皇の御世を "治天下天皇" から "御宇あるいは馭宇天皇" に変わった時期があったとされていますが、思うに、御宇や馭宇に至るには、先ず御世という表現の時期がなくてはなりません。船氏王後の墓誌には、単に "天皇之世" とあるだけで御世とはありません。御世という表現は「古事記序文」に二度ほど用いられていますが、御宇や馭宇の表現は序文にはありません。このことから、序文の書かれた和銅年間(708~715)には、御宇や馭宇の表現は無かったと思われます。なお、慶雲4年(707)の威奈真人大村墓誌銘には御宇の表現があるそうです。一説では、御宇や馭宇の用字は大宝律令以後だともされています。
馭宇の公的表現は養老五年十月の元明天皇の詔 "諡号は、其の国其の郡の朝廷馭宇天皇と稱せ" が最初です。また、この年の前年に『紀』完成の奏上が『続紀』に載っていることから、御世、さらには御宇や馭宇の表現は史書編纂の過程で生まれたものと思われます。思うに、御世は和文表記です。この和文表記を漢文表記らしくしたのが御宇や馭宇の表記だったのではないだろうか。そして、その本となったのが神武紀の "八紘をおおいて宇とせん" であったのかもしれません。
では、御世の表現はいつ頃からあるのだろうか。御世の表記ではありませんが、"御" を同じように用いて、しかも王後の墓誌と同時代に書かれたと思われる金石文があります。
池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時 歳次丙午年 召於大王天皇與太子 而誓願賜我大御病太平欲坐 故将造寺薬師像作仕奉詔 然當時崩賜 造不堪 小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜 而歳次丁卯年仕奉
と
丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也③《野中寺弥勒像》
との二つです。
紀年銘からみる限り、①の王後の墓誌が書かれたのが戊辰年(668)、②の金堂薬師如来は丁卯年(667)、③の野中寺弥勒像は丙寅年(666)となります。無論、②の金堂薬師如来については見当違いと指摘するとは思いますが、しかし①②③の文を見比べた場合、同じ時代に書かれたように見えることもまた確かです。とりわけ問題の②には、①にも③にも共通するキーワードがあります。それにしても、三年も続けてこうした金石分が出来たというのも不思議な気がします。あるいは、667年を境に何かがあったのかも知れません。『紀』によれば、667年に近江への遷都が敢行されています。
8からは随分と離れてしまったようですが、こうした日本語的な文章には、その時代の話し方が反映されているように見えます。②と③押しなべて丁寧な敬語表現となっているのはそのせいでしょう。特に②は優しささえ感じられ、同じ法隆寺の金堂にある釈迦三尊像光背銘とは時代背景がまるで違っているようにさえ思えます。この釈迦三尊像光背銘ができたのが623年ですから、②とでは半世紀近くの隔たりがあるということになります。おそらくそれで好いのだと思います。
思うに、文字による情報の記録が文であり文章です。これは読むことによって情報が引き出されます。また、言葉による情報の記録が話しであり語です。これは語らせるあるいは話させることによって情報が引き出されます。
稗田阿礼が誦んだとされる『記』、ここには "御" を接頭語とする言葉がたくさん出てきます。『記』は②とそれほど遠く離れていない時期に話し言葉で書かれた語り物ということなのでしょう。それはさておき、古事記本文には御世を表わす言葉として "御世" と "治天下" の他は何もありません。つまり、天武の時代には "八紘" あるいは "八荒" は未だ掘り起こされていなかったということになります。しかし、周知のように天武は、八色の姓と、諸王と諸臣の合わせて8種60階の位階の制度を制定した天皇でもあります。しかも、彼の制定した制度はすべて8とかかわりがあり、正に8尽くしの観があるのです。そして、おそらく「古事記序文」が示す "昇りて天位に即きたまいき" 天皇である彼が天位に即くために昇った "壇場" は8角形であったはずです。
それならば、天武の8は何処から来たのであろうか。しかし、その前に彼が定めた位階の制度を少し見てみましょう。
諸王12階 | 諸臣48階 | ||||||||||||||
明位 | 浄位 | 正位 | 直位 | 勤位 | 務位 | 追位 | 進位 | ||||||||
大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 |
4階 | 8階 | 8階 | 8階 | 8階 | 8階 | 8階 | 8階 | ||||||||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
左は、天武が制定した位階を表にしたものです。位階は、明位から進位までの8種類、そのそれぞれに大と広の2つの階があり、明位を除くそれらの2階のそれぞれがさらに4つの階に分かれ、明位が4階になる以外はすべて8階となり、すべて合わせると60階になるというものです。
ところで、この位階の構成数"1・2・4・8"、何かに似ていると思いませんか。そう、これは八卦の生成の構成数と同じなのです。しかも、あと4階を加えることが出来れば64階となり、易の64卦そのものになります。そこで、あとの4階を加えてみましょう。思うにそれは、太后、天皇、皇后、太子の4階であったはずです。
そもそも位階制定の時代、位階は天皇が自身と太子を除いた皇親と諸臣に与えたものです。したがって、与える側に位階がないのは当然です。しかし、天皇の位、太子の位という地位はあります。当然、太后や皇后にもあるはずです。
「記紀」の時代延いては「記紀」の編纂された時代、太后や皇后がなんの抵抗もなく天皇位やそれに匹敵する地位ついたとする史実や物語があります。記紀の時代、それは取りも直さず天武の時代ですが、太后、天皇、皇后、太子の地位は同等に近いものであったのやもしれません。少なくとも、太后、皇后、太子はそうであった可能性があります。そのように考えれば、"おおきみは神" と称えられた時代、明位の明は神明の明とするのが妥当かもしれません。もしそうであるなら、天神地祇の神明の位階は、天に4階、地に4階、合わせて8階があることになります。思うに、明こそは日月を表す文字。すなわち、陰と陽、天と地を表す文字なのです。
なお、天武紀によれば明位を授かった者はいません。また、太子である草壁が位階を授けられたのも不可解です。草壁は果たして太子だったのか。歴史、すなわち歴史書。我々が今日歴史と呼んでいるものの本をたどれば歴史書に行きつきます。『紀』は事実も記すが、そうでないものも記す。②の法隆寺金堂薬師如来像光背銘にしても紀年銘通りの667年とすればすべて一つの齟齬もなく前後の金石文とつながるのです。8という数や紀年銘金石文がそのことを語っているようにも見えます。
それにしても、天武を初め古代の日本人が8に思いをかけるさまには、並々ならぬものがあるようです。しかし、高御座と八角墳、古代人はどちらもが八角形であることに戸惑いを感じることはなかったのだろうか。生者と死者、そのいずれをも八角形の中に納めても良し、納まっても良しとする発想は何処から来たものなのだろうか。
思うに、納めるあるいは納まるという以外、つまり八角形の上に立つあるいは座るということであれば、これを仏教に求めることは可能です。それは、仏像の多くが蓮華文を台座としているからです。そして、この蓮華文の基本的な形が、八弁の蓮華文なのです。
