古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

形としての8。太安万侶の道標、その16

 今日、いや昔から我々は8を末広がりの縁起のいい数として捉えています。しかし良く考えてみれば、これは八という漢字が大陸から伝わって以降のことであり、日本古来からの捉え方ではありません。また、「記紀」にしても8を、八十、八十万、八百万といった、とにかく数が大きいことを表わすことに用いているようですが、これとて八卦の思想が伝わって以降のことでなければ、8をそのような意味で使うことはできないはずです。
 八卦の思想がいつ頃伝わったのか、それは分かりません。ただ、「隋書俀国伝」に阿毎多利思比孤の国の制度として "八十戸に一伊尼翼を置く"という記載があります。おそらく、600年代頃までには伝わっていたと思われます。そして、やがては形としての8が現れて来るようになります。

八角形と天皇の御世

形としての8は、奈良時代以前だと八角墳に、それ以降だと八角堂にその姿をとどめています。ただ、仏教建築である八角堂は、八角円堂ともいわれるように円の代用とみなすこともできます。また、八角墳にしても、これを天円地方の組み合わせである上円下方墳の変形とみなすこともできなくはありません。しかし、円墳や方墳は八角墳以前より存在しています。しかも、八角墳には単なる八角墳と上八角下方墳の二種類が存在し、素人目にも円墳と方墳の単純な組み合わせではないことだけは明らかです。
 ところで、形としての8の姿をとどめているものがもう一つあります。それは天皇の玉座である高御座(たかみくら)です。高御座という呼び名がいつの頃よりあるのかはわかりませんが、『日本書紀』には "壇場" と書いてタカミクラあるいはタカトノと読ませている記事が清寧・武烈・天武の紀に見えます。また、必ず "壇場を設けて" と記載されていることから即位や儀式の場合にのみ用いていたと思われます。ただ、武烈から天武までの200年近くの間、壇場を設けたという記事は見られず、壇場の設置は天武が最初であった可能性があります。そして、その時の壇場が八角形であった可能性もあります。

治天下天皇の御世から馭宇天皇の御世へ

 「記紀」に、"やすみししわがおおきみ" とほめたたえる歌謡があります。『記』の場合は漢字の音表記ですが、『紀』はすべて "八隅知" と訓で表記しています。八隅とは、八つの方位の隅のことで、八紘あるいは八荒ともでき、国や世界の隅々ひいては天下を言い表す言葉といえます。そうなりますと、"やすみししわがおおきみ" とは治天下大王の歌謡表現ということになりそうです。さて、古代での治天下という表現は、古くは江田船山古墳鉄刀の銘文にまで遡りますが、書は張安という半島系の人の手によるもので、歌謡表現の "やすみししわがおおきみ" の時代とはかなりの隔たりがあります。したがって、そういう意味でのもっとも古いものとしては船氏王後の墓誌ということになります。これが出来たのが668年で、天武の時代に非常に近くなっています。

惟 船氏故王後首者 是船氏中祖王智仁首児那沛故首之児也 生於乎沙陁宮治天下天皇之世 奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝 至於阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異 仕有功勲 勅賜官位大仁品為第 三殞亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅 故戊辰年十二月殯塟於松岳山上共婦安理故能刀自同墓 其大兄刀羅古首之墓並作墓也 即為安保万代之霊其牢固永刧之寶地也
①《王後の墓誌

 なお、八紘に関しては、神武紀に "八紘をおおいて宇とせんこと、亦よからざらむや" とあります。また、「古事記序文」には "天統を得て八荒を包む" ともあります。古代、天皇の御世を "治天下天皇" から "御宇あるいは馭宇天皇" に変わった時期があったとされていますが、思うに、御宇や馭宇に至るには、先ず御世という表現の時期がなくてはなりません。船氏王後の墓誌には、単に "天皇之世" とあるだけで御世とはありません。御世という表現は「古事記序文」に二度ほど用いられていますが、御宇や馭宇の表現は序文にはありません。このことから、序文の書かれた和銅年間には、御宇や馭宇の表現は無かったと思われます。
 馭宇の公的表現は養老五年十月の元明天皇の詔 "諡号は、其の国其の郡の朝廷馭宇天皇と稱せ" が最初です。また、この年の前年に『紀』完成の奏上が『続紀』に載っていることから、御世、さらには御宇や馭宇の表現は史書編纂の過程で生まれたものと思われます。思うに、御世は和文表記です。この和文表記を漢文表記らしくしたのが御宇や馭宇の表記だったのではないだろうか。そして、その本となったのが神武紀の "八紘をおおいて宇とせん" であったのかもしれません。
 では、御世の表現はいつ頃からあるのだろうか。御世の表記ではありませんが、"御" を同じように用いて、しかも王後の墓誌と同時代に書かれたと思われる金石文があります。

池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時 歳次丙午年 召於大王天皇與太子 而誓願賜我大御病太平欲坐 故将造寺薬師像作仕奉詔 然當時崩賜 造不堪 小治田大宮治天下大王天皇東宮聖王大命受賜 而歳次丁卯年仕奉
②《法隆寺金堂薬師如来像光背銘》

丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也
③《野中寺弥勒像》

との二つです。
 紀年銘からみる限り、①の王後の墓誌が書かれたのが戊辰年(668)、②の金堂薬師如来は丁卯年(667)、③の野中寺弥勒像は丙寅年(666)となります。無論、②の金堂薬師如来については見当違いと指摘するとは思いますが、しかし①②③の文を見比べた場合、同じ時代に書かれたように見えることもまた確かです。とりわけ問題の②には、①にも③にも共通するキーワードがあります。それにしても、三年も続けてこうした金石分が出来たというのも不思議な気がします。あるいは、667年を境に何かがあったのかも知れません。『紀』によれば、667年に近江への遷都が敢行されています。
 8からは随分と離れてしまったようですが、こうした日本語的な文章には、その時代の話し方が反映されているように見えます。②と③押しなべて丁寧な敬語表現となっているのはそのせいでしょう。特に②は優しささえ感じられ、同じ法隆寺の金堂にある釈迦三尊像光背銘とは時代背景がまるで違っているようにさえ思えます。この釈迦三尊像光背銘ができたのが623年ですから、②とでは半世紀近くの隔たりがあるということになります。おそらくそれで好いのだと思います。
 思うに、文字による情報の記録が文であり文章です。これは読むことによって情報が引き出されます。また、言葉による情報の記録が話しであり語です。これは語らせるあるいは話させることによって情報が引き出されます。
 稗田阿礼が誦んだとされる『記』、ここには "御" を接頭語とする言葉がたくさん出てきます。『記』は②とそれほど遠く離れていない時期に話し言葉で書かれた語り物ということなのでしょう。それはさておき、古事記本文には御世を表わす言葉として "御世" と "治天下" の他は何もありません。つまり、天武の時代には "八紘" あるいは "八荒" は未だ掘り起こされていなかったということになります。しかし、周知のように天武は、八色の姓と、諸王と諸臣の合わせて8種60階の位階の制度を制定した天皇でもあります。しかも、彼の制定した制度はすべて8とかかわりがあり、正に8尽くしの観があるのです。そして、おそらく「古事記序文」が示す "昇りて天位に即きたまいき" 天皇である彼が天位に即くために昇った "壇場" は8角形であったはずです。
 それならば、天武の8は何処から来たのであろうか。しかし、その前に彼が定めた位階の制度を少し見てみましょう。