左のⒸⒹⒺは、蓮華文を台座としている弥勒と観音像です。Ⓒは③の野中寺金銅弥勒菩薩半迦思惟像。画像は、門脇禎二・水野正好編の吉川弘文舘出版 河内飛鳥 より借用。Ⓓは百済観音像、Ⓔは九面観音像です。どちらも法隆寺の有名な菩薩像です。画像は、高田良信著小学館出版 法隆寺の謎と秘話 よりの借用。
なお、借用とは言っておりますが無断借用でございます。ⒶとⒷもやはりそうでございます。この二つは、森郁夫著ニュー・サイエンス社発行 考古学ライブラリー 43 瓦 からの借用です。なにとぞ御容赦のほどを。
仏といえば蓮の花。仏像に蓮華文は欠かせないというのが日本に普通にある常識です。しかし、日本への蓮華文の最初は小さな仏像、たとえばⒸやⒹのような形で入って来たと思われます。そして、それらは一部の人の目に留まるだけでのものでしかなかったと思います。それが今日の常識を生み出すほど多くの人々の目に留まるようになったのは、やはり寺院の屋根の軒先を飾る瓦当て文様からだと思います。
ⒶとⒷは寺院の軒先を飾った瓦当ての文様です。Ⓐは蓮華文のようには見えませんが、しかも六弁しかありません。実は、これは高句麗の瓦です。高句麗は古くから中国文化と接していたため瓦当ての文様も非常に簡略されたものとなっています。Ⓑは奥山の久米寺のもので見ようによっては八角形に見えなくもありません。なお、Ⓓの台座は6角形、Ⓔの台座は8角形となっており、台座と瓦当て文様とは何らかのかかわりがあるように思えます。それに、寺院には八角堂の他に六角堂も存在します。とは申しても、円の等分割は6や8が一番簡単だからと言われてしまえばそれまでの事ではありますが。
ところで、寺院と言えば瓦、瓦と言えば蓮華文。それが当時の常識です。と言うのも、そもそも瓦は寺院で利用するためだけに日本に入ってきたものだからです。つまり、瓦と蓮華文すなわち寺ということなのです。それが何故か、藤原宮にも平城宮にも蓮華文の瓦が使われています。中国のように瓦やその文様が仏教とはかかわりなく発展していった国ならばともかく、日本のような事情では何らかの抵抗を感じると思われるのだが、それともこれも高御座と八角墳の場合と同じようになんの戸惑もなく受け入れたのだろうか。あるいは、天皇は神であり仏であるということなのかもしれません。
無論そうしたこととは関係なく、高御座や八角墳を道教や古代中国の政治思想の影響として捉えることも可能です。しかし、その道教等にしても八角形を天下八方と主張できるのは八卦八方位の思想があって始めて可能となるものなのです。なぜなら、方位には八方位のさらに上の十二方位があるからです。かって日本では東南を巽(たつみ)、北西を乾(いぬい)と呼んでいました。巽は辰巳のことで、十二支の方位の辰と巳の方角を指し、乾は戌と亥の方角を指しています。そういう訳で、この十二方位から天下を見れば、天下八方とは呼べません。つまり、天下を八方で良しと言えるのは、偏に八卦のおかげなのです。
§15 八卦と8。
造化三神に別天津五神、果ては神世七代。「記神話」は欲張りである。それにひきかえ中国では三皇五帝で終始しています。
思うに、太極と両儀とで簡単に三神が出来ますが、四象を五神とすることは簡単には出来ません。「記神話」が苦労をしたことだけは確かでしょう。記神話 "天地の初めの時" 、これには編纂当初からいろいろの解釈があったようです。
ところで、古今の日本において、7、5、3の他に、8も聖数とする慣習があります。8の使われ方は、特に古代においては、八島、八雲、八咫鏡、八十、八百万といった、とにかく数が大きいことを示すことに専ら使われているようです。しかし、それなら8がなぜ大きいものを表わすことが出来るのか、…
思うに、それはやはり八卦が森羅万象を表わせるからでしょう。
国生みと8
『古事記』神話では、国生みは先ず大八島を生み、次に六つの島を生んで完了します。この場合の八は文字通りの8で、6と共に地の数を示しているとも言えます。そこで、これを下の表のようにまとめてみますと、いろいろと面白いことが言えるようになります。
8島 | 6島 | ||||
---|---|---|---|---|---|
島名 | 別名 | 場所 | 島名 | 別名 | 場所 |
淡道之島 | 穂之狭別 | 内海 | 吉備児島 | 建日方別 | 内海 |
伊予之二名島 | (四つの国) | 内海 | 小豆島 | 大野手比売 | 内海 |
隠伎之三子島 | 天之忍許呂別 | 外海 | 大島 | 大多麻流別 | 内海 |
筑紫島 | (四つの国) | 外海 | 女島 | 天一根 | 内海 |
伊伎島 | 天比登都柱 | 外海 | 知訶島 | 天之忍男 | 外海 |
津島 | 天之狭手依比売 | 外海 | 両児島 | 天両屋 | 外海 |
佐度島 | 外海 | ||||
大倭豊秋津島 | 天…豊秋津根別 | 外海 |
先ず、場所に注目しますと、内海のグループと呼べるものが6、外海のグループと呼べるものが8となっています。内海というのは瀬戸内海のことです。なお、四国の南部は外海にも面していますが、その呼び名を伊予之二名島としているように、古代人は四国を瀬戸内海側から捉えていることから、これは内海のグループとできます。また、そういう意味で九州筑紫島を見ると、これは外海のグループとなります。
さて、国生み神話の最初の舞台が瀬戸内海だとしたら、実は内海に属する島は8となります。と言うのも、国生みの最初の段階で、伊邪那岐と伊邪那美は水蛭子と淡島とを生んでいるからです。この二つを内海グループの6に加えれば8となります。
次に、別名の中の"天"の付くものを探してみますと、7島ほど拾うことができます。このうち女島を除く残り全部が外海となっています。このことから、"天"の付くものは基本的に外海に属しているものである可能性が高くなってきます。そこで、別名の記載のない外海に属している佐度島にも"天"の付く別名があるとしたら、"天"の付くものがやはり8となります。
しかし、それにしても、なぜ内海の女島に "天" が付いているのか。実は、これも8とかかわりがあるからなのです。
"天" の付く女島を内海グループから引き離すと、淡道島から大島まで5島が残ります。このなかの伊予之島は4ヵ国で出来ていますから、伊予之島の代わりにこの4ヵ国を残りの4島に加えると8になります。女島を除くこの8は、言ってみればいわゆる四国エリアとも呼べそうです。つまり、女島は四国エリア外という意味で "天" を付けたのかもしれません。
そして、そうなりますと、次に九州エリアと呼べるものがないのかということになります。
筑紫島は伊予と同じ4ヵ国よりなります。したがって、残り4島を決めれば九州エリアの8が出来上がります。候補としては外海に並ぶ、伊伎島、津島、知訶島、両児島の4島が最適となります。両児島については正確な比定はされていないようですが、島の生まれた順序としては、この島は最後でしかも西の端ということであり、いずれにしても九州エリアということになります。それにしても、四国エリアにも九州エリアにも属していない女島は本州エリアと言う他はないようです。実際、図15aの四国九州エリアを取り除くと、女島は本州の西南端の外海にあるようにも見えます。
それでは、佐度島と隠伎之三子島と女島と大倭豊秋津島とで本州エリアを作りあげてみましょう。先ずと言っても、クリアすべき条件はたったの一つしかありません。その条件とは、大倭豊秋津島を5と数えることです。さて、『日本書紀』には四道将軍の話があります。四道とは基本的には四方を指します。四方、とは言っても現実にはどこかに中心を設けないと四方は存在しません。当時ですと、その中心は大和になります。つまり、大和と四道とで5となります。『古事記』には四道将軍の呼称の記載はありませんが、何とかの "道" に何がしの命を派遣したという話はあります。そもそも「記紀」の編纂された時代は、陰陽・五行・八卦が生きていた時代でもあります。あらゆる所にそれらの思想が入り込んでいる可能性があります。つまり、大倭豊秋津島に五方が完備して初めて国生みが完成するのです。