諸王12階 諸臣48階
明位 浄位 正位 直位 勤位 務位 追位 進位
4階 8階 8階 8階 8階 8階 8階 8階

 左は、天武が制定した位階を表にしたものです。位階は、明位から進位までの8種類、そのそれぞれに大と広の2つの階があり、明位を除くそれらの2階のそれぞれがさらに4つの階に分かれ、明位が4階になる以外はすべて8階となり、すべて合わせると60階になるというものです。
 ところで、この位階の構成数"1・2・4・8"、何かに似ていると思いませんか。そう、これは八卦の生成の構成数と同じなのです。しかも、あと4階を加えることが出来れば64階となり、易の64卦そのものになります。そこで、あとの4階を加えてみましょう。思うにそれは、太后天皇、皇后、太子の4階であったはずです。
 そもそも位階制定の時代、位階は天皇が自身と太子を除いた皇親と諸臣に与えたものです。したがって、与える側に位階がないのは当然です。しかし、天皇の位、太子の位という地位はあります。当然、太后や皇后にもあるはずです。
 「記紀」の時代延いては「記紀」の編纂された時代、太后や皇后がなんの抵抗もなく天皇位やそれに匹敵する地位ついたとする史実や物語があります。記紀の時代、それは取りも直さず天武の時代ですが、太后天皇、皇后、太子の地位は同等に近いものであったのやもしれません。少なくとも、太后、皇后、太子はそうであった可能性があります。そのように考えれば、"おおきみは神" と称えられた時代、明位の明は神明の明とするのが妥当かもしれません。もしそうであるなら、天神地祇の神明の位階は、天に4階、地に4階、合わせて8階があることになります。思うに、明こそは日月を表す文字。すなわち、陰と陽、天と地を表す文字なのです。
 なお、天武紀によれば明位を授かった者はいません。また、太子である草壁が位階を授けられたのも不可解です。草壁は果たして太子だったのか。歴史、すなわち歴史書。我々が今日歴史と呼んでいるものの本をたどれば歴史書に行きつきます。『紀』は事実も記すが、そうでないものも記す。②の法隆寺金堂薬師如来像光背銘にしても紀年銘通りの667年とすればすべて一つの齟齬もなく前後の金石文とつながるのです。8という数や紀年銘金石文がそのことを語っているようにも見えます。
 それにしても、天武を初め古代の日本人が8に思いをかけるさまには、並々ならぬものがあるようです。しかし、高御座と八角墳、古代人はどちらもが八角形であることに戸惑いを感じることはなかったのだろうか。生者と死者、そのいずれをも八角形の中に納めても良し、納まっても良しとする発想は何処から来たものなのだろうか。
 思うに、納めるあるいは納まるという以外、つまり八角形の上に立つあるいは座るということであれば、これを仏教に求めることは可能です。それは、仏像の多くが蓮華文を台座としているからです。そして、この蓮華文の基本的な形が、八弁の蓮華文なのです。
f:id:heiseirokumusai:20170717211316j:plain  左のⒸⒹⒺは、蓮華文を台座としている弥勒と観音像です。Ⓒは③の野中寺金銅弥勒菩薩半迦思惟像。画像は、門脇禎二・水野正好編の吉川弘文舘出版 河内飛鳥 より借用。Ⓓは百済観音像、Ⓔは九面観音像です。どちらも法隆寺の有名な菩薩像です。画像は、高田良信小学館出版 法隆寺の謎と秘話 よりの借用。
 なお、借用とは言っておりますが無断借用でございます。ⒶとⒷもやはりそうでございます。この二つは、森郁夫著ニュー・サイエンス社発行 考古学ライブラリー 43 瓦 からの借用です。なにとぞ御容赦のほどを。
 仏といえば蓮の花。仏像に蓮華文は欠かせないというのが日本に普通にある常識です。しかし、日本への蓮華文の最初は小さな仏像、たとえばⒸやⒹのような形で入って来たと思われます。そして、それらは一部の人の目に留まるだけでのものでしかなかったと思います。それが今日の常識を生み出すほど多くの人々の目に留まるようになったのは、やはり寺院の屋根の軒先を飾る瓦当て文様からだと思います。
 ⒶとⒷは寺院の軒先を飾った瓦当ての文様です。Ⓐは蓮華文のようには見えませんが、しかも六弁しかありません。実は、これは高句麗の瓦です。高句麗は古くから中国文化と接していたため瓦当ての文様も非常に簡略されたものとなっています。Ⓑは奥山の久米寺のもので見ようによっては八角形に見えなくもありません。なお、Ⓓの台座は6角形、Ⓔの台座は8角形となっており、台座と瓦当て文様とは何らかのかかわりがあるように思えます。それに、寺院には八角堂の他に六角堂も存在します。とは申しても、円の等分割は6や8が一番簡単だからと言われてしまえばそれまでの事ではありますが。
 ところで、寺院と言えば瓦、瓦と言えば蓮華文。それが当時の常識です。と言うのも、そもそも瓦は寺院で利用するためだけに日本に入ってきたものだからです。つまり、瓦と蓮華文すなわち寺ということなのです。それが何故か、藤原宮にも平城宮にも蓮華文の瓦が使われています。中国のように瓦やその文様が仏教とはかかわりなく発展していった国ならばともかく、日本のような事情では何らかの抵抗を感じると思われるのだが、それともこれも高御座と八角墳の場合と同じようになんの戸惑もなく受け入れたのだろうか。あるいは、天皇は神であり仏であるということなのかもしれません。
 無論そうしたこととは関係なく、高御座や八角墳を道教や古代中国の政治思想の影響として捉えることも可能です。しかし、その道教等にしても八角形を天下八方と主張できるのは八卦八方位の思想があって始めて可能となるものなのです。なぜなら、方位には八方位のさらに上の十二方位があるからです。かって日本では東南を巽(たつみ)、北西を乾(いぬい)と呼んでいました。巽は辰巳のことで、十二支の方位の辰と巳の方角を指し、乾は戌と亥の方角を指しています。そういう訳で、この十二方位から天下を見れば、天下八方とは呼べません。つまり、天下を八方で良しと言えるのは、偏に八卦のおかげなのです。