神生みと8
八十神、八十万神、八百万神、「記紀神話」には神の多さを八を用いて表わしています。思うに、古代中国人は八卦を用いて世界を言い当てようとしていました。あるいは、古代の日本人は神を用いて世界を言い当てようとしていたのかも知れません。
A | 1 | ⒈大事忍男神 |
2 | ⒉石土毘古神 ⒊石巣比売神 |
|
3 | ⒋大戸日別神 | |
4 | ⒌天之吹男神 | |
5 | ⒍大屋毘古神 | |
6 | ⒎風木津別之忍男神 | |
7 | ⒏大綿津見神 | |
8 | ⒐速秋津日子神 ⒑速秋津比売神 |
|
B | 1 | ⒈沫那藝神 |
2 | ⒉沫那美神 | |
3 | ⒊頬那藝神 | |
4 | ⒋頬那美神 | |
5 | ⒌天之水分神 | |
6 | ⒍国之水分神 | |
7 | ⒎天之久比奢母智神 | |
8 | ⒏国之久比奢母智神 | |
C | 1 | ⒈志那都比古神 |
2 | ⒉久久能智神 | |
3 | ⒊大山津見神 ⒋鹿屋野比売神 |
|
D | 1 | ⒈天之狭土神 |
2 | ⒉国之狭土神 | |
3 | ⒊天之狭霧神 | |
4 | ⒋国之狭霧神 | |
5 | ⒌天之闇戸神 | |
6 | ⒍国之闇戸神 | |
7 | ⒎大戸惑子神 | |
8 | ⒏大戸惑女神 | |
E | 1 | ⒈鳥之石楠船神 |
2 | ⒉大宜都比売神 | |
3 | ⒊火之夜藝速男神 | |
4 | ⒋金山毘古神 ⒌金山毘売神 |
|
5 | ⒍波邇夜須毘古神 ⒎波邇夜須毘売神 |
|
6 | ⒏彌都波能売神 | |
7 | ⒐和久産巣日神 | |
8 | ⒑豊宇気毘売神 |
左は、「記神話」神生みのくだりを、神話の進展どおりに生まれた神々の名を上から下へと書き連ねたものです。ここで生まれた神の総数は40神ですが、なぜか記神話は国生みと神生みの段の最後のまとめとして、これを35神としています。この数え方についてはそれなりの理由があるのですが必ずしも明確というわけではありません。とゆうのは、記神話はAのくだりを10神、Bを8神、Cを4神、Dを8神、Eを8神と数えているためです。そう、これらを合わせると38神となってしまい、40神にも35神にも当てはまらなくなるのです。
40神を35神と数える「記神話」の常套手段としては、"天地の初め"の段にもあるように男女一対の神を1神と数えることです。しかし、この条件を満たすすべての組み合わせにこれを当てはめると、Aは8神、Bは6神、Cは3神、Dは7神、Eは8神となり、合わせると32神と数え方としては最も少なくなってしまいます。また、Eの伊邪那美の同じ尿から生まれた彌都波能売神と和久産巣日神を男女一対神と見做せばさらに少なくなります。
思うに「記神話」は、Aを10神、Bを8神、Cを4神、Dを8神、Eを8神と数えているように、地の数ここでは10・8・4ですが、その中でも特に8にこだわっていることが見て取れます。8は地の数の中では最大のものでもなければ、易でいう老陰の数でもありません。しかし、国生み以降の記神話の舞台は天上の高天原ではなく地上であります。地上とは天地間のことであり八卦の世界でもあります。八卦の八という数が主役となる世界と見るべきなのかもしれません。
さて、前章では10を8と数えたり、12を10と数える話をしましたが、この段では記神話が10を8と数えてもいるようです。神話はEのくだりの10神を"天の鳥船より豊宇気毘売神まで併せて8神"としています。なお、天の鳥船は鳥之石楠船の別名です。そこで、Aの10神を8神とすれば、合わせて36神となります。さらに、Cの4神のなかでDの神々を生む大山津見神と鹿屋野比売神を男女一つの神とみなせばCは4神となり、すべて合わせれば記神話のいう35神となります。
35神の35という数は、3と5という天の数で出来ていますが。神話の流れが、天上の神が生まれ、そして地上での神が生まれるとなっているように、天の数の3と5から地の数の8が生まれるというシナリオを「記神話」は考えているのかもしれません。
八卦は天地間の事つまり地上での現象を問うものです。そういう意味では、八卦は天上には存在しないともいえます。それになにより、八卦の八は地の数の8です。そういう意味では天上には四方も存在しないのかも知れません。天上にあるのは五方です。五方は、地上にもありますが、古代の日本人、特に天武以降の人々は五方よりも八方を用いたように見受けられます。
§14 八卦の生成と記紀神話
陰陽には善悪も醜美も喜怒もありません。しかし、森羅万象を陰陽二元論で説く古代人は、万物を陰と陽に分けました。したがって、善をも悪をも醜をも美をも当然分けたはずです。そして陰をも陽をもです。
八卦の生成と記紀神話
陰を陰と陽に分ければどうなるか、言葉をかえれば "陰が陽に転化した、あるいは陰が陽を産んだ" となります。卦図を用いて説明しますと、①☷→☳と②☷→☵と③☷→☶の三つの状態を指します。これは坤が、①では一番下の陰爻が陽爻に転化して震に、②では真ん中の陰爻が転化して坎に、③では一番上の陰爻が転化して艮になったものです。ちなみに易ではこの変化する爻を変爻と呼び、それが陰爻である場合は老陰、陽爻である場合は老陽と呼びます。そして、この変爻があることによって一つの筮占から本卦と之卦(シケ)という二つの占い結果が出てくるようになるのです。そこで、改めて易の卦図について少し説明を加えておきましょう。
左図14aは筮占より得られた卦を示したものです。左端の1から6までの数は爻の順位を示す数です。普通は1は初、6は上と表記します。下から数えるのは、机上や前面に卦を展開した場合、自身から見て一番近い手前が下になるからです。又そのために、1から3までの爻を下卦あるいは内卦と呼び、4から6までを上卦あるいは外卦とも呼びます。なお、易の操作、筮占は爻を導き出す為のもので、この筮占からは4種類の爻が得られます。老陰、老陽、少陰、少陽の4つがそれです。老陰・老陽は変化可能な爻、少陰・少陽は変化不可能な爻です。ただ、「─」と「--」という二種類だけの爻の記号では老少の区別はできません。それで、易ではこれらを区別するために新たな記号を加えたり、数字や漢字等を用いて表してもいます。→図14b参)
さて、筮占により64卦のうちの地という卦が出ました。これが本卦です。しかし、初爻に変爻の老陰があるために卦が変わってしまい64卦のうちの復という卦になります。この変わって之(ゆ)く卦の意からこれを之卦と呼ぶのだそうです。なお、占断には本卦と之卦を踏まえ、本卦の変爻の辞に拠るとされています。ところで、易の卦の上卦を無視すると八卦の坤が震に変わったのと同じことになります。そして、坤もそのまま残ります。つまり、陰が陰と陽に分かれたということです。どうやら、八卦の生成には変爻の思想がかかわっているようです。
八卦生成の順序
八卦は陰と陽の二つだけの組み合わせが生み出すものです。したがって、2進数表示が可能となります。ただし、2進数表示とは2進数で数えること、つまり一つずつ加算していくことで、必ずしも都合のよい順で揃って生成するわけではありません。
\ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
A | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
000 | 001 | 010 | 011 | 100 | 101 | 110 | 111 | |
B | ☷ | ☳ | ☵ | ☱ | ☶ | ☲ | ☴ | ☰ |
坤 | 震 | 坎 | 兌 | 艮 | 離 | 巽 | 乾 |
左の表のAは三爻の組み合わせを二進数で表したものです。000から始め1づつを加算していって111になるまでを示しています。10進数では0から7になります。Bは0を陰、1を陽とした場合の八卦図と八卦名です。これを見ますと、兌と艮が小陰あるいは小陽それぞれのグループから外れています。また、加算展開ですので元の値に戻っての循環もありません。ただ、二進数には1に1を加えると桁上がりをして0になる、ある意味での変爻に似た働きがあります。とは申しましても、0に0を加えても桁上がりはありません。
左図14cは、内容や形を少し変えてはいますが、八卦の解説書などでよく見かける八卦生成の木構造図と同じものです。本来の木構造図は、古来からの易の解説文献「繋辞伝上」にある太極→両儀→四象→八卦という八卦生成の過程を、南宋の朱熹(1130~1200)が陰陽の爻記号を用いて説いたものを図としたものです。ただ、ここではその図を基に次の二つの観点から少し変形を試みています。
先ず、節点から陰陽二俣の枝の出る木構造とする事。次に、八卦の順序を2進数に合わせる事。この二つです。前者は、陰からも陽からも陰陽が生まれるという一貫した流れをこの木構造に持たせる為の必要不可欠な原則です。後者は、というよりも後者を成立させるには、爻を上に重ねるのではなく下に差し込んでゆく必要があります。これは筮占によって初爻から上爻へと爻を導き出していくやり方とは逆になりますが、ここでの爻は導き出した爻ではなく最初からある変爻ですので差し込んだということにはなりません。そして、その最初からある変爻とは太極のことです。
図14cを文章に直しますと、"太極から両義が生まれ、太極と両義から四象が生まれ、太極と四象から八卦が生まれる" となります。これは、"太一から水が生まれ、太一と水から天が生まれ、太一と天から地が生まれる" とする⒓章で述べた竹簡文書「太一生水」と同じ古代の論理に合わせたもので、太極→両儀→四象→八卦をそのように解釈しても齟齬は出ないと思います。なお、原文では "易有太極 是生兩儀 兩儀生四象 四象生八卦" となっていて、"太極と" という言葉はありませんが、「荘子斉物論」に "一と言えば一と一と言った言葉とで既に二であり、二と言えば二と二と言った言葉とで既に三である" といったようなことが書かれています。荘子は、1は100よりも大きい、あるいは同じであるとも説いているのですが、それには言った言葉を補えとも言っているのです。つまり、古代にはそうした考え方もあるのです。
さて、陰陽両儀を生じる太極は変爻です。変爻ですから老陰か老陽のどちらかとなりますが、太極の最初はどちらでもかまいません。しかし、両儀の陽以降は老陽としての太極が残り、両儀の陰以降は老陰としての太極が残ります。そして、太極が残るのは常に初爻の位置です。太極とは荘子の謂う "何々といった言葉" のことなのかもしれません。
素人の考えを長々と述べてまいりましたが、木構造以外は一試論であり一私論でもあります。しかし、易の解説文献「易伝」は易経成立後に出来たものです。したがって、其処にはこじつけや無理強いがあると見るべきでしょう。それはある意味での誰かの試論であり私論であると思います。さて、そこで今度は古代の素人の考えを見てまいりましょう。
独り神と男女一対の神
太極 | 両義 | 四象 | 八卦 |
---|---|---|---|
天之御中主 | 高御産巣日 | 宇摩志阿斯 訶備比古遅 |
宇比地邇 |
須比智邇 | |||
天之常立 | 角杙 | ||
活杙 | |||
神産巣日 | 国之常立 | 意富斗能地 | |
大斗乃弁 | |||
豊雲野 | 於母陀流 | ||
阿夜訶志古泥 |
左は「記神話」、"天地(あめつち)の初めの時" の段に登場する神々、天之御中主から伊邪那岐・伊邪那美までの神を太極・両義・四象・八卦の枠組みの中にそれぞれの意味する数の分だけ出現の順序に従って割り振っていったものです。八卦の枠に伊邪那岐・伊邪那美が収まっていませんが、「紀神話」の本文と一書の第一では男女一対の神は4組8柱となっており、伊邪那岐・伊邪那美はその二例の中に常に含まれています。
なお、「紀神話」では、本文の他に一書の第一、一書の第二、そして次の箇所の一書の第一の都合三例の他書からの引用があります。その三例のうち、前から二例は親子関係を述べたもので、おそらく神世七代に関しての引用だったと思われ、男女一対の神についての引用例とはできません。したがって、男女一対の神は4組8柱というのが「紀神話」の見解と見えます。ただ、本文と最後の一書とでは4組中の一組が異なっているようです。その異なっている一組というのは、本文では「記神話」のいう意富斗能地と大斗乃弁の組がそれであり、一書では角杙と活杙の組がそれに当たります。
「紀神話」は読む限りにおいては八卦の枠に都合のよい4組8柱なのですが、もしかしたら、一書には意富斗能地・大斗乃弁が、本文には角杙・活杙がそれぞれ抜け落ちていると考えなければならないのかもしれません。しかし、あるいはそれよりも一組を抜かしてでも4組8柱にしなければならなかったと考えるべきなのかもしれません。
ところで、『日本書紀』の冒頭には、"古、天地未だわかれず、陰陽分れざりしとき" とする一文があります。これは『淮南子』からの引用とされていますが、『淮南子』ではそれに続けて、"四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず" とあるのだそうです。これは、太極(天地)、両儀(陰陽)、四象(四時)、八卦(萬物)に即置き換わるもので、「紀神話」の4組8柱は八卦に合わせたものと言えなくもありません。もしそうだとすれば、「記神話」は逆に一組多いということになるのかもしれません。実際、『古事記』の序文冒頭に
臣安万侶言さく、それ混元既に凝りしかども、気象いまだ敦くならず、名も無く為も無く、誰かその形を知らむ。然れども乾と坤と初めて分かれて、参神造化の首と作り、陰と陽とここに開けて、二霊群品の祖となりたまひき。
とあるように、『古事記』にも陰陽八卦の影響が色濃く反映しています。無論、安万呂の序文と稗田阿礼が詠んだ天武時代の本文とでは時代の隔たりはありますが、天武は天文遁甲の占いを能くしたともいわれています。そう、そうした占いの基本は陰陽八卦にこそあるのです。
では、「記神話」に多い一組とはどれを指すのだろう、意富斗能地・大斗乃弁か、それとも角杙・活杙か。実は、伊邪那岐・伊邪那美がそれになります。周知のように、伊邪那岐と伊邪那美は「美"斗"のまぐわい」の神でもあります。つまり、伊邪那岐と伊邪那美は意富"斗"能地と大"斗"乃弁の別名とも読み取れるのです。神話では、意富斗能地・大斗乃弁の次に於母陀流・阿夜訶志古泥がきます。この於母陀流・阿夜訶志古泥を"美斗のまぐわい"の段の表現に置き変えると、「あなにやし、えおとめを」・「あなにやし、えおとこを」となります。"まぐわい"は"目合"ともでき、じっと於母(面)を見合うことでもあります。於母陀流は「紀神話」では面足と書いています。
思うに、伊邪那岐・伊邪那美の神は次の段の国生みや神生みの神話の主役であります、あるいは意富斗能地・大斗乃弁をこの段の話しに相応しい名前に改めたものか、あるいは本来別々の話であったものを組み合わせたために一組分多くなってしまったものか、それとも別天津神を5柱とし、神世を7代としたために一組分多くなってしまったものか、いずれにしても伊邪那岐・伊邪那美と意富斗能地・大斗乃弁とを同一と見做せばすべての神々がすべての枠に過不足なく収まります。そしてそうなりますと、天之御中主から豊雲野までの7柱を「記神話」が "独神(ひとりがみ)"と呼ぶことにも納得が行くことになります。