八卦と8。太安万侶の道標、その15

 造化三神に別天津五神、果ては神世七代。「記神話」は欲張りである。それにひきかえ中国では三皇五帝で終始しています。
 思うに、太極と両儀とで簡単に三神が出来ますが、四象を五神とすることは簡単には出来ません。「記神話」が苦労をしたことだけは確かでしょう。記神話 "天地の初めの時" 、これには編纂当初からいろいろの解釈があったようです。
 ところで、古今の日本において、7、5、3の他に、8も聖数とする慣習があります。8の使われ方は、特に古代においては、八島、八雲、八咫鏡、八十、八百万といった、とにかく数が大きいことを示すことに専ら使われているようです。しかし、それなら8がなぜ大きいものを表わすことが出来るのか、…
 思うに、それはやはり八卦が森羅万象を表わせるからでしょう。

国生みと8

古事記』神話では、国生みは先ず大八島を生み、次に六つの島を生んで完了します。この場合の八は文字通りの8で、6と共に地の数を示しているとも言えます。そこで、これを下の表のようにまとめてみますと、いろいろと面白いことが言えるようになります。

8島 6島
島名 別名 場所 島名 別名 場所
淡道之島 穂之狭別 内海 吉備児島 建日方別 内海
伊予之二名島 (四つの国) 内海 小豆島 大野手比売 内海
隠伎之三子島 天之忍許呂別 外海 大島 大多麻流別 内海
筑紫島 (四つの国) 外海 女島 天一 内海
伊伎島 天比登都柱 外海 知訶島 天之忍男 外海
津島 天之狭手依比売 外海 両児島 天両屋 外海
佐度島   外海  
大倭豊秋津島 天…豊秋津根別 外海  

 先ず、場所に注目しますと、内海のグループと呼べるものが6、外海のグループと呼べるものが8となっています。内海というのは瀬戸内海のことです。なお、四国の南部は外海にも面していますが、その呼び名を伊予之二名島としているように、古代人は四国を瀬戸内海側から捉えていることから、これは内海のグループとできます。また、そういう意味で九州筑紫島を見ると、これは外海のグループとなります。
 さて、国生み神話の最初の舞台が瀬戸内海だとしたら、実は内海に属する島は8となります。と言うのも、国生みの最初の段階で、伊邪那岐伊邪那美は水蛭子と淡島とを生んでいるからです。この二つを内海グループの6に加えれば8となります。
 次に、別名の中の"天"の付くものを探してみますと、7島ほど拾うことができます。このうち女島を除く残り全部が外海となっています。このことから、"天"の付くものは基本的に外海に属しているものである可能性が高くなってきます。そこで、別名の記載のない外海に属している佐度島にも"天"の付く別名があるとしたら、"天"の付くものがやはり8となります。
 しかし、それにしても、なぜ内海の女島に "天" が付いているのか。実は、これも8とかかわりがあるからなのです。
 "天" の付く女島を内海グループから引き離すと、淡道島から大島まで5島が残ります。このなかの伊予之島は4ヵ国で出来ていますから、伊予之島の代わりにこの4ヵ国を残りの4島に加えると8になります。女島を除くこの8は、言ってみればいわゆる四国エリアとも呼べそうです。つまり、女島は四国エリア外という意味で "天" を付けたのかもしれません。
 そして、そうなりますと、次に九州エリアと呼べるものがないのかということになります。
f:id:heiseirokumusai:20170710195847g:plain  筑紫島は伊予と同じ4ヵ国よりなります。したがって、残り4島を決めれば九州エリアの8が出来上がります。候補としては外海に並ぶ、伊伎島、津島、知訶島、両児島の4島が最適となります。両児島については正確な比定はされていないようですが、島の生まれた順序としては、この島は最後でしかも西の端ということであり、いずれにしても九州エリアということになります。それにしても、四国エリアにも九州エリアにも属していない女島は本州エリアと言う他はないようです。実際、図15aの四国九州エリアを取り除くと、女島は本州の西南端の外海にあるようにも見えます。
 それでは、佐度島と隠伎之三子島と女島大倭豊秋津島とで本州エリアを作りあげてみましょう。先ずと言っても、クリアすべき条件はたったの一つしかありません。その条件とは、大倭豊秋津島を5と数えることです。さて、『日本書紀』には四道将軍の話があります。四道とは基本的には四方を指します。四方、とは言っても現実にはどこかに中心を設けないと四方は存在しません。当時ですと、その中心は大和になります。つまり、大和と四道とで5となります。『古事記』には四道将軍の呼称の記載はありませんが、何とかの "道" に何がしの命を派遣したという話はあります。そもそも「記紀」の編纂された時代は、陰陽・五行・八卦が生きていた時代でもあります。あらゆる所にそれらの思想が入り込んでいる可能性があります。つまり、大倭豊秋津島に五方が完備して初めて国生みが完成するのです。

神生みと8

 八十神、八十万神、八百万神、「記紀神話」には神の多さを八を用いて表わしています。思うに、古代中国人は八卦を用いて世界を言い当てようとしていました。あるいは、古代の日本人は神を用いて世界を言い当てようとしていたのかも知れません。

A 1 大事忍男神
2 石土毘古神
石巣比売神
3 大戸日別神
4 天之吹男神
5 大屋毘古神
6 風木津別之忍男神
7 ⒏大綿津見神
8 速秋津日子神
速秋津比売神
B 1 沫那藝神
2 沫那美神
3 頬那藝神
4 頬那美神
5 天之水分神
6 国之水分神
7 天之久比奢母智神
8 国之久比奢母智神
C 1 志那都比古神
2 久久能智神
3 大山津見神
鹿屋野比売神
D 1 天之狭土神
2 国之狭土神
3 天之狭霧神
4 国之狭霧神
5 天之闇戸神
6 国之闇戸神
7 大戸惑子神
8 大戸惑女神
E 1 鳥之石楠船神
2 ⒉大宜都比売神
3 ⒊火之夜藝速男神
4 金山毘古神
金山毘売神
5 ⒍波邇夜須毘古神
⒎波邇夜須毘売神
6 ⒏彌都波能売神
7 和久産巣日神
8 ⒑豊宇気毘売神

 左は、「記神話」神生みのくだりを、神話の進展どおりに生まれた神々の名を上から下へと書き連ねたものです。ここで生まれた神の総数は40神ですが、なぜか記神話は国生みと神生みの段の最後のまとめとして、これを35神としています。この数え方についてはそれなりの理由があるのですが必ずしも明確というわけではありません。とゆうのは、記神話はAのくだりを10神、Bを8神、Cを4神、Dを8神、Eを8神と数えているためです。そう、これらを合わせると38神となってしまい、40神にも35神にも当てはまらなくなるのです。
 40神を35神と数える「記神話」の常套手段としては、"天地の初め"の段にもあるように男女一対の神を1神と数えることです。しかし、この条件を満たすすべての組み合わせにこれを当てはめると、Aは8神、Bは6神、Cは3神、Dは7神、Eは8神となり、合わせると32神と数え方としては最も少なくなってしまいます。また、Eの伊邪那美の同じ尿から生まれた彌都波能売神と和久産巣日神を男女一対神と見做せばさらに少なくなります。
 思うに「記神話」は、Aを10神、Bを8神、Cを4神、Dを8神、Eを8神と数えているように、地の数ここでは10・8・4ですが、その中でも特に8にこだわっていることが見て取れます。8は地の数の中では最大のものでもなければ、易でいう老陰の数でもありません。しかし、国生み以降の記神話の舞台は天上の高天原ではなく地上であります。地上とは天地間のことであり八卦の世界でもあります。八卦の八という数が主役となる世界と見るべきなのかもしれません。
 さて、前章では10を8と数えたり、12を10と数える話をしましたが、この段では記神話が10を8と数えてもいるようです。神話はEのくだりの10神を"天の鳥船より豊宇気毘売神まで併せて8神"としています。なお、天の鳥船は鳥之石楠船の別名です。そこで、Aの10神を8神とすれば、合わせて36神となります。さらに、Cの4神のなかでDの神々を生む大山津見神鹿屋野比売神を男女一つの神とみなせばCは4神となり、すべて合わせれば記神話のいう35神となります。
 35神の35という数は、3と5という天の数で出来ていますが。神話の流れが、天上の神が生まれ、そして地上での神が生まれるとなっているように、天の数の3と5から地の数の8が生まれるというシナリオを「記神話」は考えているのかもしれません。
 八卦は天地間の事つまり地上での現象を問うものです。そういう意味では、八卦は天上には存在しないともいえます。それになにより、八卦の八は地の数の8です。そういう意味では天上には四方も存在しないのかも知れません。天上にあるのは五方です。五方は、地上にもありますが、古代の日本人、特に天武以降の人々は五方よりも八方を用いたように見受けられます。

八卦の生成と記紀神話 太安万侶の道標、その14

陰陽には善悪も醜美も喜怒もありません。しかし、森羅万象を陰陽二元論で説く古代人は、万物を陰と陽に分けました。したがって、善をも悪をも醜をも美をも当然分けたはずです。そして陰をも陽をもです。