なお、「記神話」が八卦の枠外の7柱を"独神"と呼ぶのは、男女一対の神あるいは陰陽一対の神に対比してのものではなく、八卦として成り立っていないという意味での呼び方と見えます。つまり、八卦として成り立てば、易としても成り立つからです。なぜなら、易は常に八卦二つを対として成り立っているからです。
聖数に貪欲な記神話
図14cの基となる図は12世紀南宋の頃の考えによるものですが、天武や安万呂の時代にもこれと良く似た考えのあったことが記紀神話から伺えるようです。ただ、前章でも述べたことですが、「記神話」はここでも数あるいは数の流れにこだわっていて、こうした考えを活かそうとしていないようにも見えます。そのことは、7柱の独神を神世七代とすればすこぶる簡単明瞭となるものを、最初の3柱を参神造化、さらにはこれに2柱を加えた5柱を改めて別天津神と呼び、最後は互いに性格の違う2柱の独神と5組の男女一対の神とをわざわざ組み合わせて神世七代と呼ばせていることからもうかがえます。また、ここでの数あるいは数の流れは、3・2・5・2・5・7で、これはおそらく3と2とで5、5と2とで7というものだと思います。加えて、3・5・7はいわゆる聖数で、天の数でもあり陽の数でもあります。
そこで、『古事記』冒頭、"天地の初めの時" を数に置き換えてみますと、天は一、地は十となります。一は太一、つまりは太極。そうなれば、十は八卦とする他はなく、八卦は5組10柱となります。あるいは、「記神話」はそう考えて八卦枠に10柱をあてがったのかもしれません。無論、8を10と数える法則など何処にもありはしませんが。しかし、聖徳太子が制定した冠位十二階、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の中の、仁、礼、信、義、智の五つは儒教や五行での五つの徳、つまり五徳と呼ばれているものです。したがって、本来ならこの冠位は十階であったはずです。しかし、太子はそれらの総称の徳をも加えて十二階としました。つまりは10を12と数えたのです。
八卦は天地間の事物事象すべてを表しているとされています。しかし、八卦の八方位は四方八方の八方位で天と地への方位はありません。したがって、天地への二方位を加えて十方位とすることによって、八卦は初めて天地間の事物事象への方位を整えたことになります。つまりは8を10と数えることになったわけです。
一を聞いて十を知る。一と言えば、一と一と言った言葉とで既に二である。『論語』や『荘子』にある数を用いた喩え話です。ところで、『老子』に、"道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず" とありますが、この万物生成論、太極→両儀→四象→八卦という八卦生成論とそっくりに見えませんか。この『老子』については⒒章でも取り上げているのですが、今回はこれを八卦から解いてみましょう。
八 卦 |
太極 | 両儀 | 四象 | 八卦 | |
---|---|---|---|---|---|
生数 | 1 | 2 | 4 | 8 | |
爻数 | 0 | 1 | 2 | 3 | |
老子 | 道 | 1 | 2 | 3 |
左は、八卦と万物の生成論をそれぞれの数に置き換えてみたものです。この表から八卦の爻数の欄と老子とのそれが全く同じだということが見て取れます。また、八卦が三爻によって天地間の事物事象すべてを表している事が、『老子』の万物を生み出す数が三で留まっている事の最大の理由のようにも見えます。三は聖数七・五・三の中では一番小さな数ですが、『荘子』が三よりあとは誰にも数えきることが出来ないと言っているように、三は人が捉えることのできる最大の数でもあります。そして、三爻よりなる八卦の八もまた最大の数といえます。
§13 八卦の象徴と三爻の中の陰陽
八卦のそれぞれの自然の象徴、天、水、山、雷、風、火、地、沢が中国の地勢に適った方位に組み合わされていることは前章で述べました。したがって、そのほかの象徴、家族や性情や身体等の組み合わせにおいても無理のない関係が見出せるはずです。そこで、今回はそれに加えて、古代日本がこれらをどのように受け止めていたかということも「記紀」を交えて連想を進めていきたいと思います。
八卦の象徴と三爻の中の陰陽
『易経』の解説文献「説卦伝」には八卦の象徴する物象を多く挙げ、それらすべてに解説を加えています。しかし、それらは必ずしもオリジナルなものばかりとは言い得ず、二次的な発想によるものもあるようです。そしてなにより、それらは解説というよりもむしろ定義めいたもののようにも見えます。そこで、ここではそれらをすべて無視して話しを進めて行きたいと思っています。
八卦 | 乾 ☰ |
震 ☳ |
坎 ☵ |
艮 ☶ |
坤 ☷ |
巽 ☴ |
離 ☲ |
兌 ☱ |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
自然 | 天 | 雷 | 水 | 山 | 地 | 風 | 火 | 沢 |
家族 | 父 | 長男 | 中男 | 少男 | 母 | 長女 | 中女 | 少女 |
性情 | 健 | 動 | 陥 | 止 | 順 | 入 | 麗 | 悦 |
身体 | 首 | 足 | 耳 | 手 | 腹 | 股 | 目 | 口 |
左は古来からの普通に見かける八卦とそのそれぞれが示す象徴との一覧表です。おそらく、古代においてはこれだけで人事自然百般の運勢や吉凶を占えたものと思われます。
先ず、家族の項に注目をしてみますと、乾(天)を父に、坤(地)を母に当てはめています。これは、"父なる天、母なる大地"というおそらく誰もが普通に抱く自然なイメージからのもので、陰陽思想でも陰(地)は女性に、陽(天)は男性に割り振られています。つまり、乾(天)を父に、坤(地)を母に当てはめる事は至極自然な成り行きと言えます。しかし、家族のもう一つの成員、子供達に関しては必ずしもそうとは言えないようです。しかし、父母が決まれば、次に述べるある意味での八卦さらには陰陽の特有の性質とも呼べるものがこれらを成立させてしまうこともまた確かです。
周知のように、卦は陰爻(--)と陽爻(一)との組み合わせよりなる三つの爻で出来ています。三爻の組み合わせは全部で8個ですが、陰と陽とが4個づつの二組に分かれます。また、爻の組み合わせも、三爻すべてが同じであるものと一爻だけが違うものとの二組に分かれます。そこで、三爻すべてが同じであるものを大、一爻だけが違うものを小と呼んだ場合、☰を大陽(父)、☷を大陰(母)と呼ぶことに齟齬はないと思います。あとは、☳・☵・☶のグループと☴・☲・☱のグループのどちらかを小陽あるいは小陰と呼べば好いことになります。では、どちらをどう呼ぶのが好いのだろうか。
表によれば、☳・☵・☶のグループは小陽(長男・中男・少男)に、☴・☲・☱のグループは小陰(長女・中女・少女)に当てられています。しかし、これでは一見逆のように感じられはしませんか。というのも、小陽の☳・☵・☶の場合明らかに陰爻の数の方が勝っていますし、小陰の☴・☲・☱では陽爻の数が勝っているからです。これではあたかも大陽から小陰が、大陰から小陽が生まれたように見えなくもありません。しかし、実はこれが陰陽の性質であり規則でもあるのです。この規則は陰陽の転化と循環の規則とも呼ばれ、自然の理にもかなっているもので、決して不自然で押し付けがましいものではありません。
陰陽の転化と循環