八卦の生成と記紀神話

 陰を陰と陽に分ければどうなるか、言葉をかえれば "陰が陽に転化した、あるいは陰が陽を産んだ" となります。卦図を用いて説明しますと、①☷→☳と②☷→☵と③☷→☶の三つの状態を指します。これは坤が、①では一番下の陰爻が陽爻に転化して震に、②では真ん中の陰爻が転化して坎に、③では一番上の陰爻が転化して艮になったものです。ちなみに易ではこの変化する爻を変爻と呼び、それが陰爻である場合は老陰、陽爻である場合は老陽と呼びます。そして、この変爻があることによって一つの筮占から本卦と之卦(シケ)という二つの占い結果が出てくるようになるのです。そこで、改めて易の卦図について少し説明を加えておきましょう。
f:id:heiseirokumusai:20170703205408g:plain  左図14aは筮占より得られた卦を示したものです。左端の1から6までの数は爻の順位を示す数です。普通は1は初、6は上と表記します。下から数えるのは、机上や前面に卦を展開した場合、自身から見て一番近い手前が下になるからです。又そのために、1から3までの爻を下卦あるいは内卦と呼び、4から6までを上卦あるいは外卦とも呼びます。なお、易の操作、筮占は爻を導き出す為のもので、この筮占からは4種類の爻が得られます。老陰、老陽、少陰、少陽の4つがそれです。老陰・老陽は変化可能な爻、少陰・少陽は変化不可能な爻です。f:id:heiseirokumusai:20170703205952g:plainただ、「─」と「--」という二種類だけの爻の記号では老少の区別はできません。それで、易ではこれらを区別するために新たな記号を加えたり、数字や漢字等を用いて表してもいます。→図14b参)
 さて、筮占により64卦のうちの地という卦が出ました。これが本卦です。しかし、初爻に変爻の老陰があるために卦が変わってしまい64卦のうちの復という卦になります。この変わって之(ゆ)く卦の意からこれを之卦と呼ぶのだそうです。なお、占断には本卦と之卦を踏まえ、本卦の変爻の辞に拠るとされています。ところで、易の卦の上卦を無視すると八卦の坤が震に変わったのと同じことになります。そして、坤もそのまま残ります。つまり、陰が陰と陽に分かれたということです。どうやら、八卦の生成には変爻の思想がかかわっているようです。

八卦生成の順序

 八卦は陰と陽の二つだけの組み合わせが生み出すものです。したがって、2進数表示が可能となります。ただし、2進数表示とは2進数で数えること、つまり一つずつ加算していくことで、必ずしも都合のよい順で揃って生成するわけではありません。

1 2 3 4 5 6 7 8
0 1 2 3 4 5 6 7
000 001 010 011 100 101 110 111

 左の表のAは三爻の組み合わせを二進数で表したものです。000から始め1づつを加算していって111になるまでを示しています。10進数では0から7になります。Bは0を陰、1を陽とした場合の八卦図と八卦名です。これを見ますと、兌と艮が小陰あるいは小陽それぞれのグループから外れています。また、加算展開ですので元の値に戻っての循環もありません。ただ、二進数には1に1を加えると桁上がりをして0になる、ある意味での変爻に似た働きがあります。とは申しましても、0に0を加えても桁上がりはありません。
f:id:heiseirokumusai:20170703210153g:plain  左図14cは、内容や形を少し変えてはいますが、八卦の解説書などでよく見かける八卦生成の木構造図と同じものです。本来の木構造図は、古来からの易の解説文献「繋辞伝上」にある太極→両儀四象八卦という八卦生成の過程を、南宋朱熹(1130~1200)が陰陽の爻記号を用いて説いたものを図としたものです。ただ、ここではその図を基に次の二つの観点から少し変形を試みています。
 先ず、節点から陰陽二俣の枝の出る木構造とする事。次に、八卦の順序を2進数に合わせる事。この二つです。前者は、陰からも陽からも陰陽が生まれるという一貫した流れをこの木構造に持たせる為の必要不可欠な原則です。後者は、というよりも後者を成立させるには、爻を上に重ねるのではなく下に差し込んでゆく必要があります。これは筮占によって初爻から上爻へと爻を導き出していくやり方とは逆になりますが、ここでの爻は導き出した爻ではなく最初からある変爻ですので差し込んだということにはなりません。そして、その最初からある変爻とは太極のことです。
 図14cを文章に直しますと、"太極から両義が生まれ、太極と両義から四象が生まれ、太極と四象から八卦が生まれる" となります。これは、"太一から水が生まれ、太一と水から天が生まれ、太一と天から地が生まれる" とする⒓章で述べた竹簡文書「太一生水」と同じ古代の論理に合わせたもので、太極→両儀四象八卦をそのように解釈しても齟齬は出ないと思います。なお、原文では "易有太極 是生兩儀 兩儀生四象 四象八卦" となっていて、"太極と" という言葉はありませんが、「荘子斉物論」に "一と言えば一と一と言った言葉とで既に二であり、二と言えば二と二と言った言葉とで既に三である" といったようなことが書かれています。荘子は、1は100よりも大きい、あるいは同じであるとも説いているのですが、それには言った言葉を補えとも言っているのです。つまり、古代にはそうした考え方もあるのです。
 さて、陰陽両儀を生じる太極は変爻です。変爻ですから老陰か老陽のどちらかとなりますが、太極の最初はどちらでもかまいません。しかし、両儀の陽以降は老陽としての太極が残り、両儀の陰以降は老陰としての太極が残ります。そして、太極が残るのは常に初爻の位置です。太極とは荘子の謂う "何々といった言葉" のことなのかもしれません。
 素人の考えを長々と述べてまいりましたが、木構造以外は一試論であり一私論でもあります。しかし、易の解説文献「易伝」は易経成立後に出来たものです。したがって、其処にはこじつけや無理強いがあると見るべきでしょう。それはある意味での誰かの試論であり私論であると思います。さて、そこで今度は古代の素人の考えを見てまいりましょう。