陰陽の転化と循環の規則を自然に求めれば、それは昼夜の繰り返しや朔望の繰り返しに、さらには春秋の繰り返し等に見出せます。ただ、自然がアナログ的な転化と循環であるのに対し、陰陽の爻はデジタル的な転化と循環であるという違いはあります。しかし、一日には朝・昼・夕・夜、一月には朔・上弦・望・下弦、一年には春・夏・秋・冬というある意味での四段階デジタル表現があることもまた確かです。そこで、先ずこれらを大陽・小陽・大陰・小陰という呼び方に合わせてみると、それぞれが、小昼・大昼・小夜・大夜、大朔・小望・大望・小朔、小夏・大夏・小冬・大冬と呼べることになります。《参図13aⒷ》
なお、Ⓐでは四季を八卦と同じ8段階で表示していますが、初春・春・初夏を小夏とし、初秋・秋・初冬を小冬とすれば四段階となります。また、昼夜や朔望も八段階表示、いや、それ以上の表示も可能ですが、ここでは四季だけを八卦に合わせその例として取り上げます。なお、四季の四段階表示では、冬を大冬、夏を大夏、初春・春・初夏を小夏、初秋・秋・初冬を小冬としたわけですが、もしかしたら、大春や大秋、小春や小秋の表示でも好いのではないかとか、初春・春・初夏を小夏等と呼ぶのは適切かといった疑問を投げ掛けるかとも思われますので少し説明を加えておきましょう。
四季の中で最も厳しく季節を感じるのは冬と夏です。冬には酷寒、夏には酷暑という表現があります。一方、陽春や涼秋の言葉を持つ春や秋は最も気候の穏やかな季節です。Ⓐ図では既にそうなっていますが、四季を五行方位で表せば、冬は北、夏は南、春と秋は東と西に配されます。前章でも述べたことですが、南と北とは対峙の関係になります。したがって、陰と陽とが対峙するごとく冬と夏とが対峙し、陰を大陰、陽を大陽と呼べば、自ずと冬は大冬、夏は大夏となります。また東西は、前章では移動や接近の関係としたように、それらに振り当てられている春と秋とは対峙ではなく対称の位置関係になります。ただ、春と秋とではその向かう方向が違うのです。春は夏に向かい、秋は冬に向かいます。つまり、春の基底は夏、秋の基底は冬、したがって、春を小夏、秋を小冬と呼ぶことに齟齬はないはずです。そして、このことは同時に、大陰から大陽に向かうものを小陽、大陽から大陰に向かうものを小陰と呼ぶことにも齟齬がないことをも示しているのです。
陰陽の流れ
大陰から大陽に向かうものが小陽ならば、小陽は大陰から生まれたことになります。また、小陰は大陽から生まれたことにもなります。思うに、冬はとどまっていては季節はめぐりません。陰もまたとどまっていては陰陽の転化と循環は起こりません。真冬を過ぎれば春とも申します。陰も極まれば陽に向かいます。陰の極まった位置を大陰と見做せば、大陰を過ぎれば即陽の世界です。つまり、Ⓐを通る直系軸とⒷを通る直系軸は、冬と夏とを、陰と陽とをそれぞれ隔てていることになります。
さて、そこで大陰(☷)は陰の極まったもの、大陽(☰)は陽の極まったものと見做せば、隔ての直径軸を境にして、大陰は小陽へ、大陽は小陰へと転化循環を始めます。その時、小陰(☴・☲・☱)と小陽(☳・☵・☶)を構成する三爻はどのように変化していくかということなのですが、表によれば、☳と☴は長男と長女、☵と☲は中男と中女、☶と☱は少男と小女ということですから、☷)→(☳⇒☵⇒☶⇒☰)→(☴⇒☲⇒☱⇒☷)とした順序での変化ということになります。なお、→は転化、⇒は移動を示します。
ところで、三爻の変化のさせ方なのですが、図13aのⒸのようなさせ方もあります。これは、陽爻あるいは陰爻の数を増していく方法です。ただ、この方法だと☵と☲が生成しませんし、小陽だけ、あるいは小陰だけのグループを成立させることもできません。また、Ⓑと八卦方位図はある直径軸あるいは対角線を挟んで陰と陽のグループに二分できるのですが、Ⓒではそれができません。このことから、八卦における陰陽の転化や循環の規則は陰陽の量や強弱の変化によるものではなく、陰爻や陽爻の占める位置の変化によるものだということが分かります。つまり三つの爻のうちの一つの爻が陰爻あるいは陽爻である場合、その一つの爻の占める位置により長女や中女であったり少女であったり、さらには長男や中男あるいは少男であったりするわけです。
性情と身体
八卦が象徴する家族については、一通りの説明は終えたと思います。残るのは性情と身体の項となりました。これ自体の説明はそれほど難しいというものではありませんが、ただ問題なのは、八卦がなぜ多々ある性情表現や身体構成部分からそれらだけを選んだかということです。思うに、八卦はその名の示す通り八種類の象徴しか扱えません。それに、その内の半分を陰に属するもの、残りの半分を陽に属するものとしなければなりません。
表によれば、性情(順・入・麗・悦)と身体(腹・股・目・口)が陰に、性情(健・動・陥・止)と身体(首・足・耳・手)が陽に属するものとなっています。そこで、これらに関係すると思われる陰陽の属性を少しばかり表にしてみますと、
陰 | 柔 | 湿 | 静 | 凹 | 入 | 引 |
---|---|---|---|---|---|---|
陽 | 剛 | 乾 | 動 | 凸 | 出 | 押 |
左のようになります。これから、陰の身体は柔らかくて潤いや凹み感の在るものを、陽の身体は乾いて硬くはっきりと突き出ているものを選んでいることが分かります。単純には女性的なものと男性的なものとを選び分けたとも言えます。しかし、それなら性情もそうかといえば、必ずしもそうとは言い得ないものもあるようです。
陰に属する性情の中で、順と入は従順や受け入れ易さといった意味を持ち、これは明らかに女性的なものであると言えます。しかし、麗と悦は女性的かもしれませんが陰の属性に入るのかどうかは分かりません。そもそも麗(醜美)や悦(喜怒)を陰陽で分けることは出来ません。陰陽は対峙の関係にありますが、善悪の対峙とは違います。陰陽には善悪も醜美もありません。ところで、麗は"リ"とも発音します。これは卦名の離と同じです。また悦は喜びのことで、卦名の兌と同じ意味を持っています。それに字の形も似ています。どうやら、麗と悦は卦名とかかわりがあるようです。
麗と離の共通点を辞典で調べてみますと、二つのものが並び立つとする意味がそれであると分かります。そして、それが目であることが身体の項から分かります。また、悦と兌は、悦が悅とも書けることから、悦はそもそも兌の性情を表しているものということが言えます。つまり、兌には穴の意味があり口をも指し、これも卦名、身体、性情が揃ったことになります。さしずめ喜びは口元に溢れるということなのかもしれません。最後に、陽の性情ですが、健・動・止は、剛健・動・押し止めると書き換えれば陽に属するものとなります。また、首は確り、足で動き、手で押し止めるとすれば、身体と性情が揃ったことになります。ただ陥は、卦名の坎からのものとする他はないようです。思うに、陥も坎も落とし穴のことです。人を策略で落としこむ。その基本は耳から入れる騙りでしょうか。
記紀神話と八卦
八卦は古代のものですが、その基礎的な部分に限れば素人の現代人にも付き合えるものです。そして、おそらく古代の素人にも付き合えたはずです。
陰性であるのに大陽(☰)から生まれたように見える小陰(☴・☲・☱)、陽性であるのに大陰(☷)から生まれたように見える小陽(☳・☵・☶)、実はこれとそっくりな光景が「記神話」の中にあります。それは、天照と須佐ノ男の誓約の段にあります。話しを要約しますと、天照は須佐ノ男の剣を借りて三柱の女神(宗像三神)を生み、須佐ノ男は天照の珠を借りて五柱の男神を生みます。そして、天照は
この後に生れませる五柱の男子は、物実我が物に因りて成りませり。かれおのずから吾が子なり。先に生れませる三柱の女子は、物実汝の物に因りて成りませり。かれすなわち汝の子なり