独り神と男女一対の神
太極 両義 四象 八卦
天之御中主 高御産巣日 宇摩志阿斯
訶備比古遅
宇比地邇
須比智邇
天之常立 角杙
活杙
神産巣日 国之常立 意富斗能地
大斗乃弁
豊雲野 於母陀流
阿夜訶志古泥

 左は「記神話」、"天地(あめつち)の初めの時" の段に登場する神々、天之御中主から伊邪那岐伊邪那美までの神を太極・両義・四象八卦の枠組みの中にそれぞれの意味する数の分だけ出現の順序に従って割り振っていったものです。八卦の枠に伊邪那岐伊邪那美が収まっていませんが、「紀神話」の本文と一書の第一では男女一対の神は4組8柱となっており、伊邪那岐伊邪那美はその二例の中に常に含まれています。
 なお、「紀神話」では、本文の他に一書の第一、一書の第二、そして次の箇所の一書の第一の都合三例の他書からの引用があります。その三例のうち、前から二例は親子関係を述べたもので、おそらく神世七代に関しての引用だったと思われ、男女一対の神についての引用例とはできません。したがって、男女一対の神は4組8柱というのが「紀神話」の見解と見えます。ただ、本文と最後の一書とでは4組中の一組が異なっているようです。その異なっている一組というのは、本文では「記神話」のいう意富斗能地と大斗乃弁の組がそれであり、一書では角杙と活杙の組がそれに当たります。
 「紀神話」は読む限りにおいては八卦の枠に都合のよい4組8柱なのですが、もしかしたら、一書には意富斗能地・大斗乃弁が、本文には角杙・活杙がそれぞれ抜け落ちていると考えなければならないのかもしれません。しかし、あるいはそれよりも一組を抜かしてでも4組8柱にしなければならなかったと考えるべきなのかもしれません。
 ところで、『日本書紀』の冒頭には、"古、天地未だわかれず、陰陽分れざりしとき" とする一文があります。これは『淮南子』からの引用とされていますが、『淮南子』ではそれに続けて、"四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず" とあるのだそうです。これは、太極(天地)、両儀(陰陽)、四象(四時)、八卦(萬物)に即置き換わるもので、「紀神話」の4組8柱は八卦に合わせたものと言えなくもありません。もしそうだとすれば、「記神話」は逆に一組多いということになるのかもしれません。実際、『古事記』の序文冒頭に

 臣安万侶言さく、それ混元既に凝りしかども、気象いまだ敦くならず、名も無く為も無く、誰かその形を知らむ。然れども乾と坤と初めて分かれて、参神造化の首と作り、陰と陽とここに開けて、二霊群品の祖となりたまひき。
《角川文庫・新訂古事記武田祐吉訳注》