という理由を述べ、最終的には彼女の生んだ女神を須佐ノ男の子とし、須佐ノ男の生んだ男神を彼女の子としてしまいます。これは、大陰が大陽の陽爻を借りて小陽(三男子)を、大陽が大陰の陰爻を借りて小陰(三女子)を生むのと全く同じことです。ただ、小陽が三男子であるのに対して神話では五男子となっているのが少し違ってはいます。しかし、これも神話をよく読むと三男子として扱っても好いようにも見えるのです。
五男子の生成の内訳を見ますと、先ず三男子が頭の髪飾り用の珠から、残りの二男子が腕飾り用の珠から生まれています。さて、これをどのように見るか。単純には、珠の出所が違うわけですから、別々の所作と見るのが好いのかもしれません。それに、最初の三男子はすべて氏族系譜につながりますが、残りの二男子にはそれがありません。《下表参》
正勝吾勝勝速日 天之忍穂耳命 |
子の邇邇芸命は、地上での皇統の系譜につながる |
天之菩卑命 | 子の建比良鳥命は、出雲國造・无耶志國造・上菟上國造・下菟上國造・伊自牟國造・津嶋縣直・遠江國造らの祖 |
天津日子根命 | 河内国造・額田部湯坐連・茨城国造・大和田中直・山城国造・馬来田国造・道尻岐閇国造・周防国造・大和淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造の祖 |
活津日子根命 | この神の後裔氏族は不明 |
熊野久須毘命 | 熊野の神と関係があるとも言われるが不明 |
そこで、活津日子根命と熊野久須毘命を取り除けば、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命は☳に、天之菩卑命は☵に、天津日子根命は☶にそれぞれ納まります。これに宗像三神の多紀理毘売命(☴)・市寸島比売命(☲)・多岐都比売命(☱)を加え、さらに須佐ノ男を☰に、天照を☷に当てはめれば、八卦が揃います。
思うに、「記神話」は数にこだわっているようにも見えます。その数とは、2と3です。2は、雌雄一対、あるいは陰陽二元を表す数です。3は、老子等の言う万物を生み出す数です。つまり、2と3とですべての数または事物が表せるのです。この段の数字の現れ方を見てみますと、先ず須佐ノ男と天照で2、次いで宗像三神の3、さらに髪飾りの三神の3、最後に腕飾りの二神の2という順序になっています。
さて、2・3・3・2という並び、なんとなく上から読んでも下から読んでもといった感じもしなくはないのですが、おそらくどちらから辿っても5と8になるというものでしょうか。それに、それらすべて合わせると10という数にもなります。⒒章でも述べましたが、10は「漢書律暦志」のいう天地の五方位が完備して終わる数"十"でもあるのです。天照は天孫の祖、須佐ノ男は地孫の祖というこなのでしょう。
§12 八卦方位図が示すもの。
安万呂の道標に従って思うままに進んではまいりましたが、不手際や説明不足、さらには書き漏らし等が目立ってきているようです。そこで、今回はそれらの中でも特に矛盾めいた事柄について少し補足をしておきたいと思います。
八卦方位図と自然
陽と揚。陰と隠。これら漢字の音に連想をめぐらせば、陽は日の揚がることを意味し、陰は日の隠れることを意味していることになります。そして、これによって、東を陽とすることが出来、西を陰とすることが出来るようになります。以上は4章で述べたことですが、これに遅れ馳せながらもう少し付け加えますと、日の揚がる天を陽とし、日の隠れる地を陰とすることもまた可能となります。
天南地北、天北地南
さて、そうなりますと陽の東、陽の南が天ということになり、陰の西、陰の北が地ということになります。そこで、左の図を見てください。これは、陰陽五行の八方位図に八卦方位図と四門を描き加えたものです。この図では、天は陰の極みに位置し、地は陰陽の狭間に位置しています。さらに、南北関係だけでこれを見れば天北地南となります。また、東西関係では天と地は西に偏して東にはありません。これは、どう見ても矛盾としか言い得ません。
しかし、既に述べていると思いますが、五行の方位には土行つまり中央があります。これはまた陰陽の中央でもあります。これを単純に陰陽のどちらかと決めることは出来ません。それに天地は上下の関係で東西南北の関係ではありません。しかし、仮にそうだとしても八卦方位図は何故このような形をとるのだろうか。
これも既に述べていることと思いますが、陰陽五行は自然に適った無理の無い思想です。当然、八卦もそうであると見るべきでしょう。
下図は、上図を中国地図の上に重ねたものです。これを見れば分かるように、中国の東と南は海です。海人ならいざ知らず、東あるいは南に天や地を配することは出来ません。したがって、西と北に配置するほかはないのです。しかし、西と北とでは対峙の関係にはなりません。この関係が可能なのは南北の関係に置き換えられる南西と北西に配置した場合のみです⇒(南西⇔北西)= 西(南⇔北)。
つまり、西の陸側に天地を配することになるわけです。その結果、西に偏ってしまったのです。無論、これだけですと問題はないのですが、なぜか陽の天を陰の北、陰の地を陽の南としてしまっているのです。これもまた矛盾と言うほかありません。そこで、今度は次の図に目を移して下さい。この図から、これが必ずしも矛盾ではないことが読み取れます。
左は五行思想の基本原理、五行相生の関係を表わしたものです。この基本原理、相生の関係を右の五行八方位図で成立させようとすると南西方向の土行のみが有効となります。土行は土地をも意味しますから、この位置に八卦の象徴の一つ地を配置することは至極自然な成り行きなのです。
天子南面
さて、地を南西つまりは南に配置したのは、前述した通り妥当なことです。では、そのために天を北西つまり北としたことは妥当なことなのだろうか。
ところで、天子南面という言葉があります。古来より、天子は臣下に対してその北側に位置し南を正面としたために生まれた言葉です。ただし、北半球では南にある太陽の陽光を取り入れるために天子ばかりか家屋でさえ南面しています。あるいは、そういう事でもあるのかも知れません。しかし、これだけでは単に南面でしかありません。肝心なことは北に位置するということです。陽の天の子が陰の北に位する。思うに、古代人にとって、天を北にすることは何ら不自然ではない事のようです。
「易伝」の一つに「繋辞伝」があります。それには"易に太極あり"といった言葉があるそうですが、この太極、易や陰陽思想では万物の根源を表わす言葉となっております。これを自然に照らし合わせてみますと、宇宙の根源あるいは中心となります。ところで、この宇宙の根源や中心を表わすも一つ別の言葉に"太一"があります。太一は普通、北極星と解されています。古代中国では、この北極星を天子になぞらえてもいます。また、日本でも天皇の御座のあるところを大極殿と呼んでいるように、古来より太極・太一は自然の中では北極星を指しているのです。天子が人間界の中心にあるように北極星は天の中心にあるというわけです。そして、これが宇宙の中心、天の中心でもあるのです。
陰の極みともいうべき北極星の位置に陽である天の中心がある。これは矛盾でも何でもありません。「緯書」の中に"斗は陰に居し、陽に布く。故に北斗と称す"とあります。北斗とは北斗七星のことです。北斗七星は柄杓の形をした星座です。これが北極星の周りを回ることから、古代人はこれが何か、ここでは陽ということになるのだと思いますが、あたかもそれを振り撒いているように見えていたのかもしれません。つまり、北斗七星は陰に居て陽として振舞っているということなのです。
八卦方位の決め方
八卦方位図の中で最も不自然と思われた天と地の位置が、実際は自然の理に適った配置でした。今日、普通に見かける八卦方位図は、「説卦伝」にある 上帝は震から出発し、巽…離…坤…兌…乾…坎…艮で…成しとげる によるもので古来からのものです。震から艮は八卦名で、ここでは自然との関係から話を進めていますので、それらはここではその自然の象徴としての雷・風・火・地・沢・天・水・山になります。雷は方位では東に位置し、山は北東に位置します。単純には、太陽が東から昇って、山の向こうに沈むといった類のものなのかもしれません。それはともかく、これらの配置が自然なものなのかを少し考えてみましょう。
図12aからも分かるように中国の東南は海です。したがって、東と東南と南の方位に置くことの出来ない自然の象徴が出てくることになります。それは、天と地と山と、そして沢です。そこで、沢を何処に置くのが最も自然であるかを先ず考えてみましょう。
沢は沼沢の沢で、常に水で潤っている状態のところです。周知のように、中国の地勢は西高東低となっています。したがって、その主要な河川、黄河、揚子江、淮河、珠江は西から東に流れています。つまり、西にはそれらの源流域があることになります。当然、そこは常に水で潤っていなければなりません。方位図が沢を西に置いていることは自然の理に適っています。
次に、山はどうか。沢が西で、北西と南西が天と地ということですから、山は北か北東のどちらかということになります。ところで、中国で山といえば五行方位(東南西北中)に合わせて名づけられた五岳(ごがく)が有名です。その五岳の中で最も名高いのが、東岳に当てられている泰山です。泰山は春秋戦国の時代から既に大山の象徴としての名を馳せていたことが孔子や荘子の話しからうかがえます。さて、東岳と呼ばれる泰山ですが、周王朝の都があった西安や洛陽からは東というよりもむしろ北東に近く、八卦方位図に合わせれば正に北東の艮に当たります。つまり、古代中国で山といえば泰山のことであり、それが周の都の北東に聳えているとなれば、山を北東とすることに不自然はありません。
さて、残る組み合わせは水を北に配することですが、周知のように水は五行方位でも北に配されています。易はこれに倣ったのだろうか。しかし、仮にそうだとしても五行思想はなぜ水を北に配したのだろう。よく言われるように、冷たい水を同じように冷たい北に配したということなのだろうか。それとも、火を南に配したためなのだろうか。
太一生水
1993年、中国湖北省荊門市にある郭店楚墓から出土した竹簡に、太一から始まる宇宙の生成順を示したものがあるという。それは、太一、水、天、地、神明、陰陽、四時、倉熱、湿燥、歳という順序だそうです。面白いことに、太一から先ず水が生まれています。
太一は前節で述べた北極星のことです。また、柄杓の形の北斗七星が陽を撒き散らすとしましたが、現実には柄杓から撒き散らされるのは水でしょう。そして、この水は雨となり、先ず天から、そして次に地へと降り注ぎます。つまり、水が雨となるためには天と地を必要とします。天と地が出来れば、天地を司る神が必要となります。神が生まれれば、天地を照らす太陽と月を造ります。日は日を数え、月は月を数えて四季を割り振ります。四季が生まれれば、寒い季節や暑い季節をあてがいます。寒暖が生まれれば、湿乾も生じます。そうして、一年が出来がります。その一年(歳)が経巡り回って万物(宇宙)を育みます。なお、竹簡文では、太一から水が生まれ、水と太一から天が生まれ、太一と天から地が生まれ、太一と地から神明が生まれるとなっているそうです。
実に、素朴で明解な宇宙生成の順序です。郭店楚墓は紀元前300年頃の楚の貴族の墓とされていますから、これは秦漢以前の宇宙生成論とも言えるものです。これによると、陰陽は月と日のことで暦によって正確に四季が決められ、一年が、そしてすべてが規則正しく始まるということなのでしょう。中国で正確な暦が出来たのはこの頃とされています。
思うに、自然現象の中で空から雨が降るということ以上に人の生活を左右するものは無いのではないだろうか。今も昔も、農耕民にとって、作物を育む雨と種蒔きを知らせる暦は欠かせないものです。しかし、人は暦は造れても雨は造れません。もしかしたら、易占の最初は、雨が降るか降らないかというもではなかったのか。それはともかく、古代文明はすべて川つまりは水とかかわっています。古代人は、何を差し置いても先ず水を優先させていたということです。
さて、雨は空つまりは天から降ります。古代人が、雨は天が降らせるものだと考えたとしても不思議はありません。そして、雨を降らせる天の中心が北天にあるのなら、雨の元となる水を北に配したとしても何ら不自然ではありません。八卦が水を北に配したのは陰陽五行の思想からではなく、偏に雨が天から降るという自然の事実からなのです。
八卦方位の決まり事
古代人は神よりも水を優先させました。その証拠に、八卦の象徴のなかで水とかかわりのあるのが沢、水、雷と三つあります。これをその他と比べてみると、地つまり大地にかかわるのが地と山とで二つ、天つまりは空にかかわりのあるのが天と風との二つ、残り火が一つとなり、水にかかわるものが一番多いのです。無論、この分け方には異論があると思いますが、これは古代ギリシャの四大元素(地水火風)論にも繋がるものであり、古代中国にもそうした考えはあったとするべきでしょう。
ところで、これまで示してきた八卦方位図、実は、古代人が見ていたものとは南北の向きが逆になっています。左の図が、その本来の向きです。
古代社会では、文物のすべてが天子一個人のものとされています。したがって、南面する天子が方位図を見た場合、北が手前となり南がその向こうとなります。そういうわけで、方位図はすべて南が上となるように描かれているのです。
天子南面が古代の常識なら、家臣北面もまた古代の常識です。そして、このことから主従の関係とは南北の関係であることがわかります。これを五行で表わせば、水剋火となるわけです。八卦方位図には明らかに南北の対峙があります。天と地の対峙、水と火の対峙そして山と風の対峙です。そう、山は風を遮るのです。
左は、南北関係a、東西関係b、対角線関係cをそれぞれ別個に示したものです。
先ず、南北関係に目をやりますと、四角で囲っているそれぞれの八卦の爻が東西軸を境にして反転させた鏡像関係にあることがわかります。これを言葉にしますと対峙あるいは対立となります。
次に、東西関係。最初に、一番上の風と地。風は乾の卦の最初の爻が陰を得た形です。言葉にしますと、乾(陽)が地(陰)に近づいている、つまりは移動接近を表わすいわゆる協調のことです。次いで、雷と沢。雷は沢の卦の真ん中の爻が陰を得た形です。また、沢は雷の真ん中の爻が陽を得た形です。言葉にしますと、水(陰)を求める沢の形が雷、雷が水を手放した形が沢となります。つまりは雷雨が沢を潤すということで、これも協調となります。次いで一番下の山と天。山は坤の卦の一番上の爻が陽を得た形です。言葉にしますと、坤(陰)が天(陽)に近づいている、つまり接近を示し協調を表わしています。
最後は、対角線の関係ですが、最初から言葉にしますと、天の膨張が風となり、地の膨張が山となった。つまりは、発展や進化を表わしています。
思うに、対立、協調、発展はどの社会においても常に見られる現象です。古代人は社会のあり様を、様々の角度からの自然を通して捉えようとしているのです。方位図の南北線や東西線や対角線、これらを単純に捉えれば、それらは上下の関係であり、左右の関係であり、変化の関係となります。日は、東より西へ、下から上へ、上から下へと変化を交えて移動します。あるいは、その様に捉えても良いのかもしれません。
古代は迷信の支配する社会です。しかし、迷信が支配したからといって、その素朴さが変わるわけではありません。古代は、見た通りの社会です。複雑に捉える必要はありません。そこで、最後に雷と風がなぜ東と東南に位置するのかを単純に考えてみますと、これは台風に関係しているとも見えます。と言うのも、中国に近づく台風は東か東南からに限られるからです。