とあるように、『古事記』にも陰陽八卦の影響が色濃く反映しています。無論、安万呂の序文と稗田阿礼が詠んだ天武時代の本文とでは時代の隔たりはありますが、天武は天文遁甲の占いを能くしたともいわれています。そう、そうした占いの基本は陰陽八卦にこそあるのです。
 では、「記神話」に多い一組とはどれを指すのだろう、意富斗能地・大斗乃弁か、それとも角杙・活杙か。実は、伊邪那岐伊邪那美がそれになります。周知のように、伊邪那岐伊邪那美は「美"斗"のまぐわい」の神でもあります。つまり、伊邪那岐伊邪那美は意富"斗"能地と大"斗"乃弁の別名とも読み取れるのです。神話では、意富斗能地・大斗乃弁の次に於母陀流・阿夜訶志古泥がきます。この於母陀流・阿夜訶志古泥を"美斗のまぐわい"の段の表現に置き変えると、「あなにやし、えおとめを」・「あなにやし、えおとこを」となります。"まぐわい"は"目合"ともでき、じっと於母(面)を見合うことでもあります。於母陀流は「紀神話」では面足と書いています。
 思うに、伊邪那岐伊邪那美の神は次の段の国生みや神生みの神話の主役であります、あるいは意富斗能地・大斗乃弁をこの段の話しに相応しい名前に改めたものか、あるいは本来別々の話であったものを組み合わせたために一組分多くなってしまったものか、それとも別天津神を5柱とし、神世を7代としたために一組分多くなってしまったものか、いずれにしても伊邪那岐伊邪那美と意富斗能地・大斗乃弁とを同一と見做せばすべての神々がすべての枠に過不足なく収まります。そしてそうなりますと、天之御中主から豊雲野までの7柱を「記神話」が "独神(ひとりがみ)"と呼ぶことにも納得が行くことになります。
 なお、「記神話」が八卦の枠外の7柱を"独神"と呼ぶのは、男女一対の神あるいは陰陽一対の神に対比してのものではなく、八卦として成り立っていないという意味での呼び方と見えます。つまり、八卦として成り立てば、易としても成り立つからです。なぜなら、易は常に八卦二つを対として成り立っているからです。

聖数に貪欲な記神話

 図14cの基となる図は12世紀南宋の頃の考えによるものですが、天武や安万呂の時代にもこれと良く似た考えのあったことが記紀神話から伺えるようです。ただ、前章でも述べたことですが、「記神話」はここでも数あるいは数の流れにこだわっていて、こうした考えを活かそうとしていないようにも見えます。そのことは、7柱の独神を神世七代とすればすこぶる簡単明瞭となるものを、最初の3柱を参神造化、さらにはこれに2柱を加えた5柱を改めて別天津神と呼び、最後は互いに性格の違う2柱の独神と5組の男女一対の神とをわざわざ組み合わせて神世七代と呼ばせていることからもうかがえます。また、ここでの数あるいは数の流れは、3・2・5・2・5・7で、これはおそらく3と2とで5、5と2とで7というものだと思います。加えて、3・5・7はいわゆる聖数で、天の数でもあり陽の数でもあります。
 そこで、『古事記』冒頭、"天地の初めの時" を数に置き換えてみますと、天は一、地は十となります。一は太一、つまりは太極。そうなれば、十は八卦とする他はなく、八卦は5組10柱となります。あるいは、「記神話」はそう考えて八卦枠に10柱をあてがったのかもしれません。無論、8を10と数える法則など何処にもありはしませんが。しかし、聖徳太子が制定した冠位十二階、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の中の、仁、礼、信、義、智の五つは儒教や五行での五つの徳、つまり五徳と呼ばれているものです。したがって、本来ならこの冠位は十階であったはずです。しかし、太子はそれらの総称の徳をも加えて十二階としました。つまりは10を12と数えたのです。
 八卦は天地間の事物事象すべてを表しているとされています。しかし、八卦の八方位は四方八方の八方位で天と地への方位はありません。したがって、天地への二方位を加えて十方位とすることによって、八卦は初めて天地間の事物事象への方位を整えたことになります。つまりは8を10と数えることになったわけです。
 一を聞いて十を知る。一と言えば、一と一と言った言葉とで既に二である。『論語』や『荘子』にある数を用いた喩え話です。ところで、『老子』に、"道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず" とありますが、この万物生成論、太極→両儀四象八卦という八卦生成論とそっくりに見えませんか。この『老子』については⒒章でも取り上げているのですが、今回はこれを八卦から解いてみましょう。


  太極 両儀 四象 八卦
生数 1 2 4 8
爻数 0 1 2 3
老子 1 2 3

 左は、八卦と万物の生成論をそれぞれの数に置き換えてみたものです。この表から八卦の爻数の欄と老子とのそれが全く同じだということが見て取れます。また、八卦が三爻によって天地間の事物事象すべてを表している事が、『老子』の万物を生み出す数が三で留まっている事の最大の理由のようにも見えます。三は聖数七・五・三の中では一番小さな数ですが、『荘子』が三よりあとは誰にも数えきることが出来ないと言っているように、三は人が捉えることのできる最大の数でもあります。そして、三爻よりなる八卦の八もまた最大の数といえます